泡沫紀行   作:みどりのかけら

29 / 1178
夜の帳が静かに降りるとき、
光は空に記憶の軌跡を描く。

歩いてたどり着いたその地で、わたしは一瞬の永遠を見た。


0029 空に描く軌跡

幾重もの風の層をくぐり抜け、わたしは北へ歩いていた。

足元に続く道は、乾いた砂の香りを纏い、

誰にも踏みならされていないような素直な静けさを保っている。

足音だけが、ひとつ、またひとつと脈打ち、遠ざかる鳥の影が夕暮れの空に消えていく。

 

空は深く、色のない光で満ちていた。

まだ夜とは呼べない、その隙間のような時間。

遠くから水の音が聞こえる。

 

岸辺をゆっくりと撫でていく波。

それは声のようでもあり、眠る誰かのまどろみのようでもあった。

わたしはその音に惹かれて歩みを進めた。

 

草をかき分けると、やがて視界が開けた。

白く乾いた石の河原が、ゆるやかな弧を描いて流れに沿って広がっている。

その中心に、ひとすじの川。

 

悠然と、

 

そして深く、

 

重い記憶を抱えているかのように静かに流れていた。

水面は曖昧な青を溶かし込み、岸辺にこぼれ落ちた空を映している。

 

目を凝らすと、水中には無数の微かな光が揺れていた。

まるで水そのものが発光しているかのように、波が重なるたびに淡く瞬き、すぐに消える。

 

触れようとしても、その正体は掴めない。

 

「これは記憶の水だ」と思った。

 

過ぎ去った夏、流れ込んだ声、落ちた涙のしずく。

それらすべてが、ひとしずくの波紋となって、今日もここに眠っている。

 

 

 

日が沈み、周囲の草木が黒く沈黙を始めた頃、空にひとつの音が走った。

しんと張り詰めた空気を破り、弾けるように広がる、低い、けれど確かな轟き。

その直後、空に光が咲いた。

 

白く、冷たく、そして燃えるように。

 

その一発が夜の始まりを告げた。

光は波のように空に流れ込み、いくつもの尾を引いて拡がり、そして落ちていく。

 

すぐにまた、別の音が響く。

今度は橙、次は紅、やがて紫と金。

まるで空が記憶を語り出したかのように、無言のまま感情だけが爆ぜていく。

 

水面にも同じ色が映っていた。

だが、それは上とは違い、どこか溶けたように柔らかい。

火の色というより、夢の色。

少し遅れて揺れながら、夜の川面に光が花を咲かせ、そしてまた消える。

 

静かに、何事もなかったように。

 

音はすべてを貫き、空間に微かな震えを残す。

わたしは身をかがめ、白く乾いた石の上に腰を下ろした。

背後から吹く風が髪をそっと撫で、身体を透き通らせていく。

風も、音も、光も、わたしの内側に染み込んでくる。

言葉ではとても届かない、深く、重く、そしてなぜか懐かしいものたちが、ただそこにある。

 

火の花は、決して華やかなものではなかった。

ただ静かに、必要なだけ、夜に火を灯していた。

誰かに見せるためではなく、誰かの記憶の中でずっと咲き続けるために。

いくつもの光が散っては落ち、落ちてはまた咲いた。

 

時折、川の向こうから鳥のような影が音もなく飛び立ち、その羽ばたきが光をかすめて過ぎていく。風はさらに冷たくなり、石の白が夜の闇に溶けはじめる。

 

だが、水面だけは決して沈まない。

そこには、まだ言葉にされなかった光が漂い続けていた。

 

遠くに響く最後の轟きとともに、空に最も大きな光が咲いた。

それは白銀に近く、けれど決して冷たくはなかった。

空の深部から引き裂かれたような強い光が、川と、岸辺と、そしてわたしの影を浮かび上がらせた。

 

まるで時が、そこで止まったかのように。

 

光が消え、音が絶え、風も止まった。

 

夜が戻ってきた。

だが、その夜は、もう別の夜だった。

 

闇の中、川は静かに流れていた。

音もなく、ただ、ひたすらに。

空の軌跡を水面に映しながら。

 

白く乾いた石をひとつ拾い、手のひらに包み込む。

それは熱を帯びていないのに、どこか温かかった。

 

わたしはそれを懐に入れ、再び立ち上がった。

背を向けても、まだまぶたの裏には、白の光が残っていた。

 




心に灯る光は、消えたあとも残り続ける。

静かな流れのほとりで見た白の記憶が、いまも胸の奥で瞬いている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。