泡沫紀行   作:みどりのかけら

285 / 1176
白は、音を持たぬまま、記憶に触れる色だった。
踏みしめた石の冷たさも、手にした器の温もりも、すべてはその白に包まれ、ほどけていく。

ひと筋の糸が、土の上に落ちていた。
それはただの食べ物ではなく、語られなかった夢の痕跡であり、誰かの静かな祈りだった。

口にした瞬間に過ぎ去る、けれど、確かに残る何か。
その断片を探しながら、名もなき小径を歩いていく。

白き糸の迷宮。
それは、終わらない旅の、ひとつのはじまり。


0285 白き糸の迷宮

昼の光が斜めに差し、石の小径をくぐる風に、ほんのわずかな温もりがあった。

かすかに白んだ空を背景に、木々の葉は音もなく揺れ、時折、風にあおられて散る葉がひとひら、肩に舞い落ちた。

 

川音のように、どこかで水が煮え立つような気配がしていた。

香ばしい焦げの香りとともに、遠くの方から白い湯気が漂い、道端の角を折れるたびに、その濃さを増していく。

石畳の割れ目から生えた苔に目を落とすと、その緑は濡れていて、まるで言葉を持たぬまま何かを語ろうとしていた。

 

小さな屋根の下、あわただしく湯を注ぎ、箸を走らせる音。

すり鉢の底をこする木の音が、獣の吐息のように低く響いている。

足元を流れる光と影の波に、目を細めながら、その暖かな場の端に身を置いた。

 

目の前に現れたのは、白くやわらかく、ほのかに透けるような糸だった。

湯気に包まれてたゆたうそれは、まるで綿毛の夢が束ねられたようで、箸先で持ち上げると、しっとりと手のひらに重みが移った。

 

すりつぶされたものの香り。

香ばしさのなかに、かすかな酸味と、どこか懐かしい草のような香りが混じる。

それを小さくかき混ぜながら、口に運ぶと、温もりと塩気が頬の内側をひと撫でする。

噛むたびにとろりと解けていき、柔らかな粘りが舌の上を漂った。

 

目を閉じると、遠くで鐘の音がしたような気がした。

誰かが笑ったような、誰かが泣いたような、曖昧な気配が背中をかすめる。

器の底に落ちた一筋の白を見つめながら、ふと、道に迷ったような感覚に包まれた。

 

気がつけば、同じような佇まいの屋根が連なり、入り組んだ道の一つひとつが、白い糸のように延びていた。

どの道も、どの店も、同じようでいて、微かに香りが異なっていた。

甘味の深い場所、辛味の鋭い場所、淡くやさしい風味の場所。

それぞれが、異なる記憶の断片を持っているようだった。

 

路地を進むたび、器を持つ手が少しずつ確かになる。

すり鉢の内側をこそぐ動きは、徐々に静かになり、慎重になっていく。

白き糸を解くことは、願いを解くことに似ていた。

混ぜること、すすること、咀嚼すること。

そのすべてが、一つひとつ、重ねた祈りのようだった。

 

道の途中で、また別の暖簾が揺れていた。

その影をくぐり抜けると、次の白き糸が待っていた。

わずかに太く、わずかに短く、しかし確かに、かつて口にしたものとは異なる。

だが、湯気の向こうにたたずむ器を見つめるうちに、それもまた同じ夢のなかにあったことを思い出す。

 

食むたびに、記憶の層が剥がれていくようだった。

幼い日の陽だまり、掌の温度、手渡された器の重み。

それらがすべて、白く、長く、ほのかに香る糸として、今もこの地に結ばれていた。

 

食べ終えたあと、器に残るわずかな汁に目を落とすと、それはまるで地図のようだった。

細く、乱れた線が幾重にも交差し、どこにも終わりのない道を描いている。

その中心に沈んだひとしずくの油が、午後の光を受けて静かに瞬いていた。

 

迷っているわけではなかった。

だが、どこまでも続くこの白い迷宮のなかでは、迷うこと自体が祈りのようだった。

 

軒下の影は長く伸び、石に落ちる光の角度が静かに傾いていく。

一杯を終えるごとに、身体の奥に音のない火が灯り、腹の底からやさしい重さが波打った。

柔らかな風が頬をなでて過ぎ、誰かの残した湯気の匂いが鼻をくすぐる。

歩くたび、心音に似た足音が、白く乾いた道に小さく重なっていく。

 

遠くから、臼の音が聞こえた。

擂られる音、つぶれる音、粉になる音。

それは、時間が丸く削られていく音だった。

記憶が、柔らかくすり潰されて、知らぬうちに胸に沁み込んでいく。

目に映るものすべてが、次第に輪郭をほどきながら、白く滲みはじめた。

 

ひとつの器のなかには、誰かの一日があり、ひと筋の糸の中には、名もなき暮らしの重なりがある。

それらが積み重なり、混ざり、煮詰められて、やがて名を失った美しさとなって立ちのぼる。

名がないからこそ、風景は永く残る。

音がないからこそ、香りは深く染みる。

 

ふと、口の奥に残った胡麻の香りが、胸の奥で広がった。

それは遠く、火の香り。

日々の営みを支える、あたたかく、決して派手ではない手の動きがあった。

それを知らず知らずに受け取っていたのだと、風に吹かれる屋根の軋みの中で思った。

 

さらに路地を抜けると、古びた木の扉が開かれていた。

奥にはまた、違う白があった。

すこし甘く、すこしゆるく、すこし粗く、すこし優しい。

糸のようでいて、どこか布のように柔らかい。

それを混ぜる手は、ためらいがちで、だが誠実だった。

 

器を手にしたとき、重さがあった。

それは湯気の重さではなく、重ねられてきた無数の時間の重さだった。

白き糸をひとたぐり、またひとたぐりとすするたび、胸の奥に、名もない情景が立ち上がる。

歩くこと、混ぜること、味わうこと。

それはすべて、ひとつの旅だった。

 

器の底に、また地図が浮かんでいた。

しかし先ほどのそれとは違っていた。

今度は、糸のように細い線が、複雑に絡まり、解けかけていた。

中心から広がる渦のように、混ざりながら、ひとつの方向に向かっていた。

 

どこへ向かっているのかは分からない。

けれど、歩くことはやめられなかった。

白き糸に導かれるようにして、次の角を曲がり、次の器を迎えにいく。

手にする湯気は、微かに変わり、味は風に似て、名前を持たない。

 

そして、ある場所では、少し濃い茶の味が混じっていた。

またある場所では、刻まれた果実のような酸味が、糸のなかに眠っていた。

それらはすべて、誰かの記憶であり、誰かの旅路だった。

歩くことで、それらと出会い、静かに別れていく。

 

夕の光が、石の道に金の縁取りを落とした。

風がほんの少し冷たくなり、袖の内側に秋の気配が宿った。

器の数だけ季節があり、すする音の数だけ願いがあった。

そしてすべての音が消えたあと、白き糸は静かに夢へと還っていく。

 

迷っているのではない。

ただ、この迷宮のなかで、祈りをひとつずつ紡いでいるだけ。

白く柔らかな糸のなかに、ほどけた心をそっと沈めながら、また歩き出す。

それは、終わりのない夢であり、尽きることのない糸だった。




満たされたのは、腹ではなかった。
すすり、味わい、飲み干すたびに、心のどこか深いところに、静かに光が降りていた。

器を重ね、すり鉢を伏せ、白い糸の名残が薄れていくころ、それでも、口の奥に残る香りだけは消えなかった。

迷宮を抜けたのではない。
ただ、迷うことに慣れただけ。
歩きながら、糸のような日々をたぐり寄せ、祈りのような食を抱きしめたのだ。

白は、やがて風に融けていく。
だがその夢は、次の角でまた、湯気となって立ちのぼる。

そしてまた、誰かが、ひとくち目をすする。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。