泡沫紀行   作:みどりのかけら

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その島へ渡るには、潮風を背にして、
長い時間を歩かねばならなかった。

だが、

歩くほどに言葉は静まり、
心の奥底に眠っていたものが、

ゆっくりと目を覚ましていった。


0025 光と影の島

海の匂いは、遠くにいても、風の中に混じって届いていた。

足もとの土は、しっとりと湿っていて、歩くたびにわずかに沈んだ。

背後には、いま渡ってきた丘が霞んでいる。

前には、切り立った白い崖が、雲を裂くように伸びていた。

 

崖の上は、何もない広原だった。

ただ、ひたすらに風と、空と、揺れる草花。

時折、黒く、鋭く、空を切る影が通り過ぎてゆく。

その音は風にまぎれ、鳥の翼のうねりとして残る。

 

そこには、言葉などなかった。

声を上げる理由も、耳を澄ます対象もなかった。

あるのは、ただ、刻まれずに過ぎていく時間だけだった。

 

島の奥へ進むにつれ、光はやわらぎ、草の色が濃くなっていった。

白い羽が、風に乗って落ちてくる。

一枚、また一枚と舞いながら、草の上に静かに降り積もる。

そのたびに、まるで眠る前の世界のような静寂が生まれた。

 

崖の縁に立つと、海が果てしなく広がっていた。

風は容赦なく頬を打ち、目を細めても水平線は霞んでいた。

だが、その足元では、絶壁の窪みに何百、何千という命が巣を構えていた。

黒と白の斑のような、無数の影が岩肌にひしめき合い、空を埋めるように舞い上がる。

 

それは騒がしさではなかった。

生命の律動のようなものだった。

秩序のない羽ばたきの中にも、繰り返される永遠の型があった。

この崖は、長い年月のあいだ、彼らに抱かれて生きてきたのだろう。

 

歩みを止めると、背後で草が鳴った。

風が草をなで、陽が花の輪郭を照らす。

地を這うように咲く小さな紫、陽に透ける黄色の群れ、名もなき白いかすみ草のような影。

どれも、名を持たぬまま、この地に根ざしていた。

 

そのひとつひとつに、目を凝らしてみる。

すると、言葉にしようとした自分が、急に遠くなる。

草の匂い、葉の裏に潜む虫の静かなざわめき、陽のあたたかさが頬に宿る。

 

それだけで、世界は満ちていた。

 

小道もない原野を踏み越え、斜面をゆるやかに下りると、

足元に広がったのは、静かな森のような草地だった。

草丈は腰まであり、風の道筋にそって波を打つ。

その間を縫うように、鳥の羽が落ち、翅のない虫が浮かんでいた。

 

島のもうひとつの端には、海に削られた洞があった。

岩の間からのぞく闇は、深く、冷たく、どこまでも沈んでいくようだった。

そこに差し込む光は、水の粒となって揺れ、

洞の奥の壁を虹色に染めていた。

 

一歩踏み出せば、足元の岩が湿っていて、滑る。

風の音が一瞬消え、耳に残るのは波の反響だけ。

時間が、波とともに反復され、削られ、形を失いながら響いていた。

 

洞から出ると、太陽は傾いていた。

崖の上の影が長くのび、草の海に模様を描いていた。

空は、海と同じ青ではなかった。

そこには、少しだけ白が混じっていた。

 

それは、ここにいた鳥たちの羽根と同じ白だった。

あるいは、長くこの島を歩いたものが、最後に目にする白かもしれなかった。

記憶の中に残る白。

誰にも届かぬ、遥かな場所に漂う白。

 

島の高台に戻り、最後に見たのは、水平線に沈む陽だった。

しかしそれは、燃えるような朱ではなかった。

やわらかな、乳のような、薄曇りの金色だった。

 

それを見て、ようやく気づいた。

この島にあったのは、始まりでも終わりでもなかった。

ただ、ここにある、ということだけだった。

 

歩いた分だけ、世界は広がった。

しかし、歩みを止めたときこそ、世界がひとつに結ばれる。

その静けさが、この島の全てだった。

 




誰のものでもない時間と、
誰の言葉にも染まらない景色。

それを、ただ自分の足でたどり、心にそっと置いていく。


この島は、そうした記憶を、

白い風の中に隠していた。
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