泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風に押されて辿り着いたその場所は、
世界の端のようでもあり、
始まりのようでもあった。


私は、ただ歩き、
そして丘の歌に、耳を澄ませた。


0003 風が歌う丘

森を抜けると、世界が広がった。

 

それまで影と湿気の中を歩いていたせいか、

目の前に現れたその風景は、まるで別の世界のようだった。

 

緩やかな曲線。

重なり合い、波打つように連なる丘。

色とりどりの帯が、静かに起伏をなぞっていた。

 

濃い緑と、淡い黄。

赤茶色の土と、かすかに紫が混ざる植生。

それらが境界を持たずに混じり合い、

まるで大地そのものが静かに呼吸しているようだった。

 

 

 

風が吹いた。

 

草がそよぎ、色が揺れる。

一面の丘が、まるで水面のように波を立てる。

 

それは音を持たぬ歌のようで、

私はただ立ち尽くしていた。

 

 

 

その丘に、明確な道はなかった。

獣道ほどの細い踏み跡が、いくつかの稜線に寄り添っているだけだった。

 

私はその中の一本に足を踏み入れた。

 

足元は乾いた土。

しかしところどころに、雨を吸ったばかりの草の湿り気があった。

踏みしめるたびに、香りが立つ。

草と土の匂いが、風にのって鼻先をくすぐる。

 

 

 

遠くで、鳥の影が空を横切った。

 

音はしない。

ただ、空と丘の間を切り裂くように飛んでいった。

 

私はその影を目で追いながら、歩みを止めた。

 

ふと、気がついたのだ。

 

この丘には、音がほとんどない。

 

人の声も、獣の鳴き声も、人工の音も、

何一つ、ない。

 

あるのは風のざわめきと、

ときおり通る羽音と、

自分の足音だけ。

 

 

 

そのことに気づいたとき、

私は思わず呼吸を止めてしまった。

 

 

 

風が背中を押す。

 

視界の先には、さらに高い丘が見えていた。

私はそちらに向かって歩き始めた。

速度は遅く、音も立てないように意識しながら。

 

 

 

登りきると、空がさらに広がった。

視界いっぱいに畑が続き、

大地が重なり合って、遠くの空に溶けていく。

 

一枚一枚の畑は、まるでパズルの断片のようだった。

一つとして同じ形はなく、同じ色もなかった。

けれど全体として調和していた。

 

それは、描こうとして描いたものではない。

積み重ねられた時間と、

風と、光と、土の記憶が、

この静かな絵をつくりあげたのだ。

 

 

 

私は草の中に腰を下ろした。

 

少し湿っていたが、それもまた心地よかった。

太陽が高く、影が短く、

昼の匂いが風に混じっている。

 

時間の流れはゆっくりで、けれど確かだった。

 

空に浮かぶ雲が、かすかに動いている。

それがこの丘の「時間」だった。

 

音もなく、言葉もなく、

ただ色が、形を変えていく。

 

 

 

風がまた吹いた。

 

今度は頬に、やや冷たさを伴っていた。

 

太陽がわずかに傾き始めていた。

それとともに、丘の色が少しずつ変わっていく。

 

黄色は黄金に、

緑は青みを帯び、

赤土はより深く。

 

丘が一日を締めくくるための、

衣装替えのように見えた。

 

 

 

私は歩き出した。

 

再び稜線をたどりながら、

今度は別の丘を目指していた。

 

 

 

途中、小さな池のような水たまりがあった。

風が通ると、その表面に皺が走り、

空の色をくずしていく。

 

私はその水面に、自分の顔を見つけた。

けれどそこにあったのは、

どこか遠くを見つめる目だった。

 

 

 

思ったよりも、長く歩いていた。

 

太陽が傾き、丘の陰がのびていく。

あれほど明るかった色彩が、

いまは深いトーンへと変わっていた。

 

風も変わった。

 

やわらかさを残しながらも、どこか冷たい。

日が暮れる前に、大地が息を整えているようだった。

 

 

 

そして私は、最後の丘に立った。

 

そこからは、

自分が歩いてきた道のりが見渡せた。

 

波のように連なる丘の、そのすべてが、

静かに、ゆっくりと、夜の色に溶けていこうとしていた。

 

 

 

私は立ち尽くしたまま、目を閉じた。

 

風が、耳元で歌っていた。

 

音ではない、

でも確かに歌だった。

 

言葉にできない旋律。

この場所でしか聴こえないもの。

 

その歌は、私の胸の奥深くに、

静かに沈んでいった。

 

 

 

私は、歩き出した。

 

夜が来る前に、この丘を離れなければならない。

 

振り返ると、最後の光が

大地を柔らかく包んでいた。

 

それは、別れの光ではなかった。

 

ただ、この一日が、ここに在ったことを

確かめるような、光だった。

 

 

 

丘は、もう風の中に静かに眠っていた。




音のない場所ほど、
心の奥に届くものがある。

あの丘の風は、
確かに歌っていた。

言葉にはならずとも、
私はそれを聴き取り、
そっと心にしまったまま、
今も歩いている。
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