泡沫紀行   作:みどりのかけら

271 / 1177
音のない道があった。
葉は揺れ、風は流れ、影は重なってはほどけてゆく。
だが、そのすべてが、どこか遠くの出来事のように感じられる。

空に触れそうな岩肌が、かすかな光を吸い込み、沈黙の奥底に、ひとつの扉があった。

名も、地も、時も、忘れられたような場所。
けれどそこには、確かに何かが在り、誰かが、足を止めた気配があった。

語られることのなかった祈り。
書かれなかった物語。
それらが、いま、ひとすじの灯となって闇の裂け目を照らそうとしている。


0271 闇を裂く祈りの灯

石肌は黙して、ただ祈りを抱いていた。

 

張り詰めた沈黙のなか、わずかな風が岩間をすり抜け、湿った苔を撫でた。

水気を含んだ土の匂いが、肌にまとわりつく。

崩れかけた石段に足をかけると、ざらりとした粒子が足裏を刺し、時間の重さが身体に滲んでくる。

 

高みへ向かうほど、空気が濃くなっていく。

木々は音を吸い、鳥すら口を閉ざしていた。

枝の隙間から覗く光は、雲の端をかすめるように細く、冷たく、まるで遠い昔の記憶を照らす灯火のようだった。

 

湿り気を帯びた岩盤の奥に、ひとつ、ひそやかに開かれた闇があった。

それは洞というにはあまりに静かで、口を開けたまま永劫を待ち続ける影のようだった。

奥へと続く階が、ぽつ、ぽつと灯りに照らされ、ひとつずつ数えながら進むたびに、心の奥で波紋が広がる。

 

光は火ではない。

だが火でなければ、何がこの闇を裂くのか。

 

湿った壁に小さく映る光の揺らぎは、祈りに似ていた。

燃えず、消えず、ただ揺れていた。

誰の言葉も届かない奥底で、名もない願いが岩の底に溶けてゆく。

 

掌を伸ばせば、冷たい石に触れる。

指先に、ひび割れた時間の痕跡が伝わる。

そこに刻まれたものが、文字であれ図であれ、あるいはただの擦れであれ、そのどれもが、夜のような静けさを抱いていた。

 

一歩ごとに、足音が過去の底を震わせる。

それはやがて、己の輪郭をゆるやかに溶かし始める。

自と他、今とかつて、風と影、光と祈り。

あらゆる境界が石の呼吸に染められていく。

 

空間は狭く、しかし、どこまでも広がっていた。

押し黙る壁面の奥に、幾千の瞳が見開かれている気配。

語られることなく、ただそこに在ることで願いとなったものたちの、重み。

それらが沈黙のうちに幾重にも重なり、なお崩れずにあることが、奇跡だった。

 

冷たい風がひと筋、背後から忍び寄る。

ふと、振り返ると、外の光が扉のように開かれていた。

だがそこに差す光は、入り口よりもなお、柔らかくなっていた。

光そのものが、祈るように佇んでいる。

 

掌を胸にあてる。

石と同じ温度が、そこにあった。

冷たく、硬く、それでも確かに、生きていた。

 

この場所に息づくものは、姿を持たない。

風でも、水でもない。

けれど確かに、深く沈み、長く眠り、時おり目覚めては、ひとの歩みに寄り添っている。

 

目を閉じると、見えないものたちの声が聴こえた気がした。

それはささやきではなく、響きでもなく、ただ……鼓動のように、静かに流れていた。

 

誰かの歩幅が、石を刻み、光を繋いできたのだ。

闇に散った祈りの灯が、今日もまた、ぽつりとひとつ灯された気がする。

 

その灯が消えぬよう、歩を進める。

次の段を、静かに、確かに。

 

石段を踏みしめるたび、時が逆巻くように身の内で反響した。

輪郭の曖昧な風景が、ゆっくりと沈み、そして浮かび上がってくる。

苔むす壁面に淡く浮かぶは、手のひらほどの祈祷の痕。

刻まれたものは何一つ明確ではなく、それゆえに深く、骨の奥に沁みていく。

 

灯は少しずつ間引かれ、影が息を吹き返す。

かすかに濡れた岩床からは、古い水の気配が上ってくる。

足元を滑らせぬよう、ゆっくりと、指先で壁をなぞる。

不意に感じた、石の裂け目。

そこにはかすかな空洞があり、ほんの微かな音が、奥から伝わっていた。

 

音ではないかもしれなかった。

けれど耳がそれを、遠くで鼓動する何かとして受け取っていた。

胸の内にわずかに残っていた雑音が、静かに消えてゆく。

内と外の境が、徐々に重なっていく。

 

ここでは、声を上げてはならぬ。

いや、声を上げようとしても、喉がそれを拒んでいた。

空間のすべてが、沈黙の重みをもって語りかけてくる。

言葉の手前にある、感情の気配。

あるいは、それすらも超えて、もっと古く、名のないもの。

 

ふと、手元の影に、小さな火の粒が揺らめいた。

見つめ返すと、それはかつて灯されたものの残像のようだった。

燃え尽きた後の匂いすら漂ってこないその揺らぎに、なぜか安堵が流れる。

誰かがここにいて、かつてここを通り、祈り、そして去った。

その名も知らぬ誰かの祈りが、今、光のかたちとなって寄り添っている。

 

冷たさのなかにも、どこか温もりがあった。

石壁の窪みに手を入れると、小さな凹みが掌を包んだ。

それはまるで、何度も手をあわせられた痕のように、すべらかで、あたたかい。

何百、何千の手が、ここに触れ、願い、去っていったのだろう。

 

残されるものなど、ひとつもなかった。

けれど、去ったものたちの重みだけは、確かにここにあった。

 

さらに奥へと踏み出すと、空間は不意にひらけた。

岩壁が大きく迫り上がり、その中央にひときわ深い闇が据えられている。

その前に立つと、まるで自らが風化した岩の一部となったように感じる。

呼吸さえも忘れるほどの、濃密な静寂。

 

その静けさの中心に、ぽつりと、ひとつの灯。

灯とも、幻とも知れぬ、淡いひかり。

だが、それは確かに存在していた。

 

裂けた闇の底に、小さな炎が揺れていた。

祈りとは、叫びではない。

ただ、灯すことだ。

言葉も、形も要らぬ。ただ、そこに火を置くこと。

 

沈黙の石に、その火が映り込む。

壁も、天井も、足元も、光に応じてほのかに脈動するようだった。

生きている、というより、目を覚ましたばかりのような気配。

 

深く息を吸い込むと、胸の奥に、湿った風の温度が満ちてくる。

それは冷たく、それでいて、内側をやさしく洗うようだった。

祈りが、届くというより、溶けてゆく。

 

身体の境界が、石に滲み、空気に溶け、光に紛れていく。

どこまでが自分で、どこからが世界なのか、もう曖昧だった。

 

やがて、灯はゆっくりと、その輝きを閉じていった。

燃え尽きるのではなく、還るように、静かに。

 

背を向けると、先ほど通った道が、ほんのわずか明るく見えた。

それは、ただの記憶の名残ではなかった。

 

闇に刻まれた祈りの灯が、次なる歩みを照らしていた。

 

一歩、また一歩。

その光が消えぬうちに、外へ向かう。

石は語らず、風は名を持たぬまま、背を押した。

 

そして、光のなかへと戻るとき、胸の奥で、ひとつの火がそっと、灯っていた。




風が戻り、光が差し込む。
闇を歩いた足には、うっすらと土のぬくもりが残っていた。
沈黙のなかで交わされたものは、言葉ではなく、ただ、気配だった。

ひとつの灯が、終わることなく胸に息づいている。
それは熱ではなく、音でもなく、けれど確かに、生きているという感覚だった。

岩は沈黙のまま、だがその沈黙こそが、最も深い祈りなのかもしれなかった。

光のなかを歩きながら、背に感じるのは、もう一度呼吸を始めた世界の脈動。

何も語らず、何も求めず、それでもそこに在ったもの。

それは、祈りではなく、祈りが在るという夢の気配だった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。