泡沫紀行   作:みどりのかけら

28 / 1177

旅の途上、偶然たどり着いた白き断崖の先――


そこには音のない海が広がっていた。

地の底に星が瞬くその景色は、記憶の奥に触れ、
言葉よりも深く、心に染みこんでくる。

ただ、静かに見ることしかできなかった。


0028 地底の星海

風がやわらかく、しかし切れ味のある冷たさを持っていた。

背を押すでもなく、引き留めるでもなく、ただそこにいる風。

 

崖の縁を歩いていた。

光の角度によって、影が長くなったり縮んだりしながら、静かに岩肌を這っていく。

遠くの空と、海の境界は、あまりにも曖昧だった。

 

すべてが青い。

けれど、その青は単純ではない。

朝の青、午後の青、沈みかける太陽の青……いや、

それとも、この地だけに許された別の名があるのだろうか。

 

風にさらされた崖は、どこまでも白かった。

削られ、砕かれ、流され、残された骨のような石たちが

無言のまま空と海を見下ろしていた。

 

足元には、しわがれた草がまばらに生えていた。

その一本一本が、まるで静けさの針のように、

大地と空気の隙間を縫い止めていた。

 

私は、歩きながら、耳を澄ませていた。

波の音は、ここでは聞こえない。

断崖がすべてを押しとどめているのか、

それとも、この空間そのものが音を飲み込んでいるのか。

 

ただ、時折、風の奥から、

小さな囁きのような反響が返ってきた。

それは石の内側から滲み出た記憶のようで、

遠く離れた星の歌のようでもあった。

 

光が変わりはじめた。

陽の角度が傾き、白い岩がうっすらと金に染まりはじめると、

その反射が海面に届き、

水面がまるで金属のように冷たく光った。

 

私は立ち止まった。

風も止まった。

 

 

 

その瞬間、青が消えた。

 

 

 

海が、星に変わっていた。

深い深い底のない空のように、

水面の向こうに、数えきれない光の粒が瞬いていた。

 

それは、夜ではなかった。

夕暮れの中で、沈みゆく光の中で、

海は、空より先に夜を迎えていた。

 

星は、水の底にある。

それは、もしかしたら、

失われた記憶かもしれなかった。

 

私は、崖の端に膝をつき、

その星海に目を凝らした。

 

水の透明は、恐ろしいほどだった。

空気よりも澄んでいて、

そこに落とされた光は、どこまでも吸い込まれていった。 

 

そして、底から還ってくる光が、

星のようにまたたく。

石の破片が、

魚の影が、

あるいは何もない水の揺らぎさえも。

 

それらすべてが、

無言のままに明滅していた。

 

ふと、ひとつの石に目が留まった。

波に洗われて、転がって、磨かれた、

手のひらに収まるほどの白い小石。 

 

その小石の下に、青があった。

 

ただの水の反射ではない。

石を通して、青そのものが浮かび上がっていた。

 

それは、ひとつの色ではなかった。

青の奥に、緑がある。

緑の奥に、黒がある。

黒の中に、ひそやかに白が瞬いていた。

 

私は、小石を拾い、

しばらくその冷たさに指を委ねた。 

 

星を抱いた石。

 

崖の縁で、しばし目を閉じると、

まぶたの裏にも星が広がっていた。

 

地の底に、夜がある。

地の底に、空がある。

 

この海は、空を思い出しているのだ。

 

遠い昔、

空だった何かが、

今は海の底で光っているのだ。

 

立ち上がると、

もう風は戻っていた。

 

だが、さっきまでの冷たさではない。

ほんの少し、温もりを帯びていた。

 

星海を背に、私は再び歩きはじめた。

白い崖が、遠くへと続いていた。

 

そして、

歩みの先に、また別の青があるのを、

私はもう知っていた。

 




海ではなく、空でもなく。

そのあいだに揺らめくものを、私は「記憶」と呼びたくなる。

永遠とは動かないことではない。

静かに揺れながら、決して濁らないもの――



あの青が、それを教えてくれた。

歩き去った今も、胸の奥であの星は瞬いている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。