泡沫紀行   作:みどりのかけら

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歩きはじめる理由など、いつも風の中に溶けていた。
どこかで呼ばれたような気がして、あるいは何かを忘れたような気がして、ただ、それだけで足は動いていた。

地図も、言葉も持たずに。
代わりに、胸の奥に微かに灯る光を頼りに。

乳白の丘があると、どこかで耳にしたことがあった。
雲よりもやわらかく、石よりも深く、そこには風が歌を紡ぎ、名もなき記憶が根を下ろしているという。

旅というよりも、ただ、そこに向かって沈んでいくようだった。
水底へ降りてゆくように、誰かの夢の続きを拾いにいくように。

やがて、遠くから草の海が光を弾き、丘のあわいが乳色にかがやきはじめたとき、風は確かに、こちらを迎えるように吹いていた。


0247 風と乳白の丘の歌

丘は、風にゆるやかに削られながら、乳白の光を湛えて広がっていた。

空は鈍く透きとおり、かすかに水を含んだ絹のようで、雲の影が斜面を静かに這っていた。

 

草はまだ幼く、芯のある緑が淡く立ちのぼっている。

踏みしめるたびに、足裏にはやわらかく冷たい感触が宿り、かすかに甘い、乳を含んだような匂いが空気に漂った。

 

どこかで、小さな鈴の音が鳴った。

風のせいか、石のせいか、それとも遠く、名もない獣の毛がふるえただけなのか。

 

丘は幾重にも重なり、ゆるやかなうねりをつくっている。

進むたび、景色の輪郭はすこしずつ滲み、音のない夢のように変わっていく。

 

乾いた石が、斜面のあちこちに口をひらいていた。

どれも、誰かが手で置いたかのように整っており、光を浴びて淡く乳白に照り返している。

中には、古い獣の骨に見えるものもある。

だが、それらは風に削られ、もはや名を持たぬ小石と変わらぬ。

 

風は、ことさらに静かだった。

肌を撫でる力さえなく、ただ、耳の奥をくすぐるように、名前のない歌を運んできていた。

それは鳥の声でもなく、木のざわめきでもなく、ただ、光と風とが交わる境で生まれる、透明な音の残響だった。

 

石のひとつに手を触れると、わずかに冷たさが残っていた。

冷たさは芯からくるものではなく、昨日の夜に触れた月の光の名残のようで、指先にゆっくりと染み入った。

 

遠く、丘の向こうに乳色の霧が立ち上がっていた。

霧はまるで生きもののように、音もなく揺れ、丘の背骨に沿ってゆるやかに移動していた。

それに追いつこうともせず、ただ、同じ時間のなかを歩いていた。

 

草のなかに、ひときわ白い羽根が落ちていた。

風に揺れて、浮かび上がることもなく、ただそこにあるという在り方で。

拾い上げた指先に、ひやりとした感触があった。

それは羽根の冷たさというよりも、触れたことで目覚めてしまった静けさのように思えた。

 

ひとつ、息を吸う。

乳を含んだような空気が、肺の奥まで降りてくる。

それは新鮮というより、なにか古く、そして確かなものに満ちていた。

言葉にすれば失われるような、口にした瞬間に霧散してしまう、やわらかな確信。

 

丘の頂に近づくにつれ、空はうすく傾き、光の角度が深まっていく。

影がのび、足もとは銀色を帯びる。

 

そのとき、ほんの一瞬、草の間を通り抜ける風の気配が胸に触れた。

まるで誰かが、かつてここを通り過ぎた記憶を運んでいるようだった。

 

足を止め、耳を澄ます。

 

何も聴こえない。

けれど確かに、聴こえなかったものの中に、なにかが息づいていた。

 

それは声ではなく、音でもなく、まるで石の中に刻まれた夢のような、名のない祈りの余韻だった。

 

頂の向こうに広がっていたのは、もうひとつの丘だった。

果てのない乳白のうねりが、天と地のあわいに溶け合いながら続いている。

そこには明確な境などなく、ただ、光と風と草の織りなす無数の層が、静かに重なっているだけだった。

 

空はすこしだけ色を帯びてきていた。

薄桃とも薄藍とも言えぬ色が、まるで湧き水のように天の底から滲みあがり、空気全体がやさしく染まってゆく。

 

そこに佇む石は、どれも語るように立っていた。

まるで長いあいだ誰かが手をかけ、記憶を刻んできたような、滑らかな面と深いひび割れを持っている。

近づいて触れた石には、淡い熱が残っていた。

それは陽の温もりではなく、風に包まれた記憶のぬくもりだった。

 

指先でなぞるたび、掌に沁みるように何かが伝わってくる。

それは言葉ではなかった。

音でもなかった。

けれど確かに、そこには誰かの祈りがあった。

石に刻まれ、風に洗われ、それでもなお消えずに残った、静かな祈りが。

 

丘の端に、小さな窪みがあった。

それは動物が眠るために掘った穴にも見えたし、何かが埋められた名残にも見えた。

そこには、ひと抱えほどの丸い石が置かれていた。

その表面には、苔が薄くまとわりつき、ところどころに指の跡のような凹みがある。

手を添えると、微かに震えるような感覚が掌を通じて伝わってきた。

まるで遠く、地の底で誰かが鼓動しているかのように。

 

あたりには音がなかった。

草も木も、遠くの鳥の気配さえも、今はすべてその石の前で時を止めていた。

 

膝を折り、窪みに目を落とす。

そこには何もない。

土と、小さな草の芽と、風に倒された虫の翅がひとつ。

 

けれど、その何もなさのなかに、言いようのない重さがあった。

それは過去のものではなかった。

むしろ、これから訪れるはずの時の気配が、先にここに降りていたような、そんな感覚だった。

 

空がまた、すこし色を深める。

西の方に、雲がすこしだけ裂けて光が差しこんだ。

光は草の海をゆっくりと滑り、いくつかの石に火を灯したように照り返した。

 

そのとき、一陣の風が吹いた。

 

それは明らかに、さっきまでの風とは違っていた。

もっと高く、もっと遠くから降りてきた風。

草をわけ、丘をめぐり、石を撫でて、静かに肌をすり抜けていった風。

 

目を閉じる。

 

風の匂いの中に、微かに乳と、木の皮と、濡れた羊毛のような気配があった。

それは過去のものではなく、この丘にいまも息づいているものだった。

 

その気配に、胸の奥のどこかがふとほどける。

なにがほどけたのかはわからない。

けれど確かに、風の中に散っていったものがあった。

 

立ち上がり、歩きはじめる。

足もとはやわらかく、草は静かに揺れ、空は高く澄んでいた。

 

もう声を持つものは何もいらなかった。

この風があればいい。

この光があればいい。

この石の夢が、胸の奥で眠りつづけてくれるのなら、それで。

 

丘は、やわらかく波打ちながら続いていた。

どこまでも、名もなく、ただ静かに。




あの丘をあとにしたあとも、掌には、まだ石の感触が残っていた。

声を持たない祈りが、肌の奥に染みこむようにして残りつづけるということを、あの場所で知った。

風が通るたびに思い出す。
乳の匂いをふくんだ草の匂い、記憶のようにやわらかく明滅する光、そして、名前を持たない音たち。

それらすべてが、なにか大きなものの一部であり、自分自身の中にも確かに在ったという感覚だけが、時の流れに溶けずに残っていた。

名も、形も持たぬまま、それでも確かにそこにあったものが、いまもどこかで、風とともに歌をうたっている。

石は語らない。
けれど、すべてを刻んでいる。

静かに、深く、確かに。
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