泡沫紀行   作:みどりのかけら

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夏の入り口に差しかかった頃、空の青がひときわ深くなった。
風はまだ若く、葉擦れの音にさえ、どこかしら初々しさを残していた。
そんな日、足は緩やかに北へと向かい、やがてひとつの山あいへと導かれた。

土を踏みしめるたびに、草の香りが立ち上る。
石は丸く、濡れ、ひっそりと苔に包まれている。
目に見えぬ何かが、森の奥から手招きをしているような気配があった。
それは言葉ではない。呼びかけでもない。
ただ、そこへ行け、と、静かに胸の奥に沁み込んでくる。

行き着いたのは、深く沈んだ緑の窪み。
その先に待っていたのは、光を飲み込む闇と、冷たく澄んだ水の鼓動だった。
何かが、確かにそこに眠っていた。
何かが、いまも息をしていた。


0284 闇に息づく碧の心臓

喉の奥に涼しさが降りた。

陽の名残が葉を透かしてゆらめく尾根を越え、湿り気を帯びた岩肌の隙間から、深く沈んだ呼吸のような風が滲み出ていた。

掌に触れた空気は、ひとつの静かな意志のように脈打ち、まるでこの地の奥底に眠る何かが、遠い昔から絶えず息をしているのだと教えていた。

 

苔むした石段を下るごとに、音がひとつずつ剥がれ落ちていく。

蝉の声も、鳥の羽音も、土を踏む足音さえも。

代わりに耳に届くのは、はるか下方から響く、水の気配。

打ち寄せるでも、流れるでもなく、ただそこにあり続けている、翡翠の心音。

 

やがて、湿り気の濃くなった空間に脚が沈み、眼前の闇が輪郭を得はじめる。

奥へと続くその口は、洞ではなく、ひとつの眠る器官のように感じられた。

無数の時を飲み込みながら、尚も沈黙を守る肉体。

その中へと踏み入れると、光の粒が肩をすり抜けて落ち、足元に滑らかな碧を投げた。

 

ひやりとした石の呼吸が肌に貼りつく。

壁面は鈍く濡れ、わずかに金属の匂いが漂っていた。

手の甲をかすめる冷気は、風ではなく、水そのものの息づかい。

歩みを進めるたび、足裏に伝わる地の鼓動は深く、低く、まるでこの世の重さそのものがそこに沈殿しているようだった。

 

一歩ごとに、色彩が失われていく。

石は灰に似た沈黙をまとい、滴る水音が、世界の輪郭を整えなおしていく。

明と暗、音と静。

その境界にあるのは、ただの無ではない。

吸い込まれたままの祈り、届かなかった声、石に刻まれた永い思念。

どれもが、ここでは確かにまだ、生きていた。

 

ときおり、足元を滑る光があった。

水面に反射した天井の照り返しではない。

それは、水そのものの奥に宿る淡い命のようだった。

光は脈打ち、消え、また浮かび、深い呼吸のように繰り返していた。

見つめていると、胸の奥に、言葉よりも先に届くものがあった。

 

手を伸ばしても、それは掬えない。

けれど、確かにそこにある。

そんな気配が、全身にじわじわと沁みていった。

 

途中、石の裂け目から滴り落ちる雫が、小さな皿を穿った窪みに集まり、静かな池となっていた。

その水面に顔を寄せると、こちらの瞳の奥に眠る何かが、そっと映り込む。

忘れ去った記憶の端、誰かの言葉の余韻、遠い季節の残像。

水は、ただすべてを受け入れて、揺れることもなく、そこにあった。

 

闇の奥は、思っていたよりも広く、深く、そして静かだった。

声を出すという発想さえ、ひとひらの葉のように遠く飛んでいった。

あまりにも沈黙が濃いために、心の中にまで音が立ち上る。

脈打つ血の音、骨を通して響く足音、息が弾むたびに揺れる胸の内側。

それらが、どれも異質に思えてくるほどに、この場所の気配は、他の世界とは切り離されていた。

 

足元の岩を照らした淡い光が、突如として広がりを見せた。

天井が開け、眼前に、水を抱いた大きな空洞が広がる。

碧の水面は、一切の影を跳ね返し、己の色だけを保ち続けていた。

その水の底から、遥かな昔の鼓動が聞こえてくる気がした。

 

足を止めたまま、その水を見つめていると、不意に涙が落ちた。

理由はわからない。

けれど、それでいいような気がした。

 

涙は水音にも似ず、ただ静かに頬を伝い、衣の端を湿らせた。

手で拭おうともせず、しばしのあいだ立ち尽くす。

光も風も届かぬこの地の底に、なぜか優しさだけが残されていた。

それは誰かが遺した祈りの残響だったのか、それとも、自身の奥底で長く眠っていた感情の欠片だったのか。

 

深い水に沈む青は、時間を忘れた色だった。

青というにはあまりに深く、黒というには柔らかすぎる。

生まれる前の記憶のように曖昧で、温かく、それでいて痛みを含んでいた。

 

周囲の岩肌には、ぽつぽつと泡のように滴る水音が続いていた。

そのひとつひとつが時を刻んでいるようにも思える。

過去と未来の区別が曖昧になるほど、この空間では「今」だけが濃かった。

それは、息をすること、歩くこと、目を開けて見ること、そのすべてを丁寧にさせた。

 

壁に手をつく。

石は冷たく、それでいて命の鼓動を内に抱えていた。

苔のようにしっとりとした温度が掌を包み込み、指先がわずかに震えた。

それは寒さではなく、深く潜ったところで触れる、無言の確かさに似ていた。

 

天井から落ちる雫が、水面に小さな輪を描いた。

輪は重なり、広がり、やがて静けさへと戻る。

それだけの出来事が、なぜか胸に深く沁みた。

音を伴わずに心を打つという現象が、この場所ではたしかに存在していた。

 

空間の奥へ歩を進めるごとに、色が変わる。

淡い翡翠から、透き通る藍へ、そして墨を溶かしたような濃紺へ。

石も水も空気も、すべてがその色に染まり、身体までもがゆっくりと同化してゆく。

誰かが消えても、世界は変わらず呼吸を続ける。

そう思うと、少しだけ心がほどけていった。

 

足音が再び響くようになったのは、少し開けた岩の広間に出たときだった。

水音も、雫も、すべてがそこでは遠く、耳の奥でくぐもって響くのみだった。

まるで時間が、ここで息を潜めているかのようだった。

 

中央に、小さな石の台座があった。

苔むし、欠け、風化したその輪郭に、なぜか奇妙な懐かしさを覚えた。

誰が置いたのか、何のためだったのか、そんな問いは意味を持たなかった。

それが「ある」ということだけで、すべてが満たされていた。

 

ゆっくりと腰を下ろし、目を閉じる。

何も考えず、ただ、身体の奥に染み込んだ冷気を感じながら、そこに在るという感覚を確かめていた。

まぶたの裏に、深い水の色が浮かんだ。

水は祈りを抱き、闇はそれを守っていた。

そう思うと、心の奥にあったざわめきが、静かに沈んでいった。

 

どれほどそこにいたのか、時間の感覚はとうに失われていた。

けれど、不意にひとすじの風が、肌を撫でた。

この場所には存在しないはずの、柔らかく乾いた風。

それは、再び歩き出すべき時が来たことを知らせていた。

 

立ち上がり、ゆっくりと踵を返す。

振り返れば、あの碧はまだそこにあった。

息をひそめ、光を吸い込み、眠るように静かに、確かに。

 

ここで見たもの、感じたもの、触れたもの。

それは言葉にできぬまま、胸の奥に沈んでいった。

けれどその重さは、歩くたびに、どこかで脈を打ちつづけるだろう。

 

水の奥に息づいていた、闇の心臓。

それは、目に見えぬまま、確かに存在していた。

そして今、自らの胸の内にもまた、似たような静けさが灯っていることに気づいていた。

 

空は遠く、風は優しく、そして歩みは、また始まる。




山を下りる頃には、陽が少し傾いていた。
風はやや重く、肌に触れる空気がわずかにぬるんでいた。
けれど、身体の奥にはまだあの冷たさが残っていた。
あの闇の底、碧の水面、沈黙の祈り。

ふと、胸の中に小さな空洞を感じる。
それは、何かを失ったようでいて、実のところは何かが加わった証でもある。
言葉にできないそれが、いまもどこかで脈を打っていた。

振り返れば、森は静かだった。
光は木々の間に揺らめき、虫の羽音がかすかに響く。
ただの景色に、かすかな変化がある。
目に映る世界が、ほんのわずか、別のものになっている。

歩き出す。
もう、かの洞の深さを知らなかった頃には戻れない。
けれど、それを抱えて生きることは、どこかで新しい静けさと繋がっていた。

遠くで鳥が啼いた。
水はまだ、どこかで息づいている。
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