世界の端のようでもあり、
始まりのようでもあった。
私は、ただ歩き、
そして丘の歌に、耳を澄ませた。
森を抜けると、世界が広がった。
それまで影と湿気の中を歩いていたせいか、
目の前に現れたその風景は、まるで別の世界のようだった。
緩やかな曲線。
重なり合い、波打つように連なる丘。
色とりどりの帯が、静かに起伏をなぞっていた。
濃い緑と、淡い黄。
赤茶色の土と、かすかに紫が混ざる植生。
それらが境界を持たずに混じり合い、
まるで大地そのものが静かに呼吸しているようだった。
風が吹いた。
草がそよぎ、色が揺れる。
一面の丘が、まるで水面のように波を立てる。
それは音を持たぬ歌のようで、
私はただ立ち尽くしていた。
その丘に、明確な道はなかった。
獣道ほどの細い踏み跡が、いくつかの稜線に寄り添っているだけだった。
私はその中の一本に足を踏み入れた。
足元は乾いた土。
しかしところどころに、雨を吸ったばかりの草の湿り気があった。
踏みしめるたびに、香りが立つ。
草と土の匂いが、風にのって鼻先をくすぐる。
遠くで、鳥の影が空を横切った。
音はしない。
ただ、空と丘の間を切り裂くように飛んでいった。
私はその影を目で追いながら、歩みを止めた。
ふと、気がついたのだ。
この丘には、音がほとんどない。
人の声も、獣の鳴き声も、人工の音も、
何一つ、ない。
あるのは風のざわめきと、
ときおり通る羽音と、
自分の足音だけ。
そのことに気づいたとき、
私は思わず呼吸を止めてしまった。
風が背中を押す。
視界の先には、さらに高い丘が見えていた。
私はそちらに向かって歩き始めた。
速度は遅く、音も立てないように意識しながら。
登りきると、空がさらに広がった。
視界いっぱいに畑が続き、
大地が重なり合って、遠くの空に溶けていく。
一枚一枚の畑は、まるでパズルの断片のようだった。
一つとして同じ形はなく、同じ色もなかった。
けれど全体として調和していた。
それは、描こうとして描いたものではない。
積み重ねられた時間と、
風と、光と、土の記憶が、
この静かな絵をつくりあげたのだ。
私は草の中に腰を下ろした。
少し湿っていたが、それもまた心地よかった。
太陽が高く、影が短く、
昼の匂いが風に混じっている。
時間の流れはゆっくりで、けれど確かだった。
空に浮かぶ雲が、かすかに動いている。
それがこの丘の「時間」だった。
音もなく、言葉もなく、
ただ色が、形を変えていく。
風がまた吹いた。
今度は頬に、やや冷たさを伴っていた。
太陽がわずかに傾き始めていた。
それとともに、丘の色が少しずつ変わっていく。
黄色は黄金に、
緑は青みを帯び、
赤土はより深く。
丘が一日を締めくくるための、
衣装替えのように見えた。
私は歩き出した。
再び稜線をたどりながら、
今度は別の丘を目指していた。
途中、小さな池のような水たまりがあった。
風が通ると、その表面に皺が走り、
空の色をくずしていく。
私はその水面に、自分の顔を見つけた。
けれどそこにあったのは、
どこか遠くを見つめる目だった。
思ったよりも、長く歩いていた。
太陽が傾き、丘の陰がのびていく。
あれほど明るかった色彩が、
いまは深いトーンへと変わっていた。
風も変わった。
やわらかさを残しながらも、どこか冷たい。
日が暮れる前に、大地が息を整えているようだった。
そして私は、最後の丘に立った。
そこからは、
自分が歩いてきた道のりが見渡せた。
波のように連なる丘の、そのすべてが、
静かに、ゆっくりと、夜の色に溶けていこうとしていた。
私は立ち尽くしたまま、目を閉じた。
風が、耳元で歌っていた。
音ではない、
でも確かに歌だった。
言葉にできない旋律。
この場所でしか聴こえないもの。
その歌は、私の胸の奥深くに、
静かに沈んでいった。
私は、歩き出した。
夜が来る前に、この丘を離れなければならない。
振り返ると、最後の光が
大地を柔らかく包んでいた。
それは、別れの光ではなかった。
ただ、この一日が、ここに在ったことを
確かめるような、光だった。
丘は、もう風の中に静かに眠っていた。
音のない場所ほど、
心の奥に届くものがある。
あの丘の風は、
確かに歌っていた。
言葉にはならずとも、
私はそれを聴き取り、
そっと心にしまったまま、
今も歩いている。