どこかで呼ばれたような気がして、あるいは何かを忘れたような気がして、ただ、それだけで足は動いていた。
地図も、言葉も持たずに。
代わりに、胸の奥に微かに灯る光を頼りに。
乳白の丘があると、どこかで耳にしたことがあった。
雲よりもやわらかく、石よりも深く、そこには風が歌を紡ぎ、名もなき記憶が根を下ろしているという。
旅というよりも、ただ、そこに向かって沈んでいくようだった。
水底へ降りてゆくように、誰かの夢の続きを拾いにいくように。
やがて、遠くから草の海が光を弾き、丘のあわいが乳色にかがやきはじめたとき、風は確かに、こちらを迎えるように吹いていた。
丘は、風にゆるやかに削られながら、乳白の光を湛えて広がっていた。
空は鈍く透きとおり、かすかに水を含んだ絹のようで、雲の影が斜面を静かに這っていた。
草はまだ幼く、芯のある緑が淡く立ちのぼっている。
踏みしめるたびに、足裏にはやわらかく冷たい感触が宿り、かすかに甘い、乳を含んだような匂いが空気に漂った。
どこかで、小さな鈴の音が鳴った。
風のせいか、石のせいか、それとも遠く、名もない獣の毛がふるえただけなのか。
丘は幾重にも重なり、ゆるやかなうねりをつくっている。
進むたび、景色の輪郭はすこしずつ滲み、音のない夢のように変わっていく。
乾いた石が、斜面のあちこちに口をひらいていた。
どれも、誰かが手で置いたかのように整っており、光を浴びて淡く乳白に照り返している。
中には、古い獣の骨に見えるものもある。
だが、それらは風に削られ、もはや名を持たぬ小石と変わらぬ。
風は、ことさらに静かだった。
肌を撫でる力さえなく、ただ、耳の奥をくすぐるように、名前のない歌を運んできていた。
それは鳥の声でもなく、木のざわめきでもなく、ただ、光と風とが交わる境で生まれる、透明な音の残響だった。
石のひとつに手を触れると、わずかに冷たさが残っていた。
冷たさは芯からくるものではなく、昨日の夜に触れた月の光の名残のようで、指先にゆっくりと染み入った。
遠く、丘の向こうに乳色の霧が立ち上がっていた。
霧はまるで生きもののように、音もなく揺れ、丘の背骨に沿ってゆるやかに移動していた。
それに追いつこうともせず、ただ、同じ時間のなかを歩いていた。
草のなかに、ひときわ白い羽根が落ちていた。
風に揺れて、浮かび上がることもなく、ただそこにあるという在り方で。
拾い上げた指先に、ひやりとした感触があった。
それは羽根の冷たさというよりも、触れたことで目覚めてしまった静けさのように思えた。
ひとつ、息を吸う。
乳を含んだような空気が、肺の奥まで降りてくる。
それは新鮮というより、なにか古く、そして確かなものに満ちていた。
言葉にすれば失われるような、口にした瞬間に霧散してしまう、やわらかな確信。
丘の頂に近づくにつれ、空はうすく傾き、光の角度が深まっていく。
影がのび、足もとは銀色を帯びる。
そのとき、ほんの一瞬、草の間を通り抜ける風の気配が胸に触れた。
まるで誰かが、かつてここを通り過ぎた記憶を運んでいるようだった。
足を止め、耳を澄ます。
何も聴こえない。
けれど確かに、聴こえなかったものの中に、なにかが息づいていた。
それは声ではなく、音でもなく、まるで石の中に刻まれた夢のような、名のない祈りの余韻だった。
頂の向こうに広がっていたのは、もうひとつの丘だった。
果てのない乳白のうねりが、天と地のあわいに溶け合いながら続いている。
そこには明確な境などなく、ただ、光と風と草の織りなす無数の層が、静かに重なっているだけだった。
空はすこしだけ色を帯びてきていた。
薄桃とも薄藍とも言えぬ色が、まるで湧き水のように天の底から滲みあがり、空気全体がやさしく染まってゆく。
そこに佇む石は、どれも語るように立っていた。
まるで長いあいだ誰かが手をかけ、記憶を刻んできたような、滑らかな面と深いひび割れを持っている。
近づいて触れた石には、淡い熱が残っていた。
それは陽の温もりではなく、風に包まれた記憶のぬくもりだった。
指先でなぞるたび、掌に沁みるように何かが伝わってくる。
それは言葉ではなかった。
音でもなかった。
けれど確かに、そこには誰かの祈りがあった。
石に刻まれ、風に洗われ、それでもなお消えずに残った、静かな祈りが。
丘の端に、小さな窪みがあった。
それは動物が眠るために掘った穴にも見えたし、何かが埋められた名残にも見えた。
そこには、ひと抱えほどの丸い石が置かれていた。
その表面には、苔が薄くまとわりつき、ところどころに指の跡のような凹みがある。
手を添えると、微かに震えるような感覚が掌を通じて伝わってきた。
まるで遠く、地の底で誰かが鼓動しているかのように。
あたりには音がなかった。
草も木も、遠くの鳥の気配さえも、今はすべてその石の前で時を止めていた。
膝を折り、窪みに目を落とす。
そこには何もない。
土と、小さな草の芽と、風に倒された虫の翅がひとつ。
けれど、その何もなさのなかに、言いようのない重さがあった。
それは過去のものではなかった。
むしろ、これから訪れるはずの時の気配が、先にここに降りていたような、そんな感覚だった。
空がまた、すこし色を深める。
西の方に、雲がすこしだけ裂けて光が差しこんだ。
光は草の海をゆっくりと滑り、いくつかの石に火を灯したように照り返した。
そのとき、一陣の風が吹いた。
それは明らかに、さっきまでの風とは違っていた。
もっと高く、もっと遠くから降りてきた風。
草をわけ、丘をめぐり、石を撫でて、静かに肌をすり抜けていった風。
目を閉じる。
風の匂いの中に、微かに乳と、木の皮と、濡れた羊毛のような気配があった。
それは過去のものではなく、この丘にいまも息づいているものだった。
その気配に、胸の奥のどこかがふとほどける。
なにがほどけたのかはわからない。
けれど確かに、風の中に散っていったものがあった。
立ち上がり、歩きはじめる。
足もとはやわらかく、草は静かに揺れ、空は高く澄んでいた。
もう声を持つものは何もいらなかった。
この風があればいい。
この光があればいい。
この石の夢が、胸の奥で眠りつづけてくれるのなら、それで。
丘は、やわらかく波打ちながら続いていた。
どこまでも、名もなく、ただ静かに。
あの丘をあとにしたあとも、掌には、まだ石の感触が残っていた。
声を持たない祈りが、肌の奥に染みこむようにして残りつづけるということを、あの場所で知った。
風が通るたびに思い出す。
乳の匂いをふくんだ草の匂い、記憶のようにやわらかく明滅する光、そして、名前を持たない音たち。
それらすべてが、なにか大きなものの一部であり、自分自身の中にも確かに在ったという感覚だけが、時の流れに溶けずに残っていた。
名も、形も持たぬまま、それでも確かにそこにあったものが、いまもどこかで、風とともに歌をうたっている。
石は語らない。
けれど、すべてを刻んでいる。
静かに、深く、確かに。