泡沫紀行   作:みどりのかけら

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雲がひらりと崩れ、音もなく空の奥へと流れていく。
夏の午後は、言葉にならぬ沈黙を身にまといながら、どこかへ去りゆく者たちの背を照らす。

柔らかな湿気が土から立ちのぼり、名も知らぬ風が、まだ見ぬ土地の気配を運んできた。

歩くということは、ひとつの場所に別れを告げることでもある。
そしてまた、どこかで何かに触れるための、静かな契約なのかもしれない。

名前も記憶も持たぬ景色に、ふとした瞬間に心を預けることがある。
それがただの石であっても、湿った枝であっても、遠くで揺れる霧であっても、確かに――それは、何かを呼び覚ます。

ここからはじまるのは、ひとつの午後の光と湿り気のなかで、祈りのようにゆっくりと沈んでいった記憶。

その記憶が、本当にあったかどうかは関係がない。

霧がすべてを包み、声なき夢が石に刻まれるなら、それだけで充分だった。


0254 霧に包まれた最果ての野営地

足元の苔が、ひっそりと音を吸い込んでいた。

幾重にも折り重なる緑の絨毯は、朝露をまだ手放していない。

午後というにはまだ光が浅く、灰色の空が頭上でじっと佇んでいる。

霧は、声なき獣のように尾根を這い、木々の肩にまとわりつきながら降りてくる。

湿った空気が喉の奥に絡みつき、息の輪郭までも曖昧になる。

 

前へ、ただ前へと歩を進めるたび、世界はひとつずつ輪郭を失っていく。

道はもう道ではなく、ただ湿った大地の連なりでしかなかった。

草の擦れる音が、遠い祭の笛のように聞こえた気がして立ち止まる。

しかし何もいない。

ただ、風のかたちをした何かが、杉の枝先をゆっくり撫でていっただけだった。

 

焚き火の痕のような焦げた香りが、土の奥から立ちのぼってきた。

誰かがかつてここで夜を越えたのだろう。

地面に残る円形のくぼみには、わずかな灰と、黒ずんだ小石が寄り集まっていた。

そこに腰を下ろすと、石が冷たく湿っていて、背中に山の気配が染み込んでくる。

 

空の色が変わり始めていた。

鉛を溶かしたような雲の隙間から、微かに、金色に近い光がこぼれた。

その一筋が、濡れた草原の一角を静かに照らす。

光の射す先には、大きな岩がひとつ、ひっそりと立っていた。

 

岩は祈るようなかたちをしていた。

まるで両手を胸の前で合わせ、沈黙のまま天を仰ぐ誰かのように。

その表面には無数の線刻があった。

自然が刻んだものではない。

何かを願った痕跡。

風化の奥に沈んだ、消えかけた言葉。

 

そこに手を触れると、石の温度が掌に伝わってくる。

冷たいが、冷たすぎない。

むしろ熱を秘めたような、長い時間を溜め込んだ記憶のようだった。

 

周囲はさらに霧を深めていた。

木々の輪郭が滲み、空と地の境界がとろけてゆく。

遠くで鳥の羽ばたく音がしたが、その姿は見えなかった。

音も、色も、すべてが水の中にあるようで、ただ感覚だけが鮮明だった。

 

腰を上げて、足元の泥をそっと拭いながら、

もう一度あの岩に視線を戻す。

岩は何も変わらず、そこにあった。

けれど確かに、ほんの一瞬、誰かがそこに立っていたような気がした。

 

霧がすべてを包み隠しても、石だけはそこにある。

刻まれた願いは風に消えても、石は祈ることをやめない。

 

焼け残った枝がひとつ、手の届く場所に転がっていた。

それを拾い、ひとつの小さな丸を湿った地面に描いてみる。

意味はない。だが、何かを繋ぎとめたくて、そうした。

 

空は沈黙を守りながら、微かに光を帯び始めていた。

その色は、深い藍の手前の、ためらいのような色だった。

 

苔むした斜面を背に、湿った風が頬をかすめていった。

草の匂い、土の息づかい、水を含んだ木肌の静けさ。

すべてが押し黙りながらも、どこかで絶えず鳴り続けている。

霧の奥で、目に見えない時間が軋むような音を立てていた。

 

小さな水たまりに靴の先を差し入れると、濁った円が静かに広がっていった。

そこに映る空は灰色で、ひとつも星の兆しを見せなかった。

だが、その曇天の奥に確かに陽はあり、気づかぬうちに午後は傾いていた。

 

足裏に伝わる湿気は、次第に冷たさを帯びていく。

遠くから、野の獣の咆哮にも似た風の唸りが届き、それが地を震わせた。

身体の奥で、言葉にならない感情が揺れる。

それが恐れなのか、懐かしさなのか、それともただの疲労かはわからなかった。

 

歩みを再び進める。

草原の縁に、倒れかけた木が一本、斜めに立っていた。

枝の先にぶら下がった蔦が風に踊るたび、何かの印のように揺れた。

その木の根元に腰を下ろすと、地面は意外にも柔らかく、体重を受け止めてくれた。

 

あたりは次第に闇を孕みはじめ、霧はまるで夜の胎内へと変貌していく。

まばたきのたび、風景が少しずつ形を変える。

先ほどまで見えていた岩の姿も、霧の奥に沈んで見えなくなっていた。

けれどそこにあることはわかっている。

この大地に根差すようにして、祈りの姿勢のまま、永遠を背負って立ち尽くしている。

 

冷たさが指先に染みはじめる。

その感覚は、どこか安心にも似ていた。

外気が皮膚を伝い、内なる静寂をゆっくりと呼び起こしてくれる。

 

焚き火の跡に再び戻り、倒木から剥がれた乾いた皮を手にとる。

石を集め、古い灰の輪にそっと重ねていく。

火は灯さない。ただその形だけをなぞる。

火があった場所には、人がいた。

それを覚えている大地に触れることで、誰かの記憶の断片に触れる気がした。

 

やがて霧が一瞬、呼吸するようにゆるみ、空がわずかに顔を見せた。

群青のひかりが、草の先に小さな影を生む。

その刹那、遠い稜線の先に一筋の道が浮かび上がった。

そこには何もない。ただの地面のつらなり。

 

それでも、その先へと歩いてゆこうと思えた。

名もなき祈りと、火の気配と、石に刻まれた夢の余韻だけを背負って。

 

霧の奥からかすかに香る、まだ見ぬ草花の匂い。

足元に咲いていた、色を失った小さな花弁。

それらがやさしく風に揺れながら、これ以上は何も語らなくていい、と囁いていた。

 

夜は、まだ完全には訪れていない。

だが、光はすでに遠くなっている。

 

背を向けて歩き出すとき、ふと振り返る。

あの祈りの岩は、もう見えなかった。

けれど確かに、心のどこかに、その重さと形が刻まれていた。

 

歩くたび、霧の中に音が吸い込まれていく。

その静けさが、不思議なぬくもりを抱いていた。

 

風に削られ、苔に包まれ、誰かの祈りを抱いた石たちが、今日もまた、声なき夢を見ている。




夜がすべてを覆い尽くすころ、霧はそっと後ずさるように森を離れ、空には星の気配が戻ってくる。

けれど、石はもう語らない。
祈りも風の音も、すべては湿った大地の奥に沈んでゆく。

濡れた足音が遠ざかり、草の揺れる音が静かに重なってはほどけていく。

何かを遺すためではなく、ただ在るために在った場所。
言葉にならなかった感情と、消えかけた記憶の輪郭が、その地に、そっと染み込んでいた。

もう誰も振り返らない。
それでも、あの岩は今も、霧の深い午後のなかで、変わらぬ姿で祈り続けているのだろう。

やがて足音も風の声に溶け、静寂だけが残る。

そしてそれが、すべてだった。
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