泡沫紀行   作:みどりのかけら

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時は名を持たぬまま、ただ流れていく。
季節は記憶のように薄れ、また巡り、ひとの背を押すこともなく、ただ在る。

この道に、なにを求めて歩いたのかは、もうわからない。
けれど、土に満ちた匂いや、風にそっと撫でられた草の感触が、確かにひとつの輪郭を刻んでいった。

誰に届くこともない思いが、地に染み込み、石の奥に、沈黙の祈りとなって残っていく。

名も持たぬ風景に、心が溶けていくような場所がある。
時が止まるのではなく、時がその場に座って静かに微笑んでいるような、そんな場所。

その地に、ひととき、身をあずけた。
ただ、それだけの記録である。


0259 大地に抱かれる無垢な日々

石を割って露わになった時間が、まだ息をしている。

その表面に宿る薄褐色の紋様は、遠い昔の風が描いたまま、指の腹にざらりと残った。

 

風のない昼、土は乾いて、しかし眠っていた。

草は倒れず、葉裏にひそめた小さな虫の気配さえ、土の呼吸のうちに溶けていく。

光は白く、どこにも影を落とさず、ただ全てを均質に照らし、音という音を置き去りにした。

 

踏みしめるたびに、地はわずかに低く沈み、足裏に積もった記憶が軋む。

長い眠りに入りかけた羊たちの群れが、遥か丘の下で白く点々と揺れていた。

それは草原の祈りが形を成したようで、誰のものでもない優しさが、そこに結ばれていた。

 

天と地のあいだに、なにかがそっと浮かんでいた。

声ではない、思いでもない、重さも形も持たない、ただ「在る」ということだけの存在。

空の深みに染みるような匂いがあった。木々の芯から滲み出る、時間の気配。

遠くの斜面で揺れる木の影が、いつしか自らの足元にも映り、同じ時をなぞっていた。

 

やわらかな地面に寝転がると、土の温度が背に沁みた。

目を閉じれば、光の中にまぎれた音のない音が聴こえる。

羽音でも、草擦れでもない、それは地の奥に息づくなにかが、今も生きているという確かな拍動だった。

 

ひとつの葉が、肩に落ちた。

その重さのなさが、かえって身体の輪郭を濃くする。

ここにいる。たしかにここにいる。

風がなくても、時は動く。水が流れなくても、命は熟す。

 

水を含んだ苔の絨毯が、石垣のすき間に濃く息づいていた。

指先で触れれば、冷たく、それでいて不思議にやわらかい。

命の片鱗は、そうした目立たぬ隅にこそ宿る。

誰の目にもとまらず、名も持たず、ただそこにいて、長く長く生きている。

 

栗色の実がひとつ、割れたまま地に伏していた。

その艶やかさは、空に浮かぶ雲のかけらよりも確かで、なぜか胸の奥に静かな熱を灯した。

拾い上げることはしなかった。

ただ、そこにあることが美しく、それ以上の意味を必要としなかった。

 

丘の稜線を越え、誰かが通ったあとのような踏み跡が延びていた。

だが、その足跡の主を見たことはなかった。

それはまるで、風の記憶が草を押し分けて残した道であるかのようで、

そこを歩くたびに、自身が過去と未来を交差する一点を踏んでいる気がした。

 

明確な終わりも、はじまりもなく、ただ光と匂いと温度とが重なり、時間のまにまに身を預けていた。

季節は音もなく巡り、鳥の影すら、いまはどこにもない。

けれど、どこかで何かが確かに熟れていく。

その気配に、耳の奥がふいに熱を帯びる。

 

湿った息のように、草の間からふわりと立ちのぼる匂いがある。

腐葉土に沈んだ古い葉が崩れ、見えぬ種子がひそかに震えるような、生まれる前の夢のような匂い。

 

遠くで小さな羽音が一度だけした。

それきり風は戻らず、辺りはふたたび、音のない昼に沈む。

 

広がる大地には数えきれぬほどの静けさが息づいていた。

乾いた草の間に咲く、白い小花。

その花弁にはわずかな翳りもなく、太陽の光を素直に受けて透けていた。

触れれば壊れそうな薄さのなかに、芯の強さが見え隠れしていた。

 

遠くの斜面をよぎる影がひとつ、あった。

けれど、それが雲か、獣か、あるいは思い出のひとかけらだったのか、確かめるすべもない。

目を凝らしても、すぐにまた空は均され、光は等しく降りそそいだ。

すべてがそこにあり、すべてが通り過ぎてゆく。

 

岩肌を撫でるように、手のひらを這わせた。

ひび割れた表面に、誰かの手によるものとも知れぬ古い刻みが残っていた。

それは文字にもならず、模様とも呼べぬ、ただ「ここにいた」という印。

その無言の証に、胸がかすかに軋んだ。

 

草原を越えた先の斜面に、低く傾いた木が一本、影を落としていた。

根のまわりには、やわらかな実が幾つも落ちていた。

踏まれて潰れたもの、まだかたちを保つもの、それぞれに違う時間が宿っていた。

そこに座り、背を木に預けると、葉のざわめきが遠くでこだまのように返った。

 

目を閉じる。

 

風の輪郭を、耳の奥に探す。

木の幹を伝うひかえめな震えが、背骨を通って体内にしみ入ってくる。

ひとつの生きものとして、この地のうえにあるという感覚があった。

それは、どこへも行かずとも歩き続けているような、なにひとつ言葉にせずとも、長い会話を交わしているような、そんな感覚だった。

 

土の匂いが、しずかに濃くなっていく。

小さな虫が葉の陰からひとつ、陽のもとへと這い出た。

翅はまだ濡れていて、陽光のなかで震えていた。

 

草を撫でる手に、しっとりとした湿りが戻っていた。

乾いていたはずの空気が、知らぬ間にやわらかく変わっている。

雲のひとつが形を変え、丘の端に影を落とした。

 

それは、ほんのわずかな変化だった。

けれど、その小さな変化のなかに、なにかが確かに芽生え、心の奥の、誰にも見えない場所にふれた。

 

土の上にすわるという、ただそれだけのことが、なぜこうも深く沁み入るのだろう。

 

陽はまだ高く、空には満ち足りた沈黙があった。

ここには名も、言葉もいらない。

ただ、この静けさと、地に広がる温もりとが、ひとつの祈りのように続いていた。

 

遠くの丘が、やわらかく呼んでいた。

そこに何があるかなど、知らなくてもよかった。

ただ、行ってみたいという思いが、胸の奥にぽつりと灯る。

 

影が伸びるには、まだ少し早い時間だった。

しかし、すでに何かが始まりつつある。

 

その予感だけを抱えて、また歩き出す。

 

無垢な日々は、足の裏に、静かに続いていた。




すべては過ぎ去り、けれど何ひとつ終わってはいなかった。
土の匂いはまだ鼻腔の奥に残り、足裏には草を踏む感触が息づいていた。

あの場所の光は、記憶の中でも白く、言葉にならぬ静けさが、心の深いところに降り積もっていた。

変わることのないものがあるのではなく、変わり続けるなかに、ただひととき、呼吸を揃えることができたのだ。

声もなく、名もなく、それでも、たしかに祈りのような日々があった。
地に抱かれ、風に撫でられ、その一歩一歩が、大地の夢を歩いていた。

いまも、あの草の上には、無垢な時間が流れている。
誰のものでもない、誰に許しを得ることもない、静けさの中で、そっと熟れていく日々が。
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