泡沫紀行   作:みどりのかけら

268 / 1183
木霜の降りた朝、音のない風が野を撫で、遠く霞んだ尾根の向こうに、ひとすじの湯気が立ちのぼっていた。

その湯気は空に触れることなく、淡く、静かに、風に溶けては、名もなき記憶のように地に戻っていく。

声を潜めた森の奥に、かつて誰かが手を重ね、願いを置いた場所がある。

その場所を示すものはない。
けれど、石が割れ、風が巡り、雪が溶ける音に紛れて、まだそこには、人の祈りの気配が残っていた。

夜のはじまりを告げる冷気が、肌を裂くようにして森を降りてくる頃、歩く者の足もとに、ひとつの光が落ちる。

過ぎ去った日々の声に耳を傾けるのではない。
その声が、まだどこかで息づいていることを、ただ、感じ取ることができれば、それでよかった。

何も持たず、何も求めず、ただこの地に満ちる温もりの記憶に触れるために。

すべてが静かに沈む前に、ひととき、祈りの石が夢を見る。


0268 古湯に溶けた面影たち

灰白の雲が空を這い、微かな雪を零し続けていた。

地に触れる前にその形を解かれ、ただ湿りを残しては消える。

靴の底にひそやかに溜まる水音が、斜面を下るたびに遠ざかっていく。

 

木々の梢は既に葉を失い、凍てつく風に晒されながら、なおその枝先を空へ向けて差し出している。

小さな黒い実が残る枝に手を触れると、しずくのように冷たさが掌に染みた。

何も語らぬ森が、ただ息をひそめて見下ろしている。

石畳の割れ目に溜まる泥と雪の名残が、足裏にぬるく貼りついた。

 

斜面を越えた先、湿った土の匂いとともに、湯の香が静かに立ち上がっていた。

ひとつ、またひとつと、音もなく灯る橙の灯り。

その光が木々の隙間から漏れ、雪混じりの夜気に溶けていた。

 

橋のたもとに差し掛かる。

薄暗い流れの上には湯気がゆるやかに舞い、川面を覆う岩の合間から湯が湧き出ていた。

蒸気の中で輪郭が揺れる小屋が、まるで遠い夢の中の風景のように立っていた。

 

指先に触れる湯気は、思いがけず柔らかく、仄かな硫黄の香りに包まれていた。

かすかに湿った苔の匂い、石の裂け目から滲むぬるい水、湿った木の皮の肌理。

夜の帳が降りきる頃には、あたり一帯が湯の気配に包まれていた。

 

湯の底から現れるのは、音を失くした時の澱。

ときおり、湯面を撫でるように風が渡り、灯籠の光がそのたびにさざめいた。

遠くで一羽、鳥が鳴いたように思えた。

しかし振り返っても、そこにはただ夜の闇と湯気が広がっているだけだった。

 

道の傍らに、崩れかけた石積みの祠があった。

石段の隙間に雪が挟まり、その白さが妙に際立っていた。

かつては何かを祀っていたのだろう。

けれど今は、小さな欠片のような花びらと、煤けた紙片が、風に震えているだけだった。

 

足元の霜を踏みしめるたび、心音のように小さく響く音が、胸の奥を打つ。

温もりの記憶が、どこからともなく肌に降り積もる。

懐かしいわけではない、だが遠い何かが、この地の湿り気に溶けていた。

 

灯りの下に、ひとつの石があった。

指で触れれば、ひび割れた表面に、なにか刻まれた跡。

読めはしないが、そこに込められたものが確かにあった。

言葉になる前の祈りのように、ただ、そこにあった。

 

湯気に包まれたその石の奥に、かすかに誰かの声が滲んでいる気がした。

それは風かもしれないし、湯の音かもしれない。

だが確かに、何かが語りかけているような感触だけが残された。

 

掌にまだ、湯の名残が温かく残っている。

それを懐に忍ばせるようにして、背を向けた。

歩みを進めれば、湯の香は次第に遠のき、かわりに夜の冷気が再び頬を撫でた。

 

雪はまた静かに降り始めていた。

夜と湯と、祈りの石。

そのすべてが、かつてここにいた誰かの面影とともに、今もこの地に溶けていた。

 

木立を抜けると、傾いた月が雪の面にかすかな輪郭を描いていた。

その光は凍りついた地面を銀色に照らし、遠くの岩の影さえ、夜に沈まず浮かび上がる。

足跡はすぐに雪に覆われ、来た道は静かに消されていった。

 

草の匂いはすでに消え、残るのは湯と石の湿り気。

ただ、風の向こうに微かに聞こえたのは、誰かが歌うような声。

遠く、遠く、はるかな時の淵からこぼれるような音だった。

 

冷たい空気を吸い込むと、肺の奥がしんと静まった。

体のどこかが内側からひび割れて、そこに新しい風が染み込んでいくような感覚。

ただ歩くだけで、何かが少しずつ変わっていく。

それは目に見えず、名もなく、けれど確かなものだった。

 

苔むした階段を登ると、かつて人の気配があった気がする廃れた屋敷の跡に出た。

壁はすでになく、床石だけが地面に埋もれて残っていた。

その隅に、湯気に似た靄がまだ立ちのぼっている。

誰かが、ついさっきまでそこにいたように。

 

枯れかけた松の枝に、白い小さな布が結ばれていた。

ほどけかけたその布は、風にかすかに震えていた。

誰が、何を祈って結んだのか。

触れることなく、そのまま通りすぎる。

記憶に触れることは、時に傷をなぞることに似ている。

 

踏みしめる雪の音が少しずつ変わる。

湿りを帯びて重くなり、どこか底の深い響きに変わっていく。

見下ろせば、小さな流れが地中から顔を覗かせていた。

その川の水は、湯と冷たさをあわせ持ち、夜のなかを静かに走っていた。

 

ひとつ、石の上に小さな器が置かれていた。

中には乾いた葉がいくつかと、割れた貝殻。

供物か、それとも別の意味を持つものかはわからない。

だが、誰かの手がそれを置いたことだけは明らかだった。

 

その場所から見上げると、夜空は雲の切れ間から深く開け、星のひとつが、ふと瞬いてはすぐに消えた。

消えるものに、名を呼ぶことはできない。

ただ、その瞬きの気配を胸に留めるしかない。

 

石の上に腰を下ろすと、地の温もりがわずかに背に伝わる。

冷えた空気の中で、ほんのりと、忘れられた焚き火のような感触が背骨に染みる。

遠い誰かの記憶が、まだこの地に息づいている。

それはたぶん、言葉よりも先に生まれたもの。

 

手の中に残る湯のぬくもりが、すでに薄れはじめていた。

だが、完全に消えることはないように思えた。

あの石に触れた指先は、まだ何かを覚えている。

それが祈りであったか、ただの願いであったかは分からない。

けれど、確かにそれは刻まれていた。

夜のなかに、名もなく、静かに。

 

雪がまた強くなりはじめた。

風の音が高まり、木々がざわめきを帯びる。

そのざわめきは、まるでかつての声たちがいっせいに語りかけてくるようだった。

だが、応える声を持たない者は、ただその音を胸にしまい込むしかない。

 

歩みをまた、静かに続ける。

背後の湯の香はすでに遠く、夜の中へと溶けていった。

けれどその面影は、雪の下、石のひび、風の隙間に、今もそっと息づいていた。

触れれば消えるそれらを、ただそっと見送りながら。

 

遠ざかる湯気の彼方に、確かに、祈りはまだ、あった。




雪がすべてを覆い尽くし、湯の香も、風の匂いも、地の温もりも、音なく閉じこめられていった。

かすかな踏み跡もすでに失われ、誰が通ったかさえ、もうこの土地は覚えていない。

けれど、祠の欠けた石に触れた手のぬくもりは、たしかに、まだその石に刻まれていた。

誰のためでもなく、どこへ向かうでもなく、ただ、そこにあった面影たち。

水の底に沈んだ言葉たちは、湯気に溶けて、夜空に漂う。
やがて風がそれを連れ去り、知らぬ空へと運んでいく。

そしてまた、誰かが来るだろう。
声を持たず、名を持たず、ただ歩くことでしか、過去と触れられない者が。

そのとき、石の夢はふたたび目を覚ます。
祈りは終わらない。
終わらせることもできない。

静かに、ただ、そこに在るというかたちで。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。