泡沫紀行   作:みどりのかけら

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降るような静けさがあった。

森に足を踏み入れる前、その気配は空気に溶ける水音のように肌へ染みていた。
遠くで鳥が啼いていた。ひと声きりで、それはもう戻ってこなかった。

湿り気を含んだ風が頬を撫で、足元の草をわずかに揺らす。
名前のない道。名もない季節。けれど、この午後の光だけが確かだった。

心がまだどこか遠くにあるまま、歩みだけが森の懐へと進んでいった。
やがて、小さな木造の建物が、ひっそりと木々の影の中に浮かび上がる。

そこに至るための理由もなく、去るための言葉もまだ知らなかった。
ただ、この深い森が、なにかを待っているように思えた。

祈りのように、記憶のように。
石が沈黙のまま夢を見ている、その気配を孕んで。


0295 木霊がささやく森の家

踏みしめた土は、しっとりとした弾力を持って沈黙を返した。

かすかな苔の匂いが、風とともに鼻先をかすめる。

深い緑の影が、斜めに射し込む光を拒みながらも、ところどころで木の葉の端が金に縁取られていた。

午後の光はやわらかく、だが確かに傾いている。

 

水の流れの音が、はるか下の谷底から木々をすり抜けて届いていた。

高くもない鳥の鳴き声が、頭上でいくつか交差し、それがすぐに静けさの奥へと吸い込まれる。

枯葉を踏むたび、音が生まれては森に返される。

まるで、この場所そのものが鼓膜のように、歩を刻むたびに応えているようだった。

 

ゆるやかな傾斜を登る途中、苔むした石垣の端に、ぽつりと木で組まれた小さな小屋が見えてきた。

屋根は深く傾き、梁の間には古い風が巻き込まれて眠っているようだった。

扉もない入口の奥に、陽の光が届かない場所があるのが分かる。

風はそこを避けるように通り過ぎてゆく。

 

中へ入る前、足を止めた。

木々のざわめきが、さっきまでと違う調子を帯びていた。

どこかに、人の声のような響きが混ざっていた。

けれど、見渡すかぎりに誰の姿もない。

 

小屋の内部は思ったより広く、無造作に積まれた丸太や、干からびた蔓草が一角に寄せられていた。

床は硬い土で、ところどころに獣の小さな足跡の痕跡があった。

奥にひとつ、木の台のようなものがあり、そこに石が置かれていた。

 

掌ほどの、丸く平たい石。

その表面に、浅く彫られた線がいくつも重なっていた。

意味のない模様のようにも見えたが、じっと見つめていると、それがなにかの祈りのように思えてくる。

過去の誰かが、この森の静けさの中で、言葉を石に封じ込めたのかもしれない。

 

石を手に取ると、わずかに温もりがあった。

この場所が寒いはずなのに、石だけが昼の記憶を忘れていないようだった。

 

風が背後から差し込んできた。

それは冷たく、けれどもどこか優しく、肩先を撫でて通り過ぎた。

振り返ると、木の隙間から光がひとすじ、床の土に落ちていた。

 

小屋の梁の上から、細い枝が垂れ下がっていた。

その先に、小さな丸い実がついている。

乾いていて、もう味など残っていないだろうそれが、なぜか目に留まった。

 

外に出ると、森の気配がほんの少し変わっていた。

風が別の方向から吹いてきていた。

その風には、遠くにある水辺の香りが混ざっていた。

 

苔の上に腰を下ろし、しばらく目を閉じた。

葉と葉が擦れあう音が、耳の奥に染み込んでくる。

遠くの空の色が、うっすらと翳り始めている。

 

呼吸が、少しずつ深くなってゆく。

土と、木と、石と、風。

それぞれの音が、少しずつ身体の奥で重なり、そしてまた静かに溶けていった。

 

日がさらに傾くにつれ、森の色は深くなり、緑のなかに紺と灰が滲みはじめる。

空の青さは薄れ、葉の隙間から洩れる光もどこか鈍い琥珀のようだった。

立ち上がると、膝に残る湿りが冷たく、けれど土の気配をまとって心地よい。

 

歩き出すたびに、後ろから誰かに呼ばれているような気配があった。

それは声ではなく、音でもなく、記憶の底で忘れかけていた言葉の輪郭。

ふと立ち止まると、枯れ枝の先で揺れていた蜘蛛の巣に、午後の光がひときわ強く反射していた。

瞬間、すべての音が止んだかのような静寂が訪れた。

 

苔むした石段が、木々のあいだから現れた。

ひとつひとつ、歪で、不揃いで、だが確かに人の手で置かれた痕跡がある。

そこには道という意図があるようで、ないようで、けれど、足は自然とその輪郭に沿って上ってゆく。

 

石段の先に、朽ちかけた木の門のようなものがあった。

すでに半分崩れており、左右の支柱は苔に包まれていた。

その下をくぐるとき、胸の奥に冷たい水が流れ込んでくるような感覚があった。

 

門の内側は、しんと静まりかえっていた。

音という音が、木の皮に吸い込まれ、風さえ枝葉を揺らさない。

まるで、森そのものが息を潜めて、こちらを見ているようだった。

 

広場のように開けた場所に出ると、石が輪のように並んでいた。

大きさも形もまちまちだが、すべてが中心に向かって何かを囲むように置かれていた。

その中央に、小さな石の台があり、その上にもまた一つ、石があった。

 

午前に見たものとよく似た、掌の石。

けれど、こちらはひび割れがあり、その裂け目に、風で運ばれた種が根を下ろしていた。

小さな芽がそこから伸びており、まるで石が新しい命を抱いているようだった。

 

触れようとして、手を引いた。

それはこの森が、黙って守ってきた記憶のような気がした。

触れれば壊れてしまう、音のように、夢のように。

 

森の奥から、ふいに木が軋むような音が聞こえた。

誰かが歩いているわけではない。

ただ、木々が風に応じて、自らの古い体を鳴らしている。

 

足元に目をやると、先ほどの輪の外れに、何かが埋まっていた。

苔をそっと払うと、平たい木の板が姿を現した。

薄く、かすれた文様。

それはまるで、祈りの終わりに刻まれた沈黙のようだった。

 

風がまた吹いた。

今度は背中ではなく、顔にあたる。

同じ森の風でも、どこか異なる記憶を孕んでいるように感じた。

 

ここにはかつて、声があったのだろう。

見えない声、言葉にならなかった想い、残されずに消えていった音。

それらが石に、苔に、木の皮に、ひっそりと残されている。

 

指先で、その木の板の輪郭をなぞる。

ざらりとした感触。ひび割れた線。

その奥に、ほんのわずかに温かさのようなものが宿っていた。

 

立ち上がると、森が静かに揺れていた。

夕暮れの気配が背後から忍び寄り、木々の影がゆるやかに長くなる。

 

歩き出すと、背中に石たちの沈黙が寄り添ってきた。

ふり返らず、足元の柔らかな土の感触を確かめながら、森を下りていく。

 

木霊はもう、ささやいてはいなかった。

ただ、その静けさの中に、自らの鼓動がわずかに重なっているのを感じた。

 

光の残滓が、葉の裏でかすかにきらめいていた。

音のない祈りが、いまも、森の奥で眠っている。




森を出たとき、背後の木々が静かに揺れていた。

風はもう冷たくなっていたが、その冷たさにはとげがなく、どこか柔らかさがあった。
空の色が少しずつ失われていく時間。葉の輪郭が闇に滲み、道なき道が再び森に飲まれていく。

振り返っても、そこに建物の姿はなかった。
けれど確かに、木に包まれたあの空間があったことだけは、掌に残る感触が語っていた。

石の表面に刻まれていたものは、意味ではなく、気配だった。
誰かの想いのかけらが、時を超えてなお、沈黙の中に灯っていた。

その灯りに触れたことで、何かが少しだけ変わった。
言葉にはならない、名付けようのない小さな揺らぎ。

木霊は語らずとも、森はすべてを見ていた。
そして、それで充分だった。

遠く、風に乗って、ひとつだけ葉が舞った。
あの森にいた、無数の静けさのひとつが、今もどこかで夢を見ている。
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