泡沫紀行   作:みどりのかけら

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幾つもの季節が、風の名を変えながら通り過ぎていった。
そのすべてを見送るように、名もない山々はただ沈黙のうちに立ち尽くし、葉擦れの音ひとつさえも、深い祈りのように響いていた。

そこに辿り着くために必要だったのは、地図でも、言葉でもなかった。
ただ、歩くこと。
水の流れと、石の記憶に耳を澄ませながら、ひとつずつ風景の層を剥がしていくことだった。

道はいつも、何も語らない。
けれど、語られぬものの中にこそ、人はふと、自らの輪郭を見つけるのかもしれない。

どこから始まり、どこへ向かうのか。
その答えを持たぬまま、足は奥へと向かっていた。


0272 山の奥で祈る時の声

濡れた葉に触れるたび、指先が微かに冷えた。

石の坂道は雨の余韻を抱いて、黙したまま身体を沈めてくる。

灰がかった光が枝の隙間から斑にこぼれ、土に、苔に、静けさに、ひとしずくずつ沈んでいく。

 

風が、どこからか生まれ、どこへともなく流れてゆく。

その風がひとつ、幹に巻きついて、葉を揺らし、草の影を地に這わせる。

誰かが祈ったあとのような空気が、ここにはあった。

音のない祈り。声のない願い。風と水のあいだで、何かが確かに残されている。

 

深く、深く歩くほどに、木々は語らぬ言葉を増していく。

見上げれば、枝々は何世代もの季節を受け止めた皺のように複雑で、その一つ一つが時間の断面を包みこみながら、ただ立ち尽くしている。

掌を差し伸べても、すべてを触れることはできない。

けれど、触れずとも伝わるものが、森にはある。

 

苔に縁取られた小さな石段が、ふいに現れた。

呼吸が浅くなる。

水が流れていたかのような滑らかな曲線が、石に刻まれている。

古い手のひらが重ねられた記憶のように。

何度も、何度も。

 

ここに来る前、幾つもの丘を越えた。

風が肌に吹きつけ、太陽が胸の奥に火を灯した午後、落ち葉の音を数えるように歩いた。

一歩ごとに、過ぎた季節の重みが足元に積もっていた。

だが今、あらゆるものが剥がれ落ちて、ただ静けさだけが残っている。

鳥の影さえも届かぬこの奥で、ひとつの音が、ひとつの息が、世界のかたちを決めているように感じる。

 

道はふたたび上り坂になり、滑るように伸びた石の面が、細い陽を弾いた。

その光は眩しさではなく、温度のない記憶のようで、どこか懐かしく、それでいて触れると崩れてしまうような脆さを持っていた。

 

胸の奥で何かが、ゆっくりと沈んでいった。

それは言葉ではなく、形もない。

けれど、坂を上るごとに確かに増していく、重さにも似た静けさだった。

 

掌の中に収まるほどの石が、ふと足元に転がっていた。

拾い上げると、細やかな紋様が走っていた。

雨に打たれ、風に晒され、無数の指先がふれてきたであろうその石は、まるで眠るものの額のように、ひんやりと、どこまでも静かだった。

それを手に包むと、何も言わずに、ただそのまま歩いた。

 

やがて、緩やかに右へ折れた先で、重なり合った樹々の合間から、ひとすじの光が差していた。

それは道を照らすのではなく、ひとつのかたちを浮かび上がらせていた。

苔に抱かれた石のかたまり。

名を持たぬ祈りのかたち。

 

石は、語らない。

けれどそこには、確かに誰かの手があった。

どれほどの時を経ても、消えぬ想いがそこに刻まれていた。

声に出さずとも届くものがあるなら、それは、こういうかたちをしているのかもしれない。

 

掌の中の石が、ひときわ冷たくなった気がした。

ゆっくりと、それを元の場所へ戻す。

この地のものは、この地にあるべきだと、どこかで思った。

 

雲が、ゆっくりと動いていた。

陽のかたちが歪みながら伸び、また消えてゆく。

時間というものの正体がわからなくなる。

けれど、それでいいと思えた。

 

草に埋もれた道の、その奥に佇む静寂は、風よりも深かった。

ひとつ息を吐くたび、音がこの世から少しずつ後退していく。

聴こえているのは、血のめぐる気配と、葉が擦れるかすかな音。

何かに守られているというよりも、何も問われていない、という優しさに満ちていた。

 

石と木と水と、それらが互いを侵さずに寄り添っているこの場所では、生まれてきたことも、歩いてきたことも、もはや声高に語る必要のない、遥かな底に沈められていた。

 

緩やかな勾配を登りきった先に、ひとつの広がりがあった。

あまりに静かで、初めは広がりだとは気づかぬほどだった。

木立がわずかに開け、光が、しずくのように地を点々と濡らしていた。

 

その中央に、丸みを帯びた石の座があった。

苔に包まれ、ひとつの祈りの場が、深く、呼吸していた。

祭壇のようでもあり、ただの石の重なりでもあるそのかたちは、意味という言葉より先に、沈黙の温度を伝えてきた。

 

指を伸ばす。

触れた石肌は、まるで水面のようだった。

どこにも流れてはいかないが、確かに内側で、何かが揺れている。

それはかつて誰かの願いだったのか、あるいは、名もない時の端に咲いた祈りだったのか。

 

風が、うしろからやってきて、ひとときだけ肩を押していった。

背を丸め、手を合わせるでもなく、ただそこに立ち、目を閉じる。

すると、遠くの空で鳥が羽ばたいたような、かすかな鼓動が伝わってくる。

 

時間がほどけていく。

足元の石も、遠くの木々も、ひとつの眠りのなかにあるようだった。

陽は、ゆっくりと傾き、かたちを持たぬ影が、草のあいだを移っていく。

祈るという行為さえ、ここでは風の通り道に過ぎない。

 

やがて、また歩き出す。

ふと見上げた空は、やや色を変えかけていた。

蒼と灰がまじり合い、どちらとも言えぬ色になっている。

それはまるで、過去と未来の境界のようだった。

 

苔むした道を下るとき、靴の裏にわずかな柔らかさが伝わってきた。

土のあたたかみ。湿った葉の匂い。

この地を歩いたという感触が、確かに足に残っている。

 

誰のものとも知れぬ祈りの跡が、空気の中に薄く、しかし確かに漂っていた。

それは香のように、火のない煙のように、輪郭を持たぬまま、心の内側に染みていく。

 

振り返る。

さきほど立っていた場所が、木々の影に沈んでいる。

もう一度見ようとしても、そこはもう、別の時間のなかにあるようだった。

 

歩きながら、ひとつ、石を拾う。

さきほどのものとは違う、やや角のとれた小さな石。

今度はそれを手放さず、掌に包んで歩く。

ひとつの記憶が、まだ熱を持っている。

 

その熱は、言葉にならず、また、言葉にしてはいけないものだった。

 

森が、しずかに後ろへと遠ざかっていく。

それでも、歩いた場所の気配は、足の裏と、掌の石に宿っていた。

それだけが、いま確かなものだった。




掌の中の石は、すでに体温を帯びていた。
言葉にならない時間が、そこに静かに沈んでいる。

風はまた、新たな葉を揺らし、名もなき音が大地の深くへ沁みてゆく。
何も変わらずに見える森の奥で、わずかに確かに、何かがほどけた。

祈りとは、誰かのためのものではなく、時の底に積もる、微かな想いの形かもしれない。
名もなく、姿も持たず、それでも確かに、そこにあったもの。

いま、背を向けて歩き出す足元に、午後の光が長く伸びている。
その影が、ひとつの夢のように揺れていた。

それで、充分だった。
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