ひとひらの葉が、誰の目にも触れぬまま降り、まだ濡れた土にやわらかく触れたとき、季節の輪郭が、かすかに震えた。
遠くにかすむ稜線。
まだ名もない朝の光が、黒い森の端で、ほんの少しだけ色を変える。
すべては静けさのうちにあり、まだ誰の足音も刻まれていない道が、どこまでも続いていた。
落葉は風の形をして舞い、黒く湿った道を滑るように横切っていく。
梢の間からこぼれる淡い光が、道にひっそりと広がる苔の絨毯を淡く照らしていた。
石はひんやりと冷たく、足裏にじわりと秋の湿りを伝えてくる。
歩くたび、足音はすぐ吸われて、森の深奥へ溶けていった。
枝が絡まりあう梢は、空を隠すでもなく、ただその隙間を夜の呼気で満たしていた。
空はどこか遠く、月はそこにあるのか、それともただの幻か。
風のない夜、草の匂いと朽ち葉の匂いが濃く沈む。
息を吸い込めば、土に還るものたちの囁きが胸の奥でざわめいた。
苔むした祠のような岩の影に、小さな赤い実がぽつりと灯っていた。
濡れた唇を寄せると、甘さも酸味もすぐに散り、代わりに微かな苦みが残った。
喉を通りすぎるその感触に、どこか遠い記憶が一瞬だけ波打ち、すぐにまた静けさへと沈んでいく。
坂は緩やかに続き、木の根が蛇のようにうねっている。
そこに足をかけ、湿った幹に手を添えるたび、皮の感触が掌にぬるりと伝わる。
ここではあらゆるものが柔らかく、輪郭を失いかけている。
時もまた、どこかしら曖昧だった。
ふと、遠くで微かな水音が聞こえた。
耳を澄ませば、それは一定の間隔で岩を叩き、また沈黙に戻る。
水は見えないが、音は確かにそこにあった。
音の方へと足を向けると、やがて水面に月が溶けている場所にたどり着いた。
水は鏡のように静かで、ただ一枚の白い光が、裂けることなく揺らいでいる。
その光の真下、波ひとつない水面に、小さな羽虫が一匹だけ浮かんでいた。
動かず、沈まず、ただそこにいた。
指を伸ばせば届くような距離だったが、その瞬間、かすかに肌寒さが背中を這い、指先は静かに留められた。
音も色もない。
世界がふと呼吸を止めたようだった。
長く伸びる影に、赤く染まりかけた木の葉がゆっくりと落ちていく。
夜の闇はどこまでも深く、そして静かだった。
歩みを再び進めると、足元の石に残る霧のしずくが、かすかに光を抱いていた。
山の気配は、まだ遠い。
けれども、空気の密度が変わりはじめている。
高く冷たいものが、風のない森をゆっくりと満たしていく。
息を吐くたびに、ほんのわずかだが白く凍りそうになるその瞬間に、ひとつの季節が終わりかけていることを、確かに感じた。
木々はやがて少しずつまばらになり、空の色が濃さを増してくる。
道はさらに急になり、岩肌の隙間から吹く風が、今度ははっきりと頬を打った。
冷たさではなく、鋭さを伴っている。
見上げた先、山肌のどこかに、白く尖った輪郭が浮かんでいた。
月の光に照らされて、それはまるで、夜の深奥からせり上がる光の牙のようだった。
もう少し、近づかなければならなかった。
足元の岩は濡れて滑りやすく、草の根がからみついて、ほんのわずかな躓きが重たく響く。
掌に土のぬくもりを感じながら立ち上がると、風の音に混じって、ふいに鹿のものと思しき足音が、斜面の向こうに遠ざかっていった。
音はすぐに霧のなかに溶け、もう何も聞こえなかった。
空には月。けれどその姿は、雲の流れに隠れていた。
白い靄が辺りを這い、木の幹と岩のあいだを揺らしている。
景色はまるで水の中にあるようにぼやけて、足を一歩踏み出すたび、霧が柔らかく身体を包む。
何かが近くにいるような、それでいて何もいないことを知っているという奇妙な感覚が、ひたひたと皮膚の内側を歩いていた。
手を伸ばせば、霧の奥に枝があり、枝の先には黄金色に染まりかけた葉がひとひら、かろうじてついていた。
風もないのに、その葉はかすかに震えていた。
触れたら消えてしまいそうだった。
けれど、それでも、それをただ見ていた。
しばらくして、道が開けた。
巨岩が幾重にも重なり、それらの間を縫うようにして細い獣道が続いている。
風はそこで急に強くなり、衣の裾がふわりと持ち上がった。
身体が少しだけ浮くような感覚。
そしてそのまま、岩の陰から現れた月が、ついに姿をあらわした。
雲の切れ間に滑り出た月は、白銀の静けさを山全体に注ぎこんだ。
頂はもう遠くなかった。
だが、そこへ向かう足は自然とゆるやかになり、岩の隙間から湧き出す冷たい水に手を浸しながら、少しだけ座り込む。
水は冷たく、澄んで、なにも混ざっていない。
指の隙間を流れていく感触に、なぜか心の内側まで磨かれていくようだった。
背後では森がずっと、夜の夢を見ていた。
枝の擦れる音、葉の落ちる音、時折どこかの獣の呼吸。
それらすべてが、ただそこにあるというだけで、なにか確かなものに触れている気がした。
やがて立ち上がり、最後の急坂に足をかける。
苔も根も、もう少ない。
風の音が高くなり、肌に当たる冷気に、いま自分が山の一部になりつつあるのを感じる。
目の前には、静けさの果てに横たわる、広い広い月の光。
その光の中心に、山はあった。
黒と銀と灰の、あらゆる静けさを纏った霊峰。
その姿は、呼吸を奪うほど美しく、そして、どこまでも遠かった。どれだけ近づいても、山は山であり、自分とは隔てられていた。
だが、それでも。
そこに立ち尽くすことだけは許された。
光に触れ、風に包まれ、時間を忘れてただそこに在ること。
何かを求めるでもなく、答えを得るでもなく、ただ静かに、そこにいたということだけが、たしかな痕跡として胸に残っていた。
目を閉じると、風の中に低く響く音があった。
それが山の心音なのか、自らの鼓動なのかはわからなかったが、音は静かに繰り返され、しだいに夜の深みへと溶けていった。
月は雲に隠れ、再び暗闇が山を包みこむ。
だがその闇すらも、どこか安らかで、ぬくもりを孕んでいた。
静寂の中で、小さな灯りが胸の奥に宿っていた。
それは言葉にできず、名づけもされず、ただそこにあった。
そしてそれを携えて、また歩き出す。
山は背を向けても、決して遠ざからなかった。
その夜、黒森の霊峰は、確かに月影に浮かんでいた。
光は何も語らず、ただ、そこにあった。
風が枝を揺らし、名もなき種子が地に落ちていく音に、耳を澄ませるような時間の中で、心はひとつ、輪郭を失っていく。
振り返れば、その道が確かにあったことを知る。
けれど、そのすべてはいまや風とともに深い眠りへ沈み、ただ、うっすらと胸の奥で、まだあたたかかった。
沈黙のあとに残るものは、言葉ではない。
記憶でもない。
それは、歩いたことのある光の重みだった。