泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風の音が聞こえるより先に、空気の匂いが変わっていた。

ひとひらの葉が、誰の目にも触れぬまま降り、まだ濡れた土にやわらかく触れたとき、季節の輪郭が、かすかに震えた。

遠くにかすむ稜線。
まだ名もない朝の光が、黒い森の端で、ほんの少しだけ色を変える。

すべては静けさのうちにあり、まだ誰の足音も刻まれていない道が、どこまでも続いていた。


0309 月影に浮かぶ静寂の霊峰

落葉は風の形をして舞い、黒く湿った道を滑るように横切っていく。

梢の間からこぼれる淡い光が、道にひっそりと広がる苔の絨毯を淡く照らしていた。

石はひんやりと冷たく、足裏にじわりと秋の湿りを伝えてくる。

歩くたび、足音はすぐ吸われて、森の深奥へ溶けていった。

 

枝が絡まりあう梢は、空を隠すでもなく、ただその隙間を夜の呼気で満たしていた。

空はどこか遠く、月はそこにあるのか、それともただの幻か。

風のない夜、草の匂いと朽ち葉の匂いが濃く沈む。

息を吸い込めば、土に還るものたちの囁きが胸の奥でざわめいた。

 

苔むした祠のような岩の影に、小さな赤い実がぽつりと灯っていた。

濡れた唇を寄せると、甘さも酸味もすぐに散り、代わりに微かな苦みが残った。

喉を通りすぎるその感触に、どこか遠い記憶が一瞬だけ波打ち、すぐにまた静けさへと沈んでいく。

 

坂は緩やかに続き、木の根が蛇のようにうねっている。

そこに足をかけ、湿った幹に手を添えるたび、皮の感触が掌にぬるりと伝わる。

ここではあらゆるものが柔らかく、輪郭を失いかけている。

時もまた、どこかしら曖昧だった。

 

ふと、遠くで微かな水音が聞こえた。

耳を澄ませば、それは一定の間隔で岩を叩き、また沈黙に戻る。

水は見えないが、音は確かにそこにあった。

音の方へと足を向けると、やがて水面に月が溶けている場所にたどり着いた。

水は鏡のように静かで、ただ一枚の白い光が、裂けることなく揺らいでいる。

 

その光の真下、波ひとつない水面に、小さな羽虫が一匹だけ浮かんでいた。

動かず、沈まず、ただそこにいた。

指を伸ばせば届くような距離だったが、その瞬間、かすかに肌寒さが背中を這い、指先は静かに留められた。

 

音も色もない。

世界がふと呼吸を止めたようだった。

 

長く伸びる影に、赤く染まりかけた木の葉がゆっくりと落ちていく。

夜の闇はどこまでも深く、そして静かだった。

歩みを再び進めると、足元の石に残る霧のしずくが、かすかに光を抱いていた。

 

山の気配は、まだ遠い。

けれども、空気の密度が変わりはじめている。

高く冷たいものが、風のない森をゆっくりと満たしていく。

息を吐くたびに、ほんのわずかだが白く凍りそうになるその瞬間に、ひとつの季節が終わりかけていることを、確かに感じた。

 

木々はやがて少しずつまばらになり、空の色が濃さを増してくる。

道はさらに急になり、岩肌の隙間から吹く風が、今度ははっきりと頬を打った。

冷たさではなく、鋭さを伴っている。

 

見上げた先、山肌のどこかに、白く尖った輪郭が浮かんでいた。

月の光に照らされて、それはまるで、夜の深奥からせり上がる光の牙のようだった。

 

もう少し、近づかなければならなかった。

 

足元の岩は濡れて滑りやすく、草の根がからみついて、ほんのわずかな躓きが重たく響く。

掌に土のぬくもりを感じながら立ち上がると、風の音に混じって、ふいに鹿のものと思しき足音が、斜面の向こうに遠ざかっていった。

音はすぐに霧のなかに溶け、もう何も聞こえなかった。

 

空には月。けれどその姿は、雲の流れに隠れていた。

白い靄が辺りを這い、木の幹と岩のあいだを揺らしている。

景色はまるで水の中にあるようにぼやけて、足を一歩踏み出すたび、霧が柔らかく身体を包む。

何かが近くにいるような、それでいて何もいないことを知っているという奇妙な感覚が、ひたひたと皮膚の内側を歩いていた。

 

手を伸ばせば、霧の奥に枝があり、枝の先には黄金色に染まりかけた葉がひとひら、かろうじてついていた。

風もないのに、その葉はかすかに震えていた。

触れたら消えてしまいそうだった。

けれど、それでも、それをただ見ていた。

 

しばらくして、道が開けた。

巨岩が幾重にも重なり、それらの間を縫うようにして細い獣道が続いている。

風はそこで急に強くなり、衣の裾がふわりと持ち上がった。

身体が少しだけ浮くような感覚。

そしてそのまま、岩の陰から現れた月が、ついに姿をあらわした。

 

雲の切れ間に滑り出た月は、白銀の静けさを山全体に注ぎこんだ。

頂はもう遠くなかった。

だが、そこへ向かう足は自然とゆるやかになり、岩の隙間から湧き出す冷たい水に手を浸しながら、少しだけ座り込む。

水は冷たく、澄んで、なにも混ざっていない。

指の隙間を流れていく感触に、なぜか心の内側まで磨かれていくようだった。

 

背後では森がずっと、夜の夢を見ていた。

枝の擦れる音、葉の落ちる音、時折どこかの獣の呼吸。

それらすべてが、ただそこにあるというだけで、なにか確かなものに触れている気がした。

 

やがて立ち上がり、最後の急坂に足をかける。

苔も根も、もう少ない。

風の音が高くなり、肌に当たる冷気に、いま自分が山の一部になりつつあるのを感じる。

目の前には、静けさの果てに横たわる、広い広い月の光。

 

その光の中心に、山はあった。

黒と銀と灰の、あらゆる静けさを纏った霊峰。

その姿は、呼吸を奪うほど美しく、そして、どこまでも遠かった。どれだけ近づいても、山は山であり、自分とは隔てられていた。

 

だが、それでも。

 

そこに立ち尽くすことだけは許された。

光に触れ、風に包まれ、時間を忘れてただそこに在ること。

何かを求めるでもなく、答えを得るでもなく、ただ静かに、そこにいたということだけが、たしかな痕跡として胸に残っていた。

 

目を閉じると、風の中に低く響く音があった。

それが山の心音なのか、自らの鼓動なのかはわからなかったが、音は静かに繰り返され、しだいに夜の深みへと溶けていった。

 

月は雲に隠れ、再び暗闇が山を包みこむ。

だがその闇すらも、どこか安らかで、ぬくもりを孕んでいた。

 

静寂の中で、小さな灯りが胸の奥に宿っていた。

それは言葉にできず、名づけもされず、ただそこにあった。

 

そしてそれを携えて、また歩き出す。

山は背を向けても、決して遠ざからなかった。

 

その夜、黒森の霊峰は、確かに月影に浮かんでいた。




光は何も語らず、ただ、そこにあった。

風が枝を揺らし、名もなき種子が地に落ちていく音に、耳を澄ませるような時間の中で、心はひとつ、輪郭を失っていく。

振り返れば、その道が確かにあったことを知る。
けれど、そのすべてはいまや風とともに深い眠りへ沈み、ただ、うっすらと胸の奥で、まだあたたかかった。

沈黙のあとに残るものは、言葉ではない。
記憶でもない。

それは、歩いたことのある光の重みだった。
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