泡沫紀行   作:みどりのかけら

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水の気配は、はるか前からあった。
目には見えず、音もなく、ただ岩の奥を流れ、風の底を這い、空の下に降り積もる。

足もとの草が湿りを帯びると、ひとつの道が静かに浮かび上がる。
だれのためでもなく、だれに呼ばれることもなく、ただそこにあるだけの小さな明るみ。

季節は、まだ名をもたぬ熱を孕んでいた。
遠い空のひかりが、石の縁に指先を置き、声なき時間を照らしている。

その場所には、ことばがなかった。
かわりに、風がすべてを語り、沈黙がすべてを包んでいた。


0311 翡翠の眼をもつ竜の眠り穴

翡翠を湛える湖面は、風に触れるたびかすかに波打ち、揺らぎの奥に眠るものの鼓動が、薄い水膜越しに伝わってくるようだった。

空と水が溶け合うその窪地には、夏の熱が昇りきる前の静けさが満ちていた。

 

霞む稜線の向こうから、幾重にも重なる陽光が層を成し、岩肌をゆっくりと照らしていく。

石と石の隙間に根を下ろした小さな草花たちは、その光を目印にするかのように、ひそやかに首をもたげていた。

 

乾いた足裏に伝う礫の粒子。

白く、ひび割れた道は細く、雲の影に溶けかけながら、谷へと沈んでいく。

風が、行き先を告げるように背を押す。

その風の中に、わずかに硫黄を思わせる匂いが混じっていた。

 

水を湛えたその場所は、火と氷が語り合った記憶の底にある。

かつて天が落とした涙が、地の怒りを鎮めたとも、あるいは龍の眼が冷たくひらいたとも、伝えられている。

けれど、それを聞いたことはなかった。足元の静けさが、ただ真実のようにあった。

 

崖沿いの岩棚をなぞるように進むたび、音のない世界が少しずつ変わっていく。

石の色が変わる。苔が増える。

風が深くなる。

足をとめ、ひと息ついた指先に、岩肌の熱がじんわりと伝わってきた。

 

遠くの空が、ほのかに鳴った。雷ではない。

風でもない。大地の下を流れる、名もなき鼓動のようなもの。

音ともつかぬその気配は、骨の奥にわずかに触れ、すぐにまた沈んでいった。

 

翡翠の湖は、かたちを持たぬまま、見る者によって幾通りにも姿を変える。

深く、澄み、ときに濁り、夜には空の星々をその底に飲み込む。

水面のきらめきは、光の衣をまとった記憶のように、そっと目の奥を照らした。

 

そこには何もない。

ただ、無数の時間が蓄積された静寂だけが、すべてを満たしている。

音を立てれば、それが崩れてしまうような気がして、呼吸さえ浅くなる。

 

腰を下ろすと、石の冷たさが背に伝わった。

小さな花のひとつが、揺れている。

誰にも見られぬまま咲き、そして枯れていくもの。

だが今、その花は風に撫でられ、静かに存在していた。

 

何かが目を覚まし、何かが深く眠りにつく。

昼と夜の境界のように、時間がうすく折り重なるこの場所では、すべてが等しく、そして静かに揺れている。

翡翠の水面に映る自らの影も、もうひとつの記憶のように、揺らぎの中で溶けていった。

 

掌をひらくと、風が通った。

 

あまりにも遠い時のなかで、それでも確かに、生きものたちの鼓動は続いている。

蟻が歩き、雲が流れ、小石がわずかに転がる。

だれも語らないこの静けさの中で、身体の奥の感覚だけが、確かな道を示していた。

 

水のほとりまで、さらに降りていく。

足もとの砂利がかすかに鳴るたびに、湖面に波紋が走る。

水際に立ち、指先を翡翠の縁に差し入れる。

冷たさが、ひとときだけ、胸の奥を締めつける。

 

深く澄んだその奥に、何かがいる。

けれど、それは見るものではなく、ただ感じるためにあるものだった。

 

水に指を浸したまま、しばらくは何も考えず、ただその冷たさの中に身を委ねた。

微細な揺れが肌の内側に染みこみ、記憶の輪郭すら曖昧になっていく。

光が水を抜け、底の影を淡く撫でるたび、時がさかのぼっているような錯覚に陥る。

だが、それは錯覚ではないのかもしれなかった。

 

乾いた空の色が、すこしずつ褪せてゆく。

陽が傾きはじめると、翡翠の湖は、まるで眠りに入る前の瞼のように、ゆっくりと光を閉ざしていく。

水面に映る雲が、形を変えながら流れ、それを追って風もまた方向を変える。

 

歩き続けてきた足が、ようやくその場に根を下ろす。

風が、肩を撫でて過ぎていく。

その風の中に、名も知らぬ草の香りがまじり、鼻の奥に懐かしさがにじむ。

なぜ懐かしいのかは分からない。

ただ、その匂いが遠い記憶と結びついているのだけが、確かだった。

 

ひとつ、目を閉じる。

 

風の音、水の音、虫の声、岩の軋み。

それらが重なり、静寂という名の音楽になる。

大きな音はひとつもないのに、すべてがそこに在り、すべてが動いていた。

瞼の裏に浮かぶのは、遠くの山影か、それとも誰かの背中だったか。

 

湿った岩肌に掌をあてると、かすかな振動があった。

それは地の奥で眠るものの息づかいか、あるいはこの湖がひそやかに抱える記憶の断片か。

温かくも冷たく、懐かしくもあり、決して触れきれない感触。

 

目を開けると、湖の中央にひとつの影があった。

揺れる水の奥、ほんのわずかに濃く見えるその色は、翡翠とは異なる深みを持っていた。

そこに在るのか、かつて在ったのか、それすら定かではない。

ただ、その影は、確かにこちらを見ていた。

 

陽が山の端に落ちかけると、色が変わる。

すべてが。

空も、水も、岩も、影さえも。

昼が夜に染まるわずかな時間、光は翡翠から琥珀へ、そしてやがては無色へと溶けていく。

あたかも、世界そのものが一度、すべてを忘れようとしているように。

 

その瞬間、胸の奥に小さな音がした。

心のひだのどこかで、閉ざしていた何かが、ゆっくりと緩んでいくような、言葉にもならぬ変化。

泣くほどの感情ではなかった。

ただ、長いあいだ忘れていた呼吸のしかたを思い出したような、そんな確かな静けさ。

 

湖をあとにする時、振り返ることはしなかった。

背を向けたその瞬間に、あの影はまた深く、眠りへと沈んでいくだろうと知っていたから。

あれは呼ばれた者だけが見るものであり、名を問うてはならぬものだった。

 

足元の道は、また別の色を帯びていた。

石の間から小さな水が湧き、草が揺れている。

冷たく、湿った空気が頬をなぞり、薄く開いた唇に静かな塩味を残す。

 

歩き出す。

 

誰のものでもないこの風景のなかを、誰かの記憶のように、そっと通り過ぎてゆく。

声はない。

言葉もない。

ただ、ひとつの光が遠くで揺れていた。

 

その光を背に、歩幅をゆるめながら、しずかに山を降りていく。

 

地の奥深くで、いまもなお、竜はその翡翠の眼を閉じて、眠っている。

風のゆらぎの中、そのまぶたがほんのわずかに震えた気がしても、それを振り返ることはしない。

 

翡翠の水面に映っていたのは、たしかに誰かの影だった。

 

けれど、その影が誰のものかは、とうに忘れてしまった。




風が変わると、影もまた形を変えていく。
水に映る空は、記憶ではなく、ただその時その時のままに揺れていた。

名もなき葉が落ち、ひとつの波紋が広がる。
やがてそれも消え、何もなかったかのように、静けさだけが残る。

光は、すこしだけ遠のいた。
けれど、それを追いかけるように、石の温もりはかすかに残る。

すべてが流れ、消えていっても、あの深みのなかには、まだ、ひとしずくのまなざしが眠っている。

何も語らず、何も求めず、ただ、そこに在るものとして。
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