泡沫紀行   作:みどりのかけら

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季節は輪のようにめぐるが、ある土地には、重なったその輪が少しだけふくらんで、祈りの形をとることがある。

見知らぬ風をたどるうちに、ふと、ひときわ光が跳ねる浜辺にたどり着くことがある。
そこは、地図のどこにも記されていない。
けれど、忘れたはずの想いが、波の縁から静かに呼びかけてくる。

名もない石に指をのばせば、その表面には、かすかに何かが刻まれている。
それは言葉ではない。けれど確かに「誰か」がいたという証。
記され、消えかけ、けれど消しきれなかった記憶の名残。

歩くたびに、光は変わる。
風がめくるその一瞬に、いくつもの季節と、いくつもの誓いが通り過ぎてゆく。

知らずに来たのではない、という気がした。
思い出したわけでもない、けれど、たしかに一度はここに立っていたような。

そんな感覚だけが、浜の入り口でじっと待っていた。


0294 光が跳ねる約束の浜

砂の粒は陽を抱いて、ひとつひとつが小さな光の舟のように輝いていた。

足元に寄せる波は、冷たくもやさしく、くるぶしの下で白く弾けては、すぐさま去っていく。

水は澄んでいて、触れれば透き通る硝子のように身を引く。

その水の底では、小石たちが音もなく並び、揺れる陽に撫でられていた。

 

風は凪いでいたが、頬にはかすかな流れがある。

草の香りと、海に溶けた太陽の匂いが混ざり合って、記憶の奥にしまっていた遠い季節を呼び戻す。

陽は高く、けれど刺すようではなく、天からこぼれ落ちた羽毛のように、肌にやわらかく降り積もる。

 

浜の先に、岩が積み重なる小さな岬があった。

苔むしたその斜面には、忘れられた言葉のように、ひっそりと花が咲いている。

白や紫の、小さくも誇り高い花弁が、風のない空気のなかで揺れていた。

そのひとつに手を伸ばすと、茎の下から小さな虫が這い出してきて、指先の影に身を潜めた。

 

足元の砂は、歩くたびにわずかに沈み、靴裏の形を一瞬だけ刻んで消える。

その儚さが心地よく、ひとつひとつの足取りが、過去をそっと洗い流してゆくようだった。

歩を進めるほど、周囲の色はやわらぎ、遠くの海鳴りだけが、静かな調べのように響いていた。

 

ふと、光が跳ねた。

眼差しの先に、水面がひらりと揺れ、虹のかけらのような光彩が浮かびあがる。

その瞬間、波と波のあいだに見えたのは、ひとつの石だった。

滑らかな面に、無数の刻みが走り、まるで古い誓いが封じられているように思えた。

 

石に触れると、表面は太陽を抱いたままの温もりを宿していた。

指をなぞると、刻まれた模様が爪先にふれて、言葉にできない震えが掌を通り過ぎていく。

ひとりの人間がそこにいた証を、何かを願った気配を、その石は今も静かに守っていた。

 

浜はどこまでも続いていた。

だが、どこまでも行けるという感覚はなかった。

足元に広がる一歩一歩のほうが、はるかに深く、遠くに思えた。

空には薄い雲が流れ、太陽の光はその間から絹のように差し込んで、波の上に糸を引いていた。

 

遠く、子どもの笑い声のようなものが風に混じった気がしたが、すぐに消えた。

代わりに聴こえたのは、波が崩れ落ちる、乾いた硝子のような音。

それが幾重にも重なり合い、空間の奥行きを確かめるように、広がっていく。

 

一つの平たい石を拾い、掌に載せてみる。

角の取れた形が、どこか懐かしい。

指の腹で撫でると、時間の感触が伝わってくるようだった。

それは風に晒された記憶か、あるいは誰かの夢の欠片か。

捨てられたのではなく、置かれていたもののように思えた。

 

空を仰ぐ。まぶしさの奥に、何かひとつだけ動かないものがあった。

雲は流れ、鳥は過ぎ、光は瞬いていたが、その中心にある静けさだけが、どこまでも揺るがなかった。

まるでその場所が、ずっと昔からここにあり、これからも誰かを待ち続けるように。

 

波が寄せ、また引いていく。

その合間に、ひとつの影が自分の隣に落ちたような気がした。

振り返っても、誰の姿もない。ただ、海だけが、すべてを受け入れた顔でこちらを見ていた。

水は、語らずにすべてを知っている。刻まれた石と同じように。

 

足元の水が、ひざ下まで届くほど高くなることはなかったが、濡れた裾から冷たさがゆっくりと染み入り、肌の奥にまで深く静かに降りてきた。

その冷たさは不思議と苦ではなく、むしろ鼓動を忘れかけていた胸の奥に、かすかな目覚めのような気配をもたらした。

 

振り返ると、歩いてきた足跡はもう消えていた。

波がすべてを覆い、さらい、元から何もなかったかのような顔をしている。

風も声も、色彩さえも飲み込んで、ただ光の跳ねる浜だけが、時間の外に取り残されているようだった。

 

少し離れた場所に、ふたつの石が寄り添うように転がっていた。

片方は滑らかで丸く、もう片方は裂けたような線が深く入っている。

掌に載せてみると、ふたつの石はぴたりと重なり合い、まるで分かたれたひとつの心のように感じられた。

そこに込められたものを知るすべはない。

ただ、この場所で待ち続けていたという事実だけが、手の中にじっと息づいていた。

 

草の揺れに目を向けると、小さな昆虫が羽をたたみ、影のなかでじっとしている。

その静けさは、眠りとは違う。

ひとつの決意のように、音を立てぬまま、光の消える瞬間を待っている。

周囲はどこまでも静かで、時間が層になって沈殿しているようだった。

 

少しずつ空の色が変わりはじめていた。

陽はまだ高みにあるのに、遠くの空にはわずかな琥珀色が滲み、海の水面にその影が薄く映っている。

光は柔らかくなり、すべての輪郭をやさしく包み込むようになった。

砂粒の一つひとつが、まるで眠りの前に最後の祈りを捧げているように、淡く輝いていた。

 

再び歩を進める。

水を含んだ砂は、最初のうちは抵抗のように足を止めるが、やがてその重さすらも身体に馴染み、呼吸と一緒に波の律動に溶けていく。

時折、小さな貝が波打ち際に現れ、透ける殻の内側に、微かに息づく命のひかりが見えた。

 

遠くに黒ずんだ影が見える。

それは朽ちた木のようにも、座り込んだ人影のようにも見えたが、近づくにつれて、それがただの岩の塊であることがわかった。

岩には苔がむし、乾いた草が根を張り、そこに風の通り道ができていた。

風が抜ける音は、言葉にならない祈りのようでもあった。

 

岩のそばに腰を下ろす。

背をあずけると、太陽で温められた地面が背中に優しく触れてきた。

目を閉じると、潮の香りと、遠くでさざめく草の音が耳に満ちていく。

身体の境界が曖昧になり、海と砂と風のなかに、ゆっくりと溶けていくような感覚があった。

 

時間の経過は、もはや意味をなさなかった。

ただ、その場に存在すること。

その一瞬一瞬に、過去も未来も溶け合い、何か大切なものが確かにそこにあるという感覚だけが、心の奥底に静かに根を張っていった。

 

目を開けると、浜の向こうに小さな影がひとつ。

それが人か鳥か、あるいはただの風が運んだ形なのかはわからなかった。

ただ、こちらに背を向けて立っているように見えた。

そしてその存在が、なぜかこの場所を選んだ理由の一端を、そっと教えてくれるような気がした。

 

その背中に言葉はない。

けれど、足元の砂や、波の引いたあとの小さな石たちが、静かに応えていた。

まるでここが、幾度もの「約束」が交わされ、繰り返し「祈り」が刻まれてきた場所であると、忘れられぬ記憶のように。

 

波がまた寄せてきた。

先ほど拾ったふたつの石を、そっと水際に並べて置く。

波がそれを包み、すぐにさらうことはなかった。光が跳ねる。

その光は、まるでふたたび結ばれた何かを祝福するように、静かに舞っていた。

 

音もなく、風が一筋通り過ぎていった。

その風のなかに、名前を呼ぶようなやさしい気配があったが、それは音ではなく、胸の奥にだけ届くものだった。

 

歩き出す。

もう一度、踏みしめた砂が音もなく沈んでいく。

背後では、光が、波とともに静かに跳ねていた。

 

それはいつまでもそこにあり、誰かが歩み寄るたびに、何度でも呼びかけてくる。

 

それぞれの祈りが、石の中に刻まれ、光のなかに舞い続けるように。




石は静かに、すべてを見つめていた。

波が寄せ、光が跳ね、風が通り抜けたあとも、そこにあるものは変わらなかった。
踏みしめた砂は消えても、歩いた時間は、水の下にそっと沈んでいる。

かつて祈られたこと、語られなかった願い、確かめることなく置かれた約束。

それらはみな、光と影のあいだに紛れ、けれど完全に消えることはない。
見つけられなかったものが、ここでは音もなく迎えてくれる。

ひとは旅をする。
何かを探すためにではなく、すでに触れたことのある何かに、ふたたび手をのばすために。

あの浜の光は、まだ跳ねている。
誰のためでもなく、ただそこに在るものとして。

そしてきっと、また誰かが、歩き出すその一歩を、静かに導いていく。
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