長い時間を歩かねばならなかった。
だが、
歩くほどに言葉は静まり、
心の奥底に眠っていたものが、
ゆっくりと目を覚ましていった。
海の匂いは、遠くにいても、風の中に混じって届いていた。
足もとの土は、しっとりと湿っていて、歩くたびにわずかに沈んだ。
背後には、いま渡ってきた丘が霞んでいる。
前には、切り立った白い崖が、雲を裂くように伸びていた。
崖の上は、何もない広原だった。
ただ、ひたすらに風と、空と、揺れる草花。
時折、黒く、鋭く、空を切る影が通り過ぎてゆく。
その音は風にまぎれ、鳥の翼のうねりとして残る。
そこには、言葉などなかった。
声を上げる理由も、耳を澄ます対象もなかった。
あるのは、ただ、刻まれずに過ぎていく時間だけだった。
島の奥へ進むにつれ、光はやわらぎ、草の色が濃くなっていった。
白い羽が、風に乗って落ちてくる。
一枚、また一枚と舞いながら、草の上に静かに降り積もる。
そのたびに、まるで眠る前の世界のような静寂が生まれた。
崖の縁に立つと、海が果てしなく広がっていた。
風は容赦なく頬を打ち、目を細めても水平線は霞んでいた。
だが、その足元では、絶壁の窪みに何百、何千という命が巣を構えていた。
黒と白の斑のような、無数の影が岩肌にひしめき合い、空を埋めるように舞い上がる。
それは騒がしさではなかった。
生命の律動のようなものだった。
秩序のない羽ばたきの中にも、繰り返される永遠の型があった。
この崖は、長い年月のあいだ、彼らに抱かれて生きてきたのだろう。
歩みを止めると、背後で草が鳴った。
風が草をなで、陽が花の輪郭を照らす。
地を這うように咲く小さな紫、陽に透ける黄色の群れ、名もなき白いかすみ草のような影。
どれも、名を持たぬまま、この地に根ざしていた。
そのひとつひとつに、目を凝らしてみる。
すると、言葉にしようとした自分が、急に遠くなる。
草の匂い、葉の裏に潜む虫の静かなざわめき、陽のあたたかさが頬に宿る。
それだけで、世界は満ちていた。
小道もない原野を踏み越え、斜面をゆるやかに下りると、
足元に広がったのは、静かな森のような草地だった。
草丈は腰まであり、風の道筋にそって波を打つ。
その間を縫うように、鳥の羽が落ち、翅のない虫が浮かんでいた。
島のもうひとつの端には、海に削られた洞があった。
岩の間からのぞく闇は、深く、冷たく、どこまでも沈んでいくようだった。
そこに差し込む光は、水の粒となって揺れ、
洞の奥の壁を虹色に染めていた。
一歩踏み出せば、足元の岩が湿っていて、滑る。
風の音が一瞬消え、耳に残るのは波の反響だけ。
時間が、波とともに反復され、削られ、形を失いながら響いていた。
洞から出ると、太陽は傾いていた。
崖の上の影が長くのび、草の海に模様を描いていた。
空は、海と同じ青ではなかった。
そこには、少しだけ白が混じっていた。
それは、ここにいた鳥たちの羽根と同じ白だった。
あるいは、長くこの島を歩いたものが、最後に目にする白かもしれなかった。
記憶の中に残る白。
誰にも届かぬ、遥かな場所に漂う白。
島の高台に戻り、最後に見たのは、水平線に沈む陽だった。
しかしそれは、燃えるような朱ではなかった。
やわらかな、乳のような、薄曇りの金色だった。
それを見て、ようやく気づいた。
この島にあったのは、始まりでも終わりでもなかった。
ただ、ここにある、ということだけだった。
歩いた分だけ、世界は広がった。
しかし、歩みを止めたときこそ、世界がひとつに結ばれる。
その静けさが、この島の全てだった。
誰のものでもない時間と、
誰の言葉にも染まらない景色。
それを、ただ自分の足でたどり、心にそっと置いていく。
この島は、そうした記憶を、
白い風の中に隠していた。