泡沫紀行   作:みどりのかけら

270 / 1189
足もとに転がる石は、誰の声も知らないまま、ひとつの時代を越えてきた。
刻まれた線も、削られた輪郭も、もう読み取ることはできない。
けれどそこには、確かにひとつの「祈り」があった。

風に磨かれ、雨に滲み、冬の重みに耐えながら、その小さな体の奥底に、言葉にならなかった願いが静かに沈んでいる。

これは、そんな石のそばを通り過ぎる、ある一歩の記録。
空と地のあいだで、声を持たないものたちが交わす、目に見えぬ対話の余白に、ふと身を寄せる時間の断片。

誰に知られることもなく、けれど確かに「在る」ものに触れたとき、沈黙は、ひとつの夢へと姿を変える。


0270 石に眠る空想の翼

丘をひとつ越えたあたりから、空の色が変わりはじめた。

雲は柔らかな灰に溶け、光は石のように冷たく沈黙していた。

風が低く地を這い、草をなで、ひそやかに葉裏を撫でて過ぎてゆく。

遠くから鳥の声が届くが、それもまるで地の奥底から湧いた響きのように、重く、遅れて、胸の奥に降り積もった。

 

道はない。

ただ、苔の縁に刻まれた誰かの記憶のような踏みあとをなぞる。

土はやわらかく、ところどころに滑るような石が露出している。

触れるとひんやりとした水気を帯びていて、指先に静かな痛みのような感触が残る。

 

草むらの奥、ひとつの石が不自然に顔を覗かせていた。

長く横たわり、地に沈みかけたその石には、かすかに文字のような線刻が浮かんでいた。

けれど、それは誰にも読まれようとしてはいない。

まるで忘れられることを選んだ詩のように、風雨に洗われて、ただ静かに眠っていた。

 

足もとに転がる小石を手に取ると、それは砂よりも脆く、指でつまむとふいに崩れてしまった。

音もなく砕け、掌に白い粉を残して風に舞い上がる。

砕けた粒は空へ昇るというより、地に落ちた光の名残のように、まどろみの中へ吸い込まれていった。

 

近くの低木には、季節を忘れたかのような小さな白い花が咲いていた。

ひとつだけ。

枝の先に、ひどく頼りなく揺れている。

その花に顔を寄せると、かすかな香りが鼻腔をかすめ、胸の奥に昔見た夢の輪郭が滲んだ。

思い出そうとしても、それは逃げ水のように形を失ってゆく。

ただ、あるいはそこに、何か大切なものが宿っていたような気配だけが残った。

 

奥へ進むと、石が群れをなして並んでいた。

大小さまざまな輪郭が、まるで凍てついた鳥たちの背のように、風の中に沈黙している。

ひとつひとつに触れるたび、それぞれの石が微かに異なる冷たさを持っていることに気づく。

ある石は凍土のように張り詰め、ある石は胸の奥に触れるような柔らかな湿り気を持っていた。

 

腰をおろす。

石のひとつに背を預けると、それはただの硬い物質ではなく、長い眠りを続けてきた何かの記憶のようだった。

耳を澄ませば、石の奥から風の音とは異なる、低い旋律が聴こえる気がした。

音ではなく、鼓動のような、時間の響きだった。

 

そのまま、しばらく眼を閉じた。

 

瞼の裏で、かすかな光が揺れている。

薄明かりの中に、羽のようなかたちが浮かび上がっては消えていく。

白とも銀ともつかぬその羽は、言葉よりも早く、胸の奥のどこかを優しく撫でてゆく。

遥か昔、まだ名も持たぬころに見た、空の底の夢だったかもしれない。

 

風が変わる。

どこかで枝が揺れ、葉がひとつ舞い落ちる音がした。

現し世の輪郭が、うっすらと立ち上がる。

 

石の群れを離れ、また歩き出す。

足裏には石の感触が残り、背に預けた温もりがゆっくりと冷えてゆく。

空は低く、けれどどこかで光の気配が差していた。

 

草をかき分けると、先にまたひとつ、名もなき石が立っていた。

 

次の一歩を踏み出すとき、胸の奥で何かがわずかに動いた。

それは涙ではなかったが、

確かに、何かがあった。

 

苔に覆われたその石は、まるで地に落ちた星のように微かな輝きを湛えていた。

光を放っているのではない。

ただ、長い時のなかで風に磨かれ、雨に洗われ、しずかに整えられていった形が、空の薄明かりをやわらかく映していただけだった。

 

近づくと、苔の間にわずかな彫り跡があった。

動物の骨のようにも見える、あるいは翼をたたんだ鳥の影のようにも見える、曖昧な線。

指先でなぞると、苔の柔らかさと、石の下に眠る冷たさが層のように重なって伝わってきた。

どちらが古いのか、それとも、どちらも同じ記憶のなかで育ったものなのか。

わからぬまま、しばらくその輪郭に手を置いた。

 

風が通り過ぎた。枝葉が擦れ合い、遠くで水音のような気配が揺れる。

 

そのとき、頭上を黒い影がよぎった。

振り仰げば、空はまだ鈍く曇り、影の正体は見えなかった。

だが、羽音の残像だけが空に尾を引いていた。

風ではない。虫でもない。

何かが、ほんの一瞬、空に浮かんだのだ。

 

また歩き出す。

足もとの土は、次第に色を深めていた。

褐色と灰と緑の交じりあうその地面には、粒子のような何かが散っている。

目を凝らすと、それは粉々に砕けた石のかけら。

陽を受けた痕跡もなく、ひっそりと、眠るように在る。

 

ひとつを拾い、掌に乗せると、見たこともない模様が表に浮かんでいた。

雲の裂け目を映したかのような、不規則でありながらどこか調和のとれた模様。

それは模様ではなく、もともとの石の内にあった結晶の形かもしれない。

けれど、それを見ていると、かすかに風の中に羽音の気配が戻ってくる。

 

歩いて、歩いて、時折立ち止まり、空を仰ぐ。

けれど、もう空には何もいなかった。

ただ、どこかで羽ばたきがあった気配だけが、風の輪郭となって残っている。

 

静かな斜面を下りる。

地面はなめらかで、やや湿っていて、ところどころで足を取られる。

膝をついたとき、顔を寄せた土の匂いに、何か遠い記憶が蘇りかけたが、それはすぐにまた土に還っていった。

 

斜面の下には、広場のように石が散らばっていた。

どれも人の背丈ほどあり、無造作に置かれたようでいて、なぜか調和のある配置だった。

音楽の休符のように、空間のなかに余白を残し、静かに立っている。

 

一番奥の石に近づく。

その表面には、かすかに文字のような線があった。

けれど、それはもう読めるものではない。

言葉の形をしていながら、言葉にならぬ何か。

石の内側から、ゆっくりと時間をかけて浮かび上がってきた線。

 

その石に背をあずけ、しばらく空を見上げていた。

 

どこかで鳥が鳴いた気がしたが、風に混じって消えた。

光は静かに揺れていた。

目を閉じる。

 

すると、胸の奥に、小さな羽音のようなものが灯った。

それはかつてあった何かの声かもしれず、まだ訪れていない夢の気配かもしれなかった。

 

けれど確かに、それはあった。

 

石は何も語らなかった。

ただ、風と苔と冷たい静けさの中で、すべてを抱いてそこにあった。

ひとつの石のなかに、空想の翼が眠っていた。

 

今にも羽ばたこうとするその気配を胸に、静かに立ち上がる。

 

振り返ると、石の群れはもう影のなかに沈んでいた。

ただ足裏に残る感触と、掌に残る冷たさだけが、確かにそこを歩いたことを教えていた。

 

そしてまた、歩き出す。

 

光のほうへ、まだ名を持たぬ風の中へ。




遠ざかる背後に、石の気配はもうない。
けれど、心の奥深くには、柔らかな冷たさがひとつ残っている。

歩いている。風のなかを、光のなかを。
地に触れるたび、足裏から確かな感触が伝わる。

振り返らない。けれど、わかっている。
あの石たちは今も、言葉にならぬ夢を背負いながら、静かに空を見上げていることを。

名も持たぬ翼が、いつかまた、あの場所で羽ばたくその日まで。
すべては、風のなかに溶けてゆく。

何も語らず、すべてを残して。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。