霧の奥に広がる静寂は、
声なき記憶のようで、ひととき時を忘れさせた。
そこには、世界の終わりでも始まりでもない、ただ“白”があるだけだった。
霞みゆく境界を歩くとき、世界は沈黙に包まれる。
風さえ言葉を失い、ただ白の奥へと誘われてゆく。
そこに広がっていたのは、終わりも始まりもない、記憶の外側だった。
空の色を忘れた朝に、私は歩き出した。
足元の草は濡れており、ひとつひとつが冷えた露を宿していた。風はなく、森の端に差しかかると、すでに視界の半ばが白く濁っていた。どこかで水の気配がする。けれど、その姿は見えない。
霧はただ静かに、すべてを包んでいた。
私は靴音を殺しながら、ほとんど祈るように斜面を上る。
草原が開けたのは、白の奥に沈み込んでいた崖の縁だった。
そこには、時間というものが存在していなかった。
空も海も、何もかもが霧に飲まれていた。水平線は影もなく、空の色は乳白で、ただ遠くから時折、鳥の声だけが落ちてくる。
低く、鋭く、泣きながら風に乗るあの声が、どこから来たのかさえ定かではなかった。
私は崖の先に近づいた。
切り立った縁に立っても、下は見えなかった。白い深淵が広がるばかりで、地の終わりも、海の始まりも曖昧だった。
しかしそこに確かにあったのは、濃い湿り気と、遥かな塩の匂い。
風がひと筋、横切っていった。
それは風というよりも、息だった。
この場所そのものが、かすかに生きている。霧がこの土地の皮膚であり、海がその体温であるならば、私の立つ場所は、まさにその心臓の上だった。
白い霧の中を、ひと羽の影が斜めに走った。
目を凝らしても、その姿はすぐに輪郭を失ってしまう。
鳥なのか、風なのか、それとも私の記憶に巣くう何かだったのか。
この地には、言葉が似合わなかった。
語ればたちまち霧に消え、心にすら残らない。
私はそのまま、崖に腰を下ろし、黙って霧の呼吸を聞いていた。
やがて、足元の石に小さな水滴が落ちた。
霧の粒が飽和し、重さを得て、音を持った。
それはほとんど無音に近いほど微かだったが、この沈黙の中では、まるで鐘のようだった。
私はその音に合わせて、目を閉じた。
思考が薄まり、記憶も輪郭をなくしていく。
この霧に包まれていると、自分という存在さえも、少しずつ世界に溶けていくようだった。
誰かがかつて、ここに立っていたような気がした。
同じように霧の向こうを見つめ、同じ風を吸い、同じ匂いのなかで、静かに消えていった。
どこかでまた、鳥の声が鳴いた。
今度は二度、続けて。
霧のなかの声は、時間というものを持っていた。
それは生きていた。
しかしそれは過去のものでも、未来のものでもない。
ただ、「ここにあるもの」の響きだった。
私は再び目を開けた。
世界はまだ、白かった。
その白さは、ただの霧ではなかった。
記憶の色でもあり、眠りの色でもあり、静かに続いてゆく命の色でもあった。
私の手のひらに、小さな羽根が一枚、落ちていた。
どこから来たのか、わからない。
ただしっとりと濡れ、透きとおるように淡く、まるで霧が形を得たかのようだった。
私はそれを握りしめることも、捨てることもできず、ただ膝の上に置いた。
霧の奥に、微かな青が見えた。
それは空か、あるいは海か。
それとも、霧の記憶が一瞬、過去の光を透かせたのかもしれなかった。
私が旅を続けてきた理由が、いま、少しだけわかる気がした。
こうして、すべてが白に包まれる場所に立つとき。
私たちは、生きるという重さから、ほんのひととき、自由になる。
言葉も時間も持たぬこの土地で、
私は確かに、存在の輪郭を忘れていた。
それは失われたことではなく、
ただ還るべき場所へと、私の心がゆるやかに融けていったということだった。
白の中で、私は立ち上がった。
霧はまだ厚く、道など見えなかったが、
私の足は自然と次の一歩を知っていた。
海の音はまだ聴こえない。
ただ、霧が震え、誰かの夢が羽ばたくように、静かに流れてゆく。
私は歩いた。
白の記憶のなかを。
霧のなかで見たものは、幻ではなかったと思いたい。
それは遠い未来の残響であり、遠い過去のまどろみでもあった。
私の旅がいつか終わるそのときも、
この白はきっと、変わらずそこにある。
すべてを覆う霧の中で、私は確かに立っていた。
それは消えゆく夢のようでいて、
どこまでも現実だった。
永遠にほど近いこの白の記憶が、
旅の最果てにずっと残っている気がする。