泡沫紀行   作:みどりのかけら

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白く沈む朝、私は名もなき岬を目指して歩いた。

霧の奥に広がる静寂は、
声なき記憶のようで、ひととき時を忘れさせた。

そこには、世界の終わりでも始まりでもない、ただ“白”があるだけだった。


0026 霧の聖域

霞みゆく境界を歩くとき、世界は沈黙に包まれる。

風さえ言葉を失い、ただ白の奥へと誘われてゆく。

そこに広がっていたのは、終わりも始まりもない、記憶の外側だった。

 

空の色を忘れた朝に、私は歩き出した。

 

足元の草は濡れており、ひとつひとつが冷えた露を宿していた。風はなく、森の端に差しかかると、すでに視界の半ばが白く濁っていた。どこかで水の気配がする。けれど、その姿は見えない。

 

霧はただ静かに、すべてを包んでいた。

 

私は靴音を殺しながら、ほとんど祈るように斜面を上る。

草原が開けたのは、白の奥に沈み込んでいた崖の縁だった。

 

そこには、時間というものが存在していなかった。

 

空も海も、何もかもが霧に飲まれていた。水平線は影もなく、空の色は乳白で、ただ遠くから時折、鳥の声だけが落ちてくる。

 

低く、鋭く、泣きながら風に乗るあの声が、どこから来たのかさえ定かではなかった。

 

私は崖の先に近づいた。

 

切り立った縁に立っても、下は見えなかった。白い深淵が広がるばかりで、地の終わりも、海の始まりも曖昧だった。

しかしそこに確かにあったのは、濃い湿り気と、遥かな塩の匂い。

 

風がひと筋、横切っていった。

 

それは風というよりも、息だった。

この場所そのものが、かすかに生きている。霧がこの土地の皮膚であり、海がその体温であるならば、私の立つ場所は、まさにその心臓の上だった。

 

白い霧の中を、ひと羽の影が斜めに走った。

 

目を凝らしても、その姿はすぐに輪郭を失ってしまう。

鳥なのか、風なのか、それとも私の記憶に巣くう何かだったのか。

 

この地には、言葉が似合わなかった。

語ればたちまち霧に消え、心にすら残らない。

 

私はそのまま、崖に腰を下ろし、黙って霧の呼吸を聞いていた。

 

やがて、足元の石に小さな水滴が落ちた。

 

霧の粒が飽和し、重さを得て、音を持った。

それはほとんど無音に近いほど微かだったが、この沈黙の中では、まるで鐘のようだった。

 

私はその音に合わせて、目を閉じた。

思考が薄まり、記憶も輪郭をなくしていく。

この霧に包まれていると、自分という存在さえも、少しずつ世界に溶けていくようだった。

 

誰かがかつて、ここに立っていたような気がした。

同じように霧の向こうを見つめ、同じ風を吸い、同じ匂いのなかで、静かに消えていった。

 

どこかでまた、鳥の声が鳴いた。

 

今度は二度、続けて。

 

霧のなかの声は、時間というものを持っていた。

それは生きていた。

しかしそれは過去のものでも、未来のものでもない。

 

ただ、「ここにあるもの」の響きだった。

 

私は再び目を開けた。

 

世界はまだ、白かった。

 

その白さは、ただの霧ではなかった。

記憶の色でもあり、眠りの色でもあり、静かに続いてゆく命の色でもあった。

 

私の手のひらに、小さな羽根が一枚、落ちていた。

 

どこから来たのか、わからない。

ただしっとりと濡れ、透きとおるように淡く、まるで霧が形を得たかのようだった。

 

私はそれを握りしめることも、捨てることもできず、ただ膝の上に置いた。

 

霧の奥に、微かな青が見えた。

 

それは空か、あるいは海か。

 

それとも、霧の記憶が一瞬、過去の光を透かせたのかもしれなかった。

 

私が旅を続けてきた理由が、いま、少しだけわかる気がした。

 

こうして、すべてが白に包まれる場所に立つとき。

私たちは、生きるという重さから、ほんのひととき、自由になる。

 

言葉も時間も持たぬこの土地で、

私は確かに、存在の輪郭を忘れていた。

 

それは失われたことではなく、

ただ還るべき場所へと、私の心がゆるやかに融けていったということだった。

 

白の中で、私は立ち上がった。

 

霧はまだ厚く、道など見えなかったが、

私の足は自然と次の一歩を知っていた。

 

海の音はまだ聴こえない。

ただ、霧が震え、誰かの夢が羽ばたくように、静かに流れてゆく。

 

私は歩いた。

 

白の記憶のなかを。

 

霧のなかで見たものは、幻ではなかったと思いたい。

それは遠い未来の残響であり、遠い過去のまどろみでもあった。

私の旅がいつか終わるそのときも、

この白はきっと、変わらずそこにある。




すべてを覆う霧の中で、私は確かに立っていた。

それは消えゆく夢のようでいて、
どこまでも現実だった。

永遠にほど近いこの白の記憶が、
旅の最果てにずっと残っている気がする。
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