泡沫紀行   作:みどりのかけら

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午後の光は、時に沈黙の輪郭を与える。
陽に透ける葉の裏に、風の影が舞い、そのひとつひとつが、遠い季節の名残を語っているようだった。

道なき道を行く旅には、地図よりも確かな導きがある。
それは、木の根のささやきであり、熟しきった実の温度であり、あるいは沈黙そのものの中に宿る、かすかな予兆。

名も知らぬ果樹の群れが、淡い陽を受けてきらめいていた。
誰のためにでもなく、ただ在るということの静けさが、土の上に、空の下に、確かに広がっていた。

甘きものはいつも、光と共にある。
そして、そこには約束がある。
けして声にされずとも、心の奥でそっと頷かれるような、かすかな誓い。

その場所へ、ただ歩いてゆく。
果実の眠る、甘やかな午後の光のなかへ。


0250 甘き陽射しと果実の約束

土の匂いが、風に溶けていた。

肩先に残る汗は既に乾き、光だけが静かに残されている。

午後の陽射しは淡く、けれど輪郭を曖昧に溶かすほど柔らかではなく、葉裏に差し込むその金色は、ひとつひとつの果実の肌を照らしていた。

 

果実は音を立てずに熟れ、黙って枝の重さを支えていた。

赤く、黄に、朱を混ぜ、いくつもの時間がその皮に沁みている。

爪を立てればやわらかな反発と、指先にのぼる細かな毛羽立ち。

それをそっと撫でると、微かに温い。

 

足元の土はほどよく踏み固められており、歩を進めるたびに、かすかな響きが足裏を伝ってくる。

それは、遠くに眠る水脈の呼吸にも似ていた。

この大地の深く、忘れられた季節の記憶が、果実の芯へと昇ってきているのかもしれない。

 

空は限りなく穏やかに晴れ渡り、薄くにじむ雲が、天を薄絹のように覆っていた。

その光の層を通り抜けてきた陽射しは、まるで樹々にそっと話しかけるように降りていた。

 

一陣の風が、遠くの丘を撫でる。

葉がいっせいに身じろぎし、果実が微かに揺れる。

まだ摘まれぬ甘やかな重さが、枝をしならせ、どこかしら寂しげに垂れ下がっている。

 

いくつかの果実は、既に土に帰りかけていた。

踏まれぬよう慎重に歩を運ぶ。

その傍らでは、蟻たちが金のように透けた身を引き連れ、ひと粒の蜜を朝から運び続けていた。

 

丘の傾斜を登りきると、果樹たちはひときわ明るい陽を浴びていた。

そこでは音がすべて、柔らかい。

風の通り抜ける音も、鳥の羽音も、自らの心臓の鼓動でさえも、遠のいていく。

 

小さな木陰に腰を下ろす。

掌には先ほど摘んだばかりの果実がひとつ。

皮の向こうに透ける光。指先に伝わる張り。

噛めば、甘さが爆ぜて、光が散る。

 

その甘さには、遠い季節が眠っている。

冬の乾いた冷たさと、春の萌え立つ芽吹き。

夏の雨のにおいと、秋の静かな焦がれ。

それらすべてが、黙ってひとつに閉じ込められていた。

 

しばし、目を閉じる。

あたりの静けさは、音ではなく気配で伝わってくる。

どこまでも果樹が並び、風が流れ、土が息づいている。

それだけのことが、どうしようもなく心を満たす。

 

唇に残る蜜の感触を、そっと舌先でなぞる。

甘さはもう去りかけているが、光のかけらだけが、かすかに残っていた。

 

午後の陽は、少しだけ傾いていた。

けれど、まだじゅうぶんに甘い。

果実も、風も、空も、ただそこにあるというだけで、なにかを約束してくれているようだった。

 

遠くの斜面で、小鳥の影が弧を描く。

羽ばたきの律動が空の青にわずかな傷を残し、すぐにまた静寂へと溶けていく。

陽はさらに傾き、光は地を撫でるようにして伸び、長く、柔らかな影が大地にうつろう。

 

風がふたたび梢を揺らし、果樹の葉が裏返ると、薄緑の下に銀がかすかに覗く。

枝の隙間から、いくつもの光がこぼれ、そのひとつが頬に触れた。

まるで祈りのようだった。

 

ひとつ、またひとつと、果実が摘み取られていく音が、どこか遠くで聞こえた気がした。

それは決して喧しくはなく、まるで時が静かに層を重ねるような、そんなやさしい響きだった。

 

歩みを再び進める。

果樹の間を抜けるたびに、空の色が少しずつ変わっていく。

濃くなる青に、ほのかな朱が混じり始め、陽の残り火のような明るさが、風の粒に映えていた。

 

足元の草は、陽に照らされて金を帯びている。

ひとすじの道がそこに在る。

誰に告げるでもなく、何を導くでもなく、ただ静かに、果樹の海を分けていた。

 

草を踏むと、淡い音がする。

その音は、地中深くに眠る水脈と呼び合っているかのようで、耳を澄ませば、ひととき命がゆっくりと巡る音が聞こえる気がした。

 

斜面を下る途中、果樹の影が背を伸ばし、道を包み込むようになる。

日向と日陰が交互に交差し、そのたびに温度がほんのわずかに揺れた。

 

やがて、ひときわ古びた木が目の前に立ちはだかる。

枝は太く、幹には裂け目があり、そこに風が吹き込むと、かすかな音を立てる。

 

葉は他のどの木よりも深く、果実は赤ではなく、静かな黄金に染まっていた。

指を伸ばし、そのひとつに触れる。

 

ずしりとした重み。

陽を受けてなお冷たいその皮膚の奥に、季節の記憶が眠っている気がする。

 

口に含む。

舌の上に広がる味は、どこか懐かしく、今という瞬間を忘れさせるほどに静かだった。

その甘さには、確かに何かが溶けていた。

過去か、未来か、それとも名もない時間の欠片か。

 

立ち尽くし、しばらくのあいだ、空を仰いだ。

光はすでに薄く、風の色が変わりつつあるのを、肌で感じる。

 

今日というひとときが、果実の中に閉じ込められていく。

まだ歩むべき道は続いているが、この甘さだけは、確かに心に刻まれていた。

 

そしてまた、一歩を踏み出す。

果実の余韻を抱いたまま、その先へと続く、やわらかな影の中へ。




果実の甘さは、すでに遠ざかっていた。
けれど、指先に残る温もりと、喉の奥にかすかに残る光の記憶が、その日を確かに刻んでいる。

葉は音もなく揺れ、風だけが、すべてを知っているかのように通り過ぎた。

誰に摘まれるでもなく、誰に名を呼ばれるでもない実りたちは、それでも一年をかけて、静かに約束を果たしていく。

土に根ざし、空を仰ぎ、陽を受けて甘くなるという、その営みの深さと静けさを、足裏と舌の奥で、確かに知ったのだった。

すべてはそこにあった。
果実も、光も、風も、沈黙も。
そしてそれらは、もう何も語らずとも、これからの歩みの中で、ゆっくりと沁みてゆくのだろう。

もう振り返ることはない。
陽は落ち、影が長く伸びる。
けれど胸の奥には、ひとつの季節が、甘く眠っていた。
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