泡沫紀行   作:みどりのかけら

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道というにはあまりに儚く、風の通った跡と、雪に潰れた獣の足跡とが、ただ重なりあっていた。

朝と夜との境が見えなくなって久しく、時間のほうが足元を追い越して、気づけば空は、星を抱いたまま凍りついていた。

高く、遠く、あるいは深く沈んだ場所へと、なにかに導かれるようにして歩き続けた。

地が割れ、湯が湧き、風がそこに留まる理由を忘れて、すべてが静けさの内側に閉じ込められていた。

光も音も、何ひとつ求めず、何ひとつ拒まず、ただ、そこにあるものたちの息づかいだけが
この世の終わりのような、はじまりのような空気を満たしていた。


0249 星降る地の最後の湯

息を吐くたび、白い霧が喉の奥からほどけて、虚空へと融けていく。

その霧が音を奪い、時の流れを鈍らせる。

しんとした空気が、骨の奥まで染みわたる夜。

 

足もとは凍りかけた泥に包まれ、わずかに沈むたびにくぐもった音を立てる。

地を覆うものは雪ではなく、風に揉まれて薄くなった霜の膜。

それは夜気と大地の呼吸が結ぶ仄かな契約のように、足音の下でひそやかに砕けた。

 

樹々の葉はとうに落ち、黒く濡れた枝が天へ向かって冷たく指を伸ばしている。

その合間からこぼれる星の群れが、ありえないほど近い。

手を伸ばせば掬えそうな、こぼれた硝子の粒。

風のない空で、ただ煌めきながら静かに降っていた。

 

水音が聴こえる。

岩の割れ目から洩れるようにして、ぬるりとした匂いとともに息づいている。

近づくほど、足の裏から伝わってくる大地の温もりが強まる。

それは、深く沈んだ時の底から還ってきたもの。

冷たい空に抱かれながら、ここだけは地の奥に潜む何かが、眠る者をそっと温め続けている。

 

ごつごつとした岩肌のあいまに、湯の気配がぬるく揺れていた。

蒸気が白く立ちのぼり、星の光に溶けていく。

湯面には空が映っている。

ひとつひとつの星がゆらぎ、また整い、音もなく形を変える。

 

衣を脱ぎ、ひび割れた岩の縁に手をかける。

掌に感じるのは石のざらつきと、かすかな温もり。

腰を下ろせば、湯はゆるやかに抱きしめるようにして寄ってくる。

冷えた体がほどけていく。

皮膚の奥に眠っていた記憶のような温かさ。

それは忘れられていた何かを、そっと撫でるようにして思い出させる。

 

遠くで、小さく雪が崩れる音がした。

それは夜の底に沈み、すぐに静寂へと溶けていった。

 

湯の匂いには鉱の気配がある。

地中から長い歳月をかけて辿り着いた成分が、肌に染み込んでいく。

鼻腔に届く鉄の気配は、まるで時を刻む記憶のようで、さびた金属片のように鈍く懐かしい。

 

手を湯に沈める。

指の先が見えないほど、湯は夜と同じく深く、濃い。

体の輪郭が曖昧になり、まるでこの場の一部として融けていくよう。

それは恐れではなく、限りなく静かな安堵に近い感覚。

 

空を見上げれば、雲ひとつない。

まるで星たちが、この場所を見守るために降りてきたようだった。

蒸気の向こうに浮かぶ星々が、やわらかく瞬いている。

ひとつ、またひとつ。

 

肩まで湯に浸かる。

耳の奥に響いていた心音が、だんだんと緩やかになっていく。

熱でも冷でもない、均衡の中にある温もりが、意識の輪郭をほぐしていく。

まるで何百年も前から、ここに漂っていたような錯覚が、ふいに訪れる。

 

岩壁に背を預けると、ごつごつとした感触が肩甲骨に伝わった。

人の手を拒むようなその冷たさも、やがて湯のぬくもりに抱かれてやわらぎ、石はただそこに在ることだけに満たされていた。

指先が湯のなかでゆるやかに動き、湯面をなぞると、波紋が夜空をゆがめた。

 

星々が揺れる。

天を写した鏡の奥に、知らぬ場所が現れる。

それはどこかの記憶に似ていた。

焚き火の匂い、誰かの笑い声、くぐもった言葉の響き。

雪の下に埋もれた草の香りが、ほんの一瞬、鼻腔をかすめたような気がした。

 

この湯の湧く地には、何かが眠っている。

それは祈りに似たものかもしれない。

あるいは、人が生きた証のようなもの。

言葉にはならぬ願いの層が、湯に融け、蒸気に変わって空へ立ちのぼる。

夜空の星のひとつひとつに、それらが吸われていくように思える。

 

湯から上がると、肌を刺す夜気がふたたび全身を包んだ。

しかしもう、それは痛みではなかった。

体の奥に灯ったものが、かすかな光となって内側から揺れていた。

 

裸足で歩く地面は、昼間に吸い込んだ湯気をまだ抱えていて、わずかに温かい。

まるで大地そのものが、人の営みを憶えているかのように。

岩を越え、細い踏み跡に足を戻す。

湯に抱かれ、星に見送られたあと、夜の闇はもう以前ほどの冷たさを持っていなかった。

 

空を仰ぐと、流れ星がひとすじ、尾を引いた。

まるで、それが最後の灯火であるかのように。

誰にも告げることのない、沈黙のままの願いをひとつ、そっと手放す。

 

山の影が濃く沈み、風が戻ってくる。

その風は木々を鳴らさず、ただ梢を揺らしながら通りすぎる。

音もなく、声もなく、それでも確かに存在の輪郭を残してゆく風だった。

 

足を進めるたび、背後で湯気がまた立ちのぼる気配がする。

見なくてもわかる。

あの湯は、これからもずっと、あの場所に息づき続ける。

星の下で、風に晒されながら。

誰のためでもなく、ただそこにあることを選びながら。

 

やがて、湯の匂いも遠ざかり、石を踏む音だけが静かに戻ってきた。

凍てつく道の上に、月が影を落とす。

自らの足音が、夜を編む糸のように細く、長く、続いていく。

 

ふと、吐いた息が白く流れて、星々のなかに溶けていった。

それは、何かを伝えるでもなく、ただあるがままに存在する、冬の夜のひとつの祈りだった。




石に刻まれたものは、声ではない。
名を持たぬ祈りが、風に削られ、湯に洗われながら、永い時間のなかで、かたちにならぬまま残されていた。

目を閉じれば、湯のぬくもりがまだ体の奥にある。
けれど、それはいつか消える。
皮膚も、骨も、思い出も、いずれすべてが風に還り、あの岩の隙間を通り抜けていくことだろう。

けれど、あの湯は残る。
星が降り、風が遊び、そして、誰かがまた、言葉の届かぬ願いを抱えてここを訪れるだろう。

そうしてまた、何ひとつ語られぬまま、ひとつの夜が終わる。

静かに、深く、凍てつく空の下で。
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