泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風は、まだ誰のものでもなかった。
遠くの峰々を撫でるうちに冷たさを失い、草を揺らし、石の間に眠る露を震わせる。
夜と朝の境がとけてゆくそのとき、光の気配がはじめて目に触れる。

色のない空が、すこしずつ微かな音を孕みはじめる。
雲はその音に気づかぬふりをして、ゆっくりとかたちを変えながら過ぎていく。

地面にはまだ、誰の足跡もなかった。

けれど、風の中にひとすじの気配がある。
それは、いずれ花が咲くことを知っている静けさだった。


0308 花守の精が佇む静謐の台地

指先に触れる風が、ふと、かすかに湿っていた。

朝靄を抜けたばかりの尾根筋は、まだ眠りの余韻を纏いながら、沈黙をたたえていた。

苔むした石の呼吸、風にほどける草の香り、遠くでこぼれる水の音。

 

すべてが、ゆっくりと目を覚まそうとしている。

 

足裏にひんやりとした地のぬくもりが伝わる。

露を含んだ土は、長い夜を経てなお柔らかく、踏みしめるたびにわずかに沈んだ。

そこに、ひとすじの音が混ざる。

葉のあいだから落ちる雫の音か、それとも遠い記憶の余韻か。

耳を澄ませば、空と地のあいだに満ちる静けさが、ひとつの息吹のように寄せては返している。

 

ひらけた台地に辿り着いたのは、まだ陽が低く、空が青磁に似た淡色を帯びていたころだった。

 

そこには、時がゆっくりと通り過ぎてゆく気配があった。

高く、広く、そして深く。

言葉の届かぬほどの静けさが、草原の上に横たわっていた。

音という音が溶けていき、風すらも輪郭を失ってゆく。

 

地を這うようにして咲いていたのは、小さく、あまりに儚げな花々だった。

茎は細く、葉は銀緑の毛をまとい、薄紅の花弁がすこしずつ陽を仰いでいた。

ひとつ、またひとつ。

どこからともなく現れたその花たちは、まるで台地に灯された灯のように、ぽつりぽつりと命の色を結んでいた。

 

その色は、決して華やかではなかった。

けれど、あらゆる色がこの大地に溶けていったあとで、最後に残るような、かすかな光を帯びていた。

 

指を伸ばせば届きそうで、けれど決して触れることのない距離に在る、祈りのような花。

 

足元には、無数の石が転がっていた。

それらは風に晒され、雨に磨かれ、いずれも角を失っている。

白、灰、鼠、ところどころに淡い紫が混ざり、それが花の薄紅と呼応していた。

花と石は、互いの沈黙を守るように共にあり、どちらが先にここに在ったのか、もう誰にもわからない。

 

遥か下方に、雲が流れてゆく。

台地の縁から見下ろせば、深く削れた谷の裂け目に、白い霧が溜まっているのが見えた。

それは谷の底から湧き上がる幻のように、陽光を浴びてはきらめき、やがて風に千切られて消えていく。

 

耳に届くのは、自らの吐息と、草擦れのさざめきだけだった。

 

少しずつ、陽が高くなるにつれ、花々の薄紅が確かさを増してゆく。

まだ咲ききらぬ蕾が、ゆるやかに揺れながら、静かにその時を待っていた。

どこかに、かすかな気配があった。

 

その場に根を張り、風の言葉を聞き続けているような、

水脈のざわめきに耳を澄ませ、空の光と交わすまなざしを持つものが、

この花々を見守るように、ひとところに佇んでいるような姿は見えない。

 

けれど、確かにそこに“何か”がいた。

 

風にたなびく白い衣。

透けるほど淡い姿。

その気配だけが、周囲のすべてと融け合いながら、たしかに存在していた。

 

それは精とも、風の化身とも呼べるものだったかもしれない。

 

いや、名前など必要ない。

この静謐に、名をつけることなど誰にもできはしない。

 

雲の影がひとつ、台地を横切っていった。

 

風が、薄紅の花を揺らしながら過ぎていく。

 

花のあいだから立ち上る陽の匂いが、胸の奥にしずかに染みていく。

それはどこか幼い日の記憶に似ていた。

木陰で耳を澄まし、風の音をじっと聞いていた午後のこと。

手にしたものを落とすのも忘れて、ただ流れていく光の粒に見惚れていたあの時間の、ずっと奥の、言葉になる前の記憶。

 

花々が揺れている。

声なき囁きのように。

それはこの地に吹く風のことばか、あるいはこの地に生きたものたちの眠りの呼気か。

 

足元に目を落とす。

細い花茎が風に傾ぎ、またまっすぐに戻ってゆく。

何度も、何度も。

静かにけれど確かに、地に根ざして立ち上がろうとするその姿には、言いようのない意志の気配があった。

 

この台地には、時間が積もっている。

ひとの時ではなく、草の時、岩の時、花の時。

その奥底に、土をつらぬく光の筋がひっそりと流れていた。

目には見えぬその流れのなかで、花たちは目覚め、また眠り、そしてまた目覚める。

 

かつてこの地に立ち、花を見守っていた誰かがいたことが、何となく感じられた。

名を持たず、形を持たず、けれどこの台地の呼吸と同化しながら、風のなかにその気配を漂わせていた。

 

息を吸う。

空気は、思いのほか冷たかった。

薄い陽の光が頬に触れ、肩に落ちる。

衣がわずかに湿っていたのは、朝靄に包まれて歩いた尾根道のせいだろうか。

あるいは、ここに立つということが、この地の静けさに飲まれてゆく行為なのかもしれなかった。

 

腰を下ろす。

冷えた石が背にあたる。

けれどそれは、不思議な安らぎを含んでいた。

背後から伝わる温度は、長い年月に焼かれ、風に冷まされ、雨に濡れた石だけが持つ柔らかな記憶だった。

 

花の香りはかすかで、ほとんど感じられない。

けれどそれは、風の流れにまじって、ふいに何かを想い出させるように鼻腔をくすぐった。

香りというよりは、音に近かったかもしれない。

光と風と石が擦れあい、花のひらきとともに生まれる、見えない旋律のようなもの。

 

その音は、耳ではなく、胸の奥に響いた。

 

ときおり、遠くの雲が陽をさえぎると、花々の影が一斉に揺らぐ。

まるで誰かの手が、そっと撫でていったかのように。

その一瞬、台地の空気がふっと緩むのがわかる。

影と光のあわいに、いくつもの気配が眠っている。

言葉を持たぬ者たちの、深い記憶が横たわっている。

 

この場所には、いくつもの別れがあったのだろう。

けれど、それらは痛みのまま残されるのではなく、やがて風に融け、花に宿り、そして地の静けさへと帰っていったのだ。

だからこそ、ここには泣き声がない。

あるのは、ただ透明な祈りだけだった。

 

陽がさらに高く昇るにつれ、蕾だった花たちもすこしずつほころびはじめている。

あたたかい光を浴びながら、まるでこの地に舞い降りた小さな精霊たちのように、ほのかな色を膨らませてゆく。

 

ふと、立ち上がる。

背を伸ばし、振り返ると、いま歩いてきた道がゆるやかな弧を描いて、草の間に消えていた。

その先にも、まだ知らぬ景色が続いているのだろう。

けれど、しばらくはこの静けさを離れがたく思えた。

 

空に鳥の影がひとつ、音もなく過ぎてゆく。

 

風がまた、ひとすじ通り過ぎる。

花が揺れ、葉が応える。

そのやわらかな連なりに、確かな生命のめぐりを感じながら、目を閉じる。

 

しずかに、ひと息。

 

台地はただ、変わらずにそこに在った。

名もなく、声もなく、ただ花たちとともに……。




陽が落ちる気配はなかった。
ただ、光の粒がやわらかく薄れていくだけだった。
花々はそれを受け入れ、ひとつ、またひとつと影のなかへと姿を沈めてゆく。

風はもう、声を失っていた。
けれど、それでもなお葉は揺れ、草はそよぎ、どこかで見えないものが呼吸している。

遠ざかる背には振り返ることのない温度があった。
誰にも名づけられず、誰の記憶にも残らぬような、ひとときの光の名残。

台地はそれを、ただ静かに、抱きとめていた。
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