泡沫紀行   作:みどりのかけら

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雪がすべてを覆う頃、風の通り道にわずかなぬくもりが宿る。
無音の世界にひと筋の蒸気がのぼり、空に消える。
冷たさのなかで、熱は語らない。ただ在り続ける。

何も求めない景色が、心の奥をやわらかく撫でることがある。
歩みの果てに、それがあったとしても、名をつけてはいけない。

ただ、ひとときの静寂を、深く息をして、記憶の底に沈めてゆくだけでいい。


0316 深紅の谷に佇む癒しの聖域

風は乾いていた。冷たさを孕みながらも、どこか透き通った温度を帯びて、頬を撫でていく。

地を覆う雪は深く、時おり足元を奪うほどだったが、白に沈むこの地では、すべてが静かに深く、息をひそめるように眠っていた。

 

樹々は凍てつきながらも立ち尽くしている。

枝という枝に、無数の霜の花が咲いていた。

風が吹くたびに、その花びらは陽に反射し、わずかにきらめく。

まるで空から舞い降りてきた音の結晶が、ひとつ、またひとつと枝に宿ったかのように。

 

足元からはかすかに、地の熱を感じる。

雪の白に埋もれた土の奥で、脈打つように何かが流れていた。

目には見えずとも、そこに確かなぬくもりがあった。

 

山肌に沿って続く細い道を辿る。

時おり小さな動物の足跡が、雪をかすめて消えてゆく。

風の流れに逆らうように、その足跡もまた、谷の奥へと導く道しるべのようだった。

 

やがて、深く裂けた谷が開ける。

雪に沈みながらも、その中腹にぽつりと現れた蒸気の白。

大地が吐息を漏らすように、ゆるやかに立ちのぼるその煙に、確かな命の気配があった。

 

雪の静寂を破ることなく、水の音が耳を打つ。

湧きたつ湯が岩の割れ目から絶え間なく流れ、蒸気とともにあたたかな息をつく。

触れる前から指先に感じるそのぬくもりは、冬の硬い空気をやわらかく包み、身体の輪郭さえ解いてしまいそうだった。

 

岩に腰を下ろす。

冷たさが衣を越えて伝わり、その一瞬にだけ、重力が骨の奥に沈んでいく感覚を覚える。

息を吐けば、白い霧が静かにほどけて空へ昇った。

 

その霧の向こうに、鮮やかな紅があった。

谷を囲む断崖の一部、雪に濡れた岩肌がまるで血潮のように深い紅に染まっている。

冬の冷気のなか、その色だけが異質に熱を帯びていた。

無数の時間が染みこんだかのような、その色は、言葉を失わせるほどだった。

 

雪の白と、岩の紅と、湯の蒸気とが交差するこの場所は、まるで時の果てに置き去りにされた幻のようだった。

目を閉じると、肌の上を流れていく空気が、まるで眠る大地の呼吸のように感じられる。

鼓動のように、一定の間隔で湯が沸き、岩のすき間を伝い、そしてまた沈んでいく。

 

日がわずかに傾く。空は淡い銀に染まり、遠くから風に乗って、鳥の羽音がかすかに届く。

視界には何もないはずなのに、音だけが確かにそこにあった。

目には見えずとも、静けさの中に潜む命の粒が、そっと雪の上に舞い落ちてくる。

 

白く、深く、静謐な冬の底で、すべての感覚がゆっくりとほどかれてゆく。

眼差しの先には、どこまでも続く無音の世界。

けれど、その静寂の奥に、微かに響く温もりがあった。

 

この谷には、忘れられた癒しの気配がある。

 

それは声ではなく、手触りでもなく、目を閉じたときにだけ感じられる、鼓膜の奥の遠い記憶のようなもの。

気づけば、指先から冷たさが消え、かわりにゆるやかに、湯の熱が沁み込んでいた。

 

湯の縁に手を伸ばすと、岩肌の滑らかさがひんやりと伝わる。

無骨な形に削られた岩は、長い年月を水と風に磨かれ、すでに鋭さを失っている。

角という角が丸みを帯び、まるで誰かの記憶を撫でる掌のような優しさを帯びていた。

 

風が、ひとしきり吹いた。

樹々の高みから、粉雪がさらさらと降り注ぎ、湯の面に音もなく溶けていく。

ひと粒、またひと粒。

白い世界が溶け込んでいく音は、耳には届かないはずなのに、胸の奥で確かに鳴っていた。

 

体を少し傾け、湯に足を浸す。

最初に触れた瞬間、肌が驚いたように震えたが、次第にその熱が沁み渡り、骨の隙間まであたたかさが満ちていく。

湯のなかで、足先の感覚がほどけていった。

 

谷の空気は澄んでいるのに、どこか重さを孕んでいる。

静けさが幾重にも重なり、耳を澄ませば、遠くで雪が崩れる音さえ聞こえてきそうだった。

その音はけっして不安を呼ぶものではなく、眠る山が小さく寝返りを打つような、そんな自然なゆらぎだった。

 

湯の中に、ひとひらの枯葉が漂っていた。

深い紅に染まったその葉は、湯の熱にかすかに揺れながら、まるで何かを思い出しているように見えた。

過ぎ去った季節の名残が、いまもなおこの場所で呼吸を続けている。

 

まぶたを閉じると、内側に広がるのは白ではなく、音のない赤だった。

谷を彩る深紅の岩の色が、脳裏に焼きついて離れない。

その赤は、炎でもなく、血でもなく、ただ静かに、深く息づく命のように感じられた。

 

そしてふと、ひとしずくの水音が背後で跳ねた。

 

誰もいないはずの場所に、確かに響いたその音に、身体がごくわずかに反応する。

振り返っても誰の姿もない。ただ、岩の裏手から湧き出す湯が、わずかに流れを変えたにすぎない。

それでも、その気配はしばらくのあいだ、湯の上に残り続けた。

 

視線を空に向けると、雪の合間から一筋の光が差し込んでいた。

分厚い雲の裂け目から、まるで手紙のように送られてきた光だった。

黄金ではなく、青白く淡い光。

それが湯気のなかを通り、湯の面に静かに触れると、そこに微かに虹が生まれた。

 

それはあまりにも儚く、目を逸らせばたちまち消えてしまうような、小さな光の弧だった。

けれど、その一瞬にすべての空気が息を止め、時さえも、湯の粒の上で立ち尽くしているように感じた。

 

この場所は、誰のために存在しているのだろう。

 

その答えは、岩の中にも、湯の中にも、雪の奥にも見つからない。

ただ、そこにあるだけ。ただ、静かに、深く在り続けているだけ。

それなのに、なぜだろうか。

この場所に立っていると、忘れていた痛みがふと蘇ると同時に、それすらもすこしずつ溶けていく気がした。

 

雪はやまない。

風もまた止まぬ。

それでも、世界はどこまでも静かで、どこまでも優しかった。

 

足元の湯が、そっと流れてゆく。

谷の奥へ、谷の底へ、まだ誰も見たことのない場所へ。

そこに何があるのかを知る必要はない。

ただ、この熱が続くかぎり、この静けさが満ちているかぎり、それでよかった。

 

深紅の谷は今日もまた、誰とも知らぬ訪れを、声もなく迎えていた。




赤く染まった岩の色は、目を閉じてもなお瞼の裏に残る。
湯の熱が身体を離れても、肌の奥に、骨の奥に、しずかに灯がともっていた。

雪はまた降り始める。
風はあとを追うことなく、すべてを白に戻してゆく。

そこに誰かがいた痕跡も、言葉も、何も残らない。
けれど、足を踏みしめた雪の感触だけは、しばらく消えずにいた。

やがて、それさえも。

風がさらってゆく。

すべてが、始めからそこにあったように。
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