泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風が揺らすものは、名を持たない。
光が触れるものは、いずれ失われる。

それでも、ある日ふと、その場所に向かう足が生まれる。
確かな理由はなく、呼ばれたわけでもない。
ただ、遠くで何かが微かに響き、それがやがて、胸の奥の沈黙を押しひらく。

夏の終わり。
緑の輪郭が金にほどけ、空がやわらかく傾く頃。
あるひとつの高みへと向かう道が、静かにその輪郭を現す。

気づかれぬまま、多くの声が通り過ぎた場所。
いま、名もなき影がそこを踏みしめる。


0310 海を統べる金の霊峰

ひとけの消えた野に、蝉の名残が薄く降る。

風は痩せ、草は乾き、音だけが遅れて夏の背を追っていた。

長く続く石の道は、陽に焦げた苔の香を孕みながら、名もなき樹々の影を縫ってゆるやかに登っていく。

ひと息ごとに、体温より高くなった風が頬を撫で、指の間から滲む汗をあたためてはまた消えた。

 

土は浅く、ところどころ白い骨のような岩が露出している。

踏みしめるごとに、古い鈴のような音が足裏で震える。

その音が何に似ているのか、どこかで聞いた記憶があるような、遠い夢のような気がするが、思い出せない。

 

ふいに、木々の合間から白く光るものが見えた。

金でもない、銀でもない、もっと硬質で、かつやわらかく、水に映る月のような光。

 

鳥の羽音が一度だけ梢を揺らし、そのあとに訪れる静寂は、心の中の底知れぬ湖を思わせた。

 

ひとつ、深く息を吐く。

そこから先の道は、苔むした石段が断続的に続いていた。

段差は不規則で、踏み幅もまばらにゆがんでいるが、不思議と身体の流れに沿っていた。

呼吸が歩みに馴染むまで、しばし無言の対話のような時が続いた。

 

石の間に咲く、名も知らぬ白い花。

葉脈は細かく裂け、花弁のふちにだけ金色の縁取りがある。

光を吸い込むように、ひっそりと揺れていた。

 

空は高く、雲ははるかに透けていた。

時折、風が谷から吹き上げる。

その風が頬に触れるとき、ただの風ではないことがわかる。

潮の香が含まれていた。遥か下方に海があるはずだ。

見えはしないが、重く、広く、気配だけで地形が想像できる。

 

空と海の境が曖昧になるほど、光が柔らかくなっていた。

 

石段を登るほどに、音が遠ざかる。

葉擦れも、風の鳴き声も、鳥の囁きも、すべてが少しずつ距離をとっていく。

自分の足音だけが、誰にも触れられない時間を刻んでいる。

 

やがて、風が途切れ、空気の密度が変わる瞬間が訪れた。

ひとつ、曲がり角を過ぎると、視界が急に開けた。

 

目の前に現れたのは、黄金色に染まった広場だった。

石畳には細かい砂金が練り込まれたように光が反射し、すべてが柔らかく光っていた。

そこに建つものは、木の香りを残したまま、静かに、確かに、そこにあった。

 

息を止めたのか、風が止んだのか、あらゆる音が凪いでいた。

 

天を仰ぐと、光の柱が降りていた。

どこからともなく湧いた霧が、その光を受けて揺れていた。

生きもののように、意思を持っているように。

 

足元に影ができる。自分のものではなかった。

見上げても、何もいない。ただ風だけが、形を持ったように肩を撫でてゆく。

 

何も語らず、ただそこにあり続ける場所。

ここに立つこと、それだけが意味を持つような気がした。

 

石に手を置くと、熱が伝わってきた。

光ではない。人の手によって積み上げられた時間の熱だ。

数えきれない足音と、祈りと、沈黙の重みが、冷たい表面の下に眠っていた。

 

掌をそっと離す。指先に残るのは、名もなき金の記憶。

 

光は傾き、影がひとつずつ長くなっていく。

ひとときも同じ形を保たぬ霧が、地を這い、木々の根元に吸い込まれてゆく。

まるで眠りの支度を始めるような気配が、空気の端々に溶けていた。

 

奥へと続く小径は、砂金を敷き詰めたように明るく、だが確かな静寂に包まれていた。

踏み込むたび、空間の密度が変わる。

何かに見られているようで、何にも触れられていない。そんな感覚が背を這う。

 

その先にあったのは、言葉を持たぬ“在りか”だった。

空間というより、ひとつの「気配」として、そこにあった。

 

風がここでは吹かず、鳥も鳴かず、葉も揺れない。

ただ、光があった。

黄金ではない、けれども確かに金を思わせる光。

夕映えがすべてを浸すよりも前の、瞬間的な明るさ。

世界が息をひそめ、時がわずかに止まる、その狭間にしか現れない色。

 

その中に、ひとつの石が置かれていた。

古びて、ひび割れ、風雨にさらされた跡があったが、その中心にだけ、不思議な艶が残っていた。

そこだけが、誰にも触れられていないかのように。

 

手をのばせば、何かが失われるような気がした。

それでも、指はわずかに動いた。

触れるか触れないか、その境をただ漂うように、影だけが石の上に落ちた。

 

そして、遠くで音がした。

 

低く、地の底から響くような音。

打ち鳴らされた鼓のようでもあり、深海の岩が割れるような、古の呼吸のようでもあった。

音は一度だけ、鼓膜の奥で反響し、それからすべてを沈黙のなかへ押し戻した。

 

どれだけの時が過ぎたかはわからない。

だが、光は変わっていた。

もう金ではなかった。あたたかくも冷たくもない、透明な光だった。

 

背を向ける。

足元の草が、少しだけ伸びていた。

来たときにはなかった淡い緑が、指先を撫でるように揺れていた。

 

来た道を戻る。

石段は変わらず不揃いで、ひとつひとつが遠い記憶のかけらのように感じられる。

足裏で確かめるたび、風景が少しずつ身体の内側に沈んでいく。

 

ふと、肩を撫でた風が香りを運んだ。

潮と木の皮と、干した苔と、火の気配。

何かが焼けたあとの、懐かしい匂いだった。

 

空は深く、海はまだ見えなかった。

けれど、遠くで波の音がした気がした。

耳を澄ますと、それはただの風の遊びだったのかもしれない。

 

それでも、確かにそこに海はあった。

黄金の霊峰が見下ろす、遥かな海。

すべての静けさが、その海へと流れ込んでいるように思えた。

 

歩みは遅く、だが確かに地を踏んでいた。

掌に残る名もなき熱だけが、まだ微かに脈を打っていた。

 

そして、あの金の光は、もう振り返らずとも、まなざしの奥に息づいていた。




光はもう、声を持たない。
ただ、まなざしの奥に沈み、呼吸の間にとどまっている。

掌に残るものは、熱か、祈りか、あるいは、名のない別れの記憶か。

遠ざかるほどに近づいてゆくものがある。
背を向けたあとにこそ、はじめて気づく気配もある。

海は見えずとも、音は届く。
風は触れずとも、香りが漂う。

そうして、またひとつ、何も知らぬままに、歩みは続いていく。

静けさのなかに、かすかに満ちるものだけを、胸にしまって。
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