泡沫紀行   作:みどりのかけら

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音のない朝が、草を撫でていた。
靄の奥に、うすく光る何かが見えた。
それは名のない風景か、あるいは失われた声か。

地図には描かれない場所に、祈りの匂いが漂っている。
ただ、それに気づく者だけが、そこへ辿り着く。
誰かが残した記憶の輪郭が、石のかたちを借りて、静かに立ちあがる。

かつてここに、ひとつの波があった。
全てをさらい、全てを沈め、それでもなお、何かが残った。

残されたのではなく、残したのだと、風が教えてくれた。

そして歩き始める。
忘却と再生の狭間に、微かな鼓動をたよりに。


0244 潮の記憶を灯す祈りの館

空は、乳白の薄衣を纏ったようにやわらかく、音もなく陽が傾いていく。

風の輪郭が少しずつ濃くなり、砂の匂いが混じりはじめた。

浜辺から続く小径を辿る足の裏に、まだ日差しの残滓が宿っている。

草の葉は細く長く、風に擦れるたび微かな声を立て、どこか遠くで祈りが解けたような気配をふと覚える。

 

朽ちかけた柵に触れると、時間が逆巻くような感覚に包まれる。

木材のひび割れに指を滑らせると、そこには、ひとつひとつの刻みが、まるで掌の線のように記憶を宿していた。

誰かがここに立ち、空を見上げ、そして再び歩き出したのだろう。

それだけのことが、こんなにも重い。

 

ゆるやかな坂を越え、かすかに潮のにおいが濃くなったあたりで、石の壁がひっそりと現れる。

まるで海がその記憶を護るために削り出したような形。

光が差し込む隙間から覗くと、どこまでも静かな空間が広がっていた。

石と光と風だけが、時間を編んでいる。

 

外の音は、もう届かない。

ただ、空間の奥底に沈んだ何かが、ゆっくりと、呼吸を続けていた。

息づくのは誰の記憶か。

それとも、記憶そのものが生きているのだろうか。

 

壁に埋め込まれた石たちに手を伸ばす。

温もりも冷たさもなく、ただ静けさだけが指に宿る。

それぞれの石に、かすかな凹凸があり、それはまるで名も知らぬ言葉のように思えた。

読めない言葉でありながら、心のどこかに確かに届く響きがあった。

それは叫びにも祈りにも似ていたが、どちらとも言い切れず、ただ深く沁みてくるだけだった。

 

床に落ちる光の形が、刻一刻と変わっていく。

誰もいないのに、誰かがここにいる気がして、ふいに足を止める。

耳を澄ませば、かすかに波の音が聞こえる。

けれど、それは実際の音ではなく、どこか遠い記憶の中で鳴り続けているような、内なる響きだった。

 

石の奥に、ひとつだけ色の異なる面があった。

そこには刻まれた線があり、線のうねりは海のようで、風のようで、あるいは血潮のようにも見えた。

ほんのわずかに指先を近づけると、空気が震えたような感覚が走る。

そこだけが生きているような、そんな錯覚があった。

 

振り返れば、入口の向こうに広がる世界は、すでに別の色をしていた。

陽はほとんど傾き、影が長く伸びている。

それなのに、この場所の中には、どこにも影が落ちていなかった。

すべてが光の中に、あるいは記憶のなかに沈んでいた。

 

石と、風と、名もなき光だけが、静かに流れていた。

 

壁のきわに座り、目を閉じると、まぶたの裏に広がるのは海ではなかった。

風のない日。空を焼くほどの光。濡れた地面に小さく残る、誰かの足跡。

そのすべてが、声なき声で語りかけてくる。

名乗らずとも伝わるものがある。

語らずとも触れるものがある。

 

手のひらを地に伏せると、土の奥に脈打つものを感じた。

それは、遠くから響く太鼓のように、鈍く、そしてやわらかい。

何もかもが途切れたあとの静けさではなかった。

断ち切られた記憶の上に、再び芽吹くものの音。

それは、やがて草を揺らし、雫を育て、光を呼ぶ。

 

奥まった場所に、ひとつの石の輪があった。

輪の中心には何もない。

空洞であることが、逆に何かを満たしているようにも見えた。

そこに空が映り、風が通り抜け、時折、光が一筋差し込む。

その光の帯は、まるで魂の通り道のように見えた。

名もなき者たちが、そこをくぐって静かに微笑んでいる姿が、まるで幻のように浮かぶ。

 

歩き出すと、足元に白い小石がひとつ落ちていた。

拾い上げると、不思議なことにそれは温かく、まるで手渡されたばかりのようだった。

誰かが、ここに来た証。

誰かが、ここを離れた証。

 

風が、今度は東から吹いた。

わずかに潮の香りが戻る。

その匂いに含まれていたのは、懐かしさでも哀しさでもなく、どこか新しい始まりの気配だった。

 

記憶は、ただ過去に留まるものではない。

そこに宿る誰かの祈りが、今もなお未来に手を伸ばしているのだと、そう思った。

 

館を出ると、光の色が変わっていた。

夕の気配が差し込み、あたりはやわらかな金の粒子で満ちていた。

風の中には草の香りが混じり、どこか遠くで水の流れる音がかすかに響く。

そこに人の気配はなかったが、あらゆるものが呼吸していた。

 

一歩ごとに、地面がほんの少し沈み、戻ってくる。

足裏に感じる反発は、この大地が確かに生きているという証だった。

その感覚が、胸の奥でゆっくりと広がっていく。

 

振り返らずに進む。

名残はあったが、いまはもう、背中に静かな熱を感じていた。

風が背を押すわけでもなく、ただ、歩みが自然と前へと向かう。

道の果てには何もなくても、そこに向かう理由が確かにある。

それは、誰かのためであり、自分のためでもなく、ただ祈りのように、無言のまま息づくものだった。

 

やがて小道は草むらに溶け、空の色が群青に変わる。

足を止めると、星がひとつだけ灯っていた。

 

歩きながら、小石をひとつ、そっと地面に置いた。

それは誰にも見つからないかもしれないし、

いつか誰かが拾うかもしれない。

けれど、それでよかった。

 

風は穏やかに吹いていた。

そして、遠く、どこまでも静かだった。




空は、何事もなかったように晴れていた。
風が草を揺らし、雲がゆっくりと流れていく。
けれど確かに、石たちは覚えていた。

それぞれの面に宿る祈りの粒は、言葉にならないまま、時の奥で光を孕み、
やがて誰かの胸に触れる。

静けさは終わりではなく、始まりだった。
音を立てぬままに流れる水のように、そこには希望があった。

足元の大地は、確かに呼吸していた。
歩むこと、それが答えでなくても、誰かの記憶に寄り添うことができるなら、この道はまだ、続いている。

風が背を押す。
祈りは、灯し続けられている。
ひとつ、またひとつ。

静けさのなかに、確かに響いていた。
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