泡沫紀行   作:みどりのかけら

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赤く染まる谷は、まるで長い夢の記憶のようだった。
燃えるような葉と、白く漂う湯けむり。

歩くほどに現れる静寂は、語らぬままに心を震わせる。

そこはただの風景ではない。眠る竜の背に立つ、永遠と邂逅する場所だった。


0031 竜の眠る渓谷

風は谷を昇り、木々の葉を逆撫でするたび、そこに隠された声なき時間がざわめいた。

足元の小道は乾いた苔と落ち葉に覆われ、踏みしめるたび微かに沈む。

 

その音さえ、ここでは一つの祈りのように感じられた。

 

渓谷の入口は、まるで時の狭間だった。

山の影が深く落ち、空に浮かぶ白い雲すら、音を失ったように静止している。

 

私はそこに足を踏み入れた。

 

歩くたびに、鮮やかな紅の天蓋が頭上に広がっていく。

枝から垂れた葉が、空気の温度を変えていくようだった。

 

空は高く、遠く、どこまでも透き通っていた。

だがその青ささえ、燃えるような紅葉の前では脇役にすぎなかった。

 

渓流の音が、やがて耳を満たし始める。

水は岩を巻き、跳ね、囁き、あるいは夢見るように流れていた。

渓流沿いに点在する岩は、白く、どこか温もりを帯びていた。

 

そこから立ち上る淡い湯けむりが、まるでこの地が眠る竜の背中であるかのような錯覚を呼んだ。

湯けむりはゆっくりと空に昇り、枝葉の間をさまよいながら、しずかに、消えていった。

 

時折、葉がひとひら舞い降りる。

 

その落ち葉は、ただの枯れ葉ではなかった。

金に染まり、紅に燃え、橙に揺れるその一枚一枚が、まるで古い物語の断片のようだった。

 

私は何度も足を止めた。

 

風が吹くたび、世界が一度崩れ、再び美しく再編成されるのを感じた。

木々は語らない。しかし、語らぬことでなお深く、その生を響かせていた。

 

道はゆるやかに登っていく。

渓谷の奥へ、さらに奥へ。

 

岩に沿って苔が厚くなり、足元の湿り気が強まる。

小道の両脇には、倒れた幹があり、それらさえも苔むして、長い時を受け容れていた。

その様は、まるで地の底から湧き上がる記憶をまとっているかのようだった。

 

ふいに視界が開ける。

 

崖の中腹に立つと、谷全体が一望できた。

錦を敷き詰めたかのような木々が波打ち、ところどころに白く揺れる湯けむりが点在していた。それはまるで、巨大な生きものの呼吸のようだった。

遠くで、流れが岩を打つ音がこだまし、風が谷を撫でてゆく。

 

私はそこで、長く立ち尽くした。

 

声にできる言葉はなかった。

ただ、そのすべてが、静かに、永遠に続いてほしいと思った。

 

下る道すがら、夕暮れが始まりを告げていた。

空はやわらかな紫に変わり、紅葉は今度は火ではなく、光の余韻のように揺れていた。

葉の一枚一枚が、日に照らされて金色に輝く。

その光は、どこか懐かしさを帯びていた。

 

忘れていた誰かの笑顔や、名も知らぬ子守唄のように、胸の奥深くでそっと響いた。

 

渓流のそばまで戻ると、空気はほのかに温かかった。

岩の間から立ちのぼる湯けむりが、もう光をまとわず、

 

ただ白く、淡く、夢のように漂っていた。

 

それを目で追いながら、私はふと、ここが竜の眠る場所であることを信じていた。

火を吐くのでもなく、空を翔けるのでもない。ただ、深く、静かに眠る竜。

時の流れとともに、その背に森を育み、風を孕み、光と水と葉を揺らし続ける者。

 

渓谷の出口にたどり着く頃、空はすっかり暮れていた。

 

紅葉は影に沈み、風も渓流も、どこか遠い夢の中にあるようだった。けれど、その記憶だけは、確かに私の中に残った。

紅の天蓋と、白い湯けむりと、竜の眠る静けさと。

 

歩いた距離では測れぬほどの、長い旅路のひとつとして――

 

私は、その谷を、胸に刻んだ。

 




その谷を歩いたとき、私は景色ではなく時間を見ていたのかもしれない。

紅の葉は燃え尽きる炎ではなく、記憶を灯す灯火だった。

竜は眠っている。

ただしずかに、すべてを包むように。
私はそのまどろみに触れ、ほんの少し、永遠を知った気がした。
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