目には見えず、音もなく、ただ岩の奥を流れ、風の底を這い、空の下に降り積もる。
足もとの草が湿りを帯びると、ひとつの道が静かに浮かび上がる。
だれのためでもなく、だれに呼ばれることもなく、ただそこにあるだけの小さな明るみ。
季節は、まだ名をもたぬ熱を孕んでいた。
遠い空のひかりが、石の縁に指先を置き、声なき時間を照らしている。
その場所には、ことばがなかった。
かわりに、風がすべてを語り、沈黙がすべてを包んでいた。
翡翠を湛える湖面は、風に触れるたびかすかに波打ち、揺らぎの奥に眠るものの鼓動が、薄い水膜越しに伝わってくるようだった。
空と水が溶け合うその窪地には、夏の熱が昇りきる前の静けさが満ちていた。
霞む稜線の向こうから、幾重にも重なる陽光が層を成し、岩肌をゆっくりと照らしていく。
石と石の隙間に根を下ろした小さな草花たちは、その光を目印にするかのように、ひそやかに首をもたげていた。
乾いた足裏に伝う礫の粒子。
白く、ひび割れた道は細く、雲の影に溶けかけながら、谷へと沈んでいく。
風が、行き先を告げるように背を押す。
その風の中に、わずかに硫黄を思わせる匂いが混じっていた。
水を湛えたその場所は、火と氷が語り合った記憶の底にある。
かつて天が落とした涙が、地の怒りを鎮めたとも、あるいは龍の眼が冷たくひらいたとも、伝えられている。
けれど、それを聞いたことはなかった。足元の静けさが、ただ真実のようにあった。
崖沿いの岩棚をなぞるように進むたび、音のない世界が少しずつ変わっていく。
石の色が変わる。苔が増える。
風が深くなる。
足をとめ、ひと息ついた指先に、岩肌の熱がじんわりと伝わってきた。
遠くの空が、ほのかに鳴った。雷ではない。
風でもない。大地の下を流れる、名もなき鼓動のようなもの。
音ともつかぬその気配は、骨の奥にわずかに触れ、すぐにまた沈んでいった。
翡翠の湖は、かたちを持たぬまま、見る者によって幾通りにも姿を変える。
深く、澄み、ときに濁り、夜には空の星々をその底に飲み込む。
水面のきらめきは、光の衣をまとった記憶のように、そっと目の奥を照らした。
そこには何もない。
ただ、無数の時間が蓄積された静寂だけが、すべてを満たしている。
音を立てれば、それが崩れてしまうような気がして、呼吸さえ浅くなる。
腰を下ろすと、石の冷たさが背に伝わった。
小さな花のひとつが、揺れている。
誰にも見られぬまま咲き、そして枯れていくもの。
だが今、その花は風に撫でられ、静かに存在していた。
何かが目を覚まし、何かが深く眠りにつく。
昼と夜の境界のように、時間がうすく折り重なるこの場所では、すべてが等しく、そして静かに揺れている。
翡翠の水面に映る自らの影も、もうひとつの記憶のように、揺らぎの中で溶けていった。
掌をひらくと、風が通った。
あまりにも遠い時のなかで、それでも確かに、生きものたちの鼓動は続いている。
蟻が歩き、雲が流れ、小石がわずかに転がる。
だれも語らないこの静けさの中で、身体の奥の感覚だけが、確かな道を示していた。
水のほとりまで、さらに降りていく。
足もとの砂利がかすかに鳴るたびに、湖面に波紋が走る。
水際に立ち、指先を翡翠の縁に差し入れる。
冷たさが、ひとときだけ、胸の奥を締めつける。
深く澄んだその奥に、何かがいる。
けれど、それは見るものではなく、ただ感じるためにあるものだった。
水に指を浸したまま、しばらくは何も考えず、ただその冷たさの中に身を委ねた。
微細な揺れが肌の内側に染みこみ、記憶の輪郭すら曖昧になっていく。
光が水を抜け、底の影を淡く撫でるたび、時がさかのぼっているような錯覚に陥る。
だが、それは錯覚ではないのかもしれなかった。
乾いた空の色が、すこしずつ褪せてゆく。
陽が傾きはじめると、翡翠の湖は、まるで眠りに入る前の瞼のように、ゆっくりと光を閉ざしていく。
水面に映る雲が、形を変えながら流れ、それを追って風もまた方向を変える。
歩き続けてきた足が、ようやくその場に根を下ろす。
風が、肩を撫でて過ぎていく。
その風の中に、名も知らぬ草の香りがまじり、鼻の奥に懐かしさがにじむ。
なぜ懐かしいのかは分からない。
ただ、その匂いが遠い記憶と結びついているのだけが、確かだった。
ひとつ、目を閉じる。
風の音、水の音、虫の声、岩の軋み。
それらが重なり、静寂という名の音楽になる。
大きな音はひとつもないのに、すべてがそこに在り、すべてが動いていた。
瞼の裏に浮かぶのは、遠くの山影か、それとも誰かの背中だったか。
湿った岩肌に掌をあてると、かすかな振動があった。
それは地の奥で眠るものの息づかいか、あるいはこの湖がひそやかに抱える記憶の断片か。
温かくも冷たく、懐かしくもあり、決して触れきれない感触。
目を開けると、湖の中央にひとつの影があった。
揺れる水の奥、ほんのわずかに濃く見えるその色は、翡翠とは異なる深みを持っていた。
そこに在るのか、かつて在ったのか、それすら定かではない。
ただ、その影は、確かにこちらを見ていた。
陽が山の端に落ちかけると、色が変わる。
すべてが。
空も、水も、岩も、影さえも。
昼が夜に染まるわずかな時間、光は翡翠から琥珀へ、そしてやがては無色へと溶けていく。
あたかも、世界そのものが一度、すべてを忘れようとしているように。
その瞬間、胸の奥に小さな音がした。
心のひだのどこかで、閉ざしていた何かが、ゆっくりと緩んでいくような、言葉にもならぬ変化。
泣くほどの感情ではなかった。
ただ、長いあいだ忘れていた呼吸のしかたを思い出したような、そんな確かな静けさ。
湖をあとにする時、振り返ることはしなかった。
背を向けたその瞬間に、あの影はまた深く、眠りへと沈んでいくだろうと知っていたから。
あれは呼ばれた者だけが見るものであり、名を問うてはならぬものだった。
足元の道は、また別の色を帯びていた。
石の間から小さな水が湧き、草が揺れている。
冷たく、湿った空気が頬をなぞり、薄く開いた唇に静かな塩味を残す。
歩き出す。
誰のものでもないこの風景のなかを、誰かの記憶のように、そっと通り過ぎてゆく。
声はない。
言葉もない。
ただ、ひとつの光が遠くで揺れていた。
その光を背に、歩幅をゆるめながら、しずかに山を降りていく。
地の奥深くで、いまもなお、竜はその翡翠の眼を閉じて、眠っている。
風のゆらぎの中、そのまぶたがほんのわずかに震えた気がしても、それを振り返ることはしない。
翡翠の水面に映っていたのは、たしかに誰かの影だった。
けれど、その影が誰のものかは、とうに忘れてしまった。
風が変わると、影もまた形を変えていく。
水に映る空は、記憶ではなく、ただその時その時のままに揺れていた。
名もなき葉が落ち、ひとつの波紋が広がる。
やがてそれも消え、何もなかったかのように、静けさだけが残る。
光は、すこしだけ遠のいた。
けれど、それを追いかけるように、石の温もりはかすかに残る。
すべてが流れ、消えていっても、あの深みのなかには、まだ、ひとしずくのまなざしが眠っている。
何も語らず、何も求めず、ただ、そこに在るものとして。