泡沫紀行   作:みどりのかけら

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石に、祈りが沈んでゆく音がした。
それは声ではなく、涙でもなく、遥かな時を越えてなお息づく、かつて誰かが願いを託した、ひとしずくの光の気配。

道なき道に足を運ぶとき、風はまだ名も知らぬ記憶を運び、枝の隙間からこぼれる陽に、遠い約束のぬくもりが宿る。

歩みはやがて、言葉を持たぬ語りへと変わる。
耳を澄ませば、石は静かに夢を語り、草は星の名を囁く。
それらすべてが、ひとつの「軌跡」となって、この地に、いまも眠っている。

忘れられた声の、その先へ。


0246 星を紡いだ語り部の軌跡

風を孕んだ石畳の先に、苔むした階段が淡く浮かびあがる。

雲は音もなく流れ、日差しは絹のように枝の隙間から落ちる。

枝先にとまる小さな翅の影が、葉の輪郭をゆらしていた。

 

重さを忘れた足音が、土と草の間に沈む。

湿った香りは記憶よりも深く、春と秋の名残りを同時に抱いていた。

手を触れずとも伝わってくる、岩肌の冷たさと、過ぎ去った雨の気配。

 

鳥が鳴いた。

声ではない。

音のようでいて、呼吸の一部のようでもあった。山を越え、空を撫で、時の端をすべる、風の手紙。

誰に届くでもなく、それはただ響いては消える。

 

苔の斑が刻まれた石碑の影に、ひとつぶの光がとどまる。

指でなぞると、微かにざらつく凹凸の中に、見えない言葉が眠っていた。

かつて語られ、風に忘れられた祈りの粒。

 

それらは空に消えたものではなく、地に残された夢だったのだと、ふと思う。

夢はやがて石になる。

風に削られ、雨に洗われながら、それでもそこに在りつづける。

 

道は緩やかに上り、やがて森の呼吸が深くなる。

土に埋もれかけた丸太の縁を越えると、遠くから陽の香りが押し寄せてきた。

乾いた木肌、ひび割れた根の奥に宿るぬくもり。

 

足元には、どこかでこぼれ落ちたような小さな実がひとつ。

つややかな茶の色が、光に透けていた。

拾いあげたとき、掌に広がる冷たさが、なぜか懐かしかった。

 

ふと振り返ると、歩いてきた道は霞のように消えかけていた。

けれども足は、確かにそこを踏みしめてきたはずだった。

ひとつひとつの段差を、音のない鼓動のように感じながら。

 

ここには、時間が降る。

葉の間に、石の隙間に、ひっそりと。

見上げれば、空は翳りも晴れも抱いたまま、ただ静かに佇んでいる。

 

鳥の羽ばたきが、ひとつの問いのように宙に溶けていった。

 

そしてまた歩く。

音のない風と、まだ見ぬ記憶と、名もない空白の狭間を。

歩くというより、沈むように。呼吸の奥に潜るように。

 

ひらけた場所に、石の屋根があった。

屋根というにはあまりに低く、けれども空を切り取るには十分な広さがある。

風がそこに留まり、言葉にならない声を孕んで揺れていた。

 

柱は、いくつもの手が触れたあとを刻んでいた。

乾いた掌、震える指先、なにかを託すような静かな体温。

それらはもうとっくに風の彼方へ去ったはずなのに、痕跡だけが、いまもここに残されていた。

 

腰を下ろすと、石の冷たさが背骨にそっと触れた。

そこには不思議な安堵があり、身を横たえたくなるような、幼いころの夢の縁のような、輪郭の曖昧な優しさがあった。

 

風が、額をなぞる。

声なき囁きは、どこかで聞いたことのあるものだった。

けれどもそれを思い出そうとすると、ふいに葉擦れの音が遮る。

言葉は沈み、心は静かに溶けていった。

 

地に腰を下ろしたまま、目を閉じる。

 

光がまぶたの裏を滑る。

赤、金、そして薄い藍。

季節の色が、言葉もなく流れ込んでくる。

風景ではなく、記憶でもなく、ただ時間そのものが静かに染みわたってゆくようだった。

 

ゆっくりと、掌をひらく。

さきほど拾った実が、ぬくもりを宿していた。

冷たさはもうなかった。

それが何を意味するのかはわからなかったが、ひとつの答えのようにも感じられた。

 

石の上、風と陽の間に漂う声なき言葉たち。

かつて誰かが見た夢の断片。

耳をすませば、それらはやわらかく、確かに語りかけてくる。

 

影が伸びる。

だれのものとも知れぬ輪郭が、石畳の上に淡く重なり、やがてまた風に溶けていった。

 

木々の間を抜けて、ひと筋の光が射し込む。

その道筋はまるで、遠い昔からここに刻まれていたかのように、誰にも気づかれぬまま静かに存在していた。

足を踏み出すたび、音のしない波が胸の奥を撫でる。

 

ここには名がない。

名を呼ぶ必要もない。

けれど確かに、語られてきた何かがある。

声にはならず、書にも残らず、それでも風や石にしみこんで、息をしている。

 

階段の端に、丸くすり減った石があった。

掌をあてると、そこに幾重もの温もりが眠っていた。

まるでひとつひとつの祈りが、その石の中で熟して、やがて声なき種になってゆくかのように。

 

遠くで葉が散る音がした。

乾いた音。

だがそこに悲しみはなく、むしろ何かが終わってゆくことの静かな清らかさがあった。

すべてのものが、ここではやがて石となり、風となり、夢のひと雫となる。

 

丘の先、風に開かれた小さな広場があった。

地面はうすく光を湛え、草は深い緑のまま、静かに息をしていた。

目を凝らせば、その草のひとつひとつが、星のように思えた。地に降りた光の粒。

 

空は高く、けれど近く、音をたてずに回っていた。

雲が影を落とし、それが草を撫でてゆく。

草はそれを受けとめ、ただそっと揺れている。

ここではすべてが、受け入れ、溶け合っていた。

 

ひとつの石碑が、草の中央に立っていた。

苔むして、文字のような、あるいはただの傷のような跡が、斜めに浮かんでいる。

読むことはできない。

それでも、不思議と意味だけは伝わってくる気がした。

 

手をかざす。

風がその指先をすり抜けてゆく。

言葉ではなく、語りでもなく、それはただ、そこに在ることの重みと静けさだった。

いくつもの時間がここに降り積もり、音もなく語られてきたのだろう。

 

草に腰を下ろす。

石の冷たさとは違う、土のあたたかさが、背を支える。

目を閉じると、静かにひとつの風景が広がってゆく。

だれの記憶でもない、けれど確かに存在する、語られざる景色。

 

それは、星々が言葉になる前の夜。

まだ誰も空を見上げず、祈る術を持たなかった時代の、やわらかな沈黙だった。

石も風も、声を持たず、ただ夢のように佇んでいた。

 

ひとしずくの涙が頬を伝う。

悲しみではなく、どこか深くでつながっているものに触れたときにだけ訪れる、理由のない透明な感情。

誰のものでもないそれが、風に乗って消えてゆく。

 

立ち上がる。

草が静かに元の形へ戻る。

石碑の影が、わずかに揺れる。

そのすべてが、終わりでも始まりでもなく、ただ在ることの証として、此処に留まっていた。

 

歩き出すと、光がやわらかく前を照らす。

影は背後に伸び、けれどその輪郭には、もう迷いがなかった。

 

言葉にならなかった思いが、石に、草に、風に、確かに染みこんでいる。

語られることのなかった物語たちが、地の深くで星のかけらとなり、眠っていた。

 

それらに触れ、耳をすまし、そしてまた歩き出す。

名もなき語り部の軌跡が、石の夢の上に静かに続いてゆく。

 

雲が切れ、光が地に降りる。

 

何ひとつ変わらぬ風景の中に、確かに何かが、ほんのわずか、息を変えたような気がした。




風が過ぎ、影が揺れ、すべてが静かに、また元の場所へと還っていった。

語る者はもういない。
けれど、語られたものだけが、深く、遠く、石のなかで今も息をしている。

声を持たぬ物語は、やがて光となり、見えぬ星座を描いて空に溶けていった。

足跡は消え、名は刻まれず、ただ空気のゆらぎの中に、確かな余韻だけが残された。

その静けさこそが、いちばん深く、永く語られる夢なのかもしれない。

そしてまた、どこかで風が生まれる。
語りのはじまりを告げることもなく。
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