泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風の粒が、名も知らぬ小径にこぼれていた。
日々の隙間からすり抜けるように、かすかな季節の気配が地を撫でる。

湿った葉のにおい、すり減った石の角、光に透ける草の葉脈。
言葉を持たぬものたちのなかに、静かにひらかれていく午後がある。

まばらな足あと、忘れられた実、やわらかく沈む土。
誰のものでもない風景が、誰かの呼吸にふれて揺れていた。

どこかに向かうわけでもなく、どこかから来たことも思い出せない。
ただ、歩いていた。
そうして、あの場所に出会った。


0317 風を纏いし小さな旅人の冒険譚

秋の輪郭があらわになる頃、風はまだ夏の名残を足もとに引きずりながら、くるぶしのあたりをくすぐっていく。

焼けた葉脈の色が石畳の隙間にこぼれ、その音もなく沈んでいく光の粒を踏みながら、影は細く、長く、のびてゆく。

 

軋む音があった。

けれどそれは耳に届かぬほど柔らかで、風にのせた種子の重さほどの響きだった。

土にしずむように沈黙していくその音に、鼓動がかすかに追いつく。

 

一筋の坂道。

それは日々のほころびを縫いあわせるように続いており、登りきれば何かが変わるような錯覚を差し出していた。

くるくると風に揺れる髪の先に、まるい影が追いかけてくる。

ふと足を止め、息をひとつこぼすと、頬に冷えた匂いが触れた。

枯れかけた花びらが肩に触れ、何かのまじないのように首筋をすべって落ちた。

 

道ばたには小さな車輪が残されていた。

誰かが遊び、誰にも見とられずにそのまま忘れられた気配。

土の中からのぞく錆の色が、秋の光と溶けあっていた。

しゃがみこみ、手のひらでそっと撫でると、ひんやりとした感触が掌に宿った。

指先のしわに土が入り、淡く焦げた草の香りが爪の隙間に染みこんでいく。

 

歩き出すと、石の並びにわずかな揺らぎがあった。

左足の裏に伝わるかすかな歪み。

季節がそのまま路面に刻まれたかのようで、ひとつひとつの起伏が、過ぎた時間のかけらとして肌に触れる。

 

午後の光が斜めに差しこむ小径の先に、細く裂けた空の青がのぞいていた。

赤茶けた壁にからむ蔦は、もうほとんど葉を落としていたが、ひとつだけ濃く色づいた実が残っていた。

わずかな重さに枝がしなる。

その静けさに、思わず足音を忍ばせる。

 

すこし先、背の低い柵の向こうに、小さな足あとが残されていた。

雨上がりのぬかるみに踏まれたもので、ひとつひとつがまるで誰かの呟きのように続いている。

指先でなぞれば、湿り気がまだ残っていた。

 

空を見上げると、雲が風に押されてかすかに歪み、ゆっくりと輪郭を変えていく。

そのかたちに意味を見出そうとするのは、きっと昨日のくせだ。

今日はただ、その流れにまかせてみる。

 

背中にひとしずく、雫が落ちた。

木の枝からか、それともただの錯覚か。

振り返れば、葉の裏側に朝の名残が光っていた。

歩を進めるごとに、世界がじわりと滲んでゆく。

 

やがて、古びた階段にたどりついた。

手すりは朽ちて、ところどころ苔むしていたが、どこか懐かしい温もりがあった。

掌を添え、ひと段ひと段を踏みしめる。

木のきしみ、衣擦れの音、風のうた。

 

それらはすべて、この午後にしか鳴らない。

 

階段を上りきった先に、広がったのは開けた空地だった。

地面には色とりどりの葉が敷きつめられ、まるで誰かがそこにひとつの絵を描いたかのように。

中央に、ひとつの風見が立っていた。

風を集めるようにして回るそれは、まるで遠い地の言葉を伝えているようだった。

 

足元の葉をかさりと踏むたび、音が呼吸にまぎれこんでくる。

しばらく、その風見を見つめていた。

回転する速度と、胸の内に流れる時間がぴたりと重なった気がして、何も言葉にすることなく、ただ立ち尽くす。

 

静かだった。

 

風がひとつ吹いた。

 

風見はゆるやかに回り、そして止まりかけて、また回った。

その動きに導かれるように歩き出す。

葉の絨毯が浅い波を立て、足の裏にそのかすかなざわめきを残していった。

空気は少しずつ冷えて、息が細く白む気配があった。

けれど、どこかあたたかい気配もあった。

遠く、かすかに甘い香りが漂っていた。

 

空地の端を過ぎると、また小道がひらけた。

両脇には低い木々が連なり、枝と枝のあいだからやわらかな光が漏れてくる。

かすかに金色がかっていて、それはまるで、風の粒が光を抱えて踊っているようだった。

足元の土はやわらかく、踏むたびに微かな沈みを残す。

そこに確かに、身体があることを思い出させる。

 

ひとつ、栗の殻が落ちていた。

ひらいた実はもう誰かに拾われていたが、その残された棘に、秋が刻まれていた。

指先で触れると、ちくりとした痛みがかすかに走る。

それがなんだか、少し嬉しかった。

 

前に、小さな影が動いた気がした。

枝が揺れただけかもしれない。けれど確かに、風ではない気配があった。

軽やかで、でもどこかためらいがちな歩幅。

追いかけるのではなく、同じ道をたどるようにして進んでゆく。

 

光の層が折り重なったその先に、ふいに低い石のアーチが現れた。

苔むして、端が崩れかけていたが、内側にはなぜか草が生えていなかった。

くぐり抜けると、空気が少し変わる。

音が遠ざかり、肌に触れる風の速さも変わる。

耳の奥で、ごく微かな振動が響いた。

 

その音に、名前を与えることはできない。

ただ、胸の奥の、柔らかく空いた場所が、ほんのすこし震える。

見上げると、木々の間にぽつんとひとつ、まるい実がなっていた。

枝の先、誰の手も届かないような高さ。

そのまま、歩を止めずに過ぎる。

 

やがて、ゆるやかな下り坂に出た。

石がところどころ滑りやすくなっていて、足の置きどころを確かめながら、ゆっくりと降りてゆく。

陽射しが背中を離れ、影が自分の前を歩いている。

 

ふと、ひとすじの香りが鼻先をかすめた。

焦がした砂糖のような匂い。

近くに、小さな実がいくつも転がっていた。

まだ落ちきらない黄色い葉が、そのまわりを囲むように舞っていた。

ひとつ拾い、掌にのせる。温もりはなかったけれど、やさしい重みがあった。

 

風がまた吹いて、木々のあいだから葉がこぼれ落ちる。

その一枚が、拾った実の上に重なった。

しばらくそのまま眺めていると、なぜか深く息を吸いたくなった。

 

土の匂い、遠くの草のささやき、そして何か微かな旋律のようなもの。

耳をすませば、地面の奥で何かがゆっくりと目を覚ましている気がする。

 

歩く。

ただ、それだけを繰り返しているのに、景色はほんのわずかずつ確かに変わってゆく。

輪郭の曖昧な風景が、少しずつ確かな手触りを帯びてくる。

 

あたりが少しひらけた場所に出た。

斜面の先にはなだらかな野が広がり、その真ん中に、一匹の動物のようなかたちをした岩がぽつんと座っていた。

 

耳をすませば、そこからなにか聞こえる気がした。

ことばではない。

音でもない。けれど、確かに胸の奥で何かが呼応する。

 

近づくと、岩のまわりに丸い石がいくつも置かれていた。

誰かが並べたのか、それとも風がいたずらをしたのか。

ひとつの石を拾い、掌のなかで転がす。

その動きは、小さな旅の始まりのようだった。

 

そこに、風がまた吹いた。

肩にかけた布が揺れ、前髪が額に張りつく。

目を細めた先、野の向こうにかすかな光が見えた。

 

それはただの陽のきらめきかもしれない。

けれど、それでも一歩、足を前に置いた。

 

風を纏って、小さな冒険がまたひとつ、音もなく始まっていた。




陽はいつのまにか傾き、影が長くのびていた。
葉のすき間をすべる風が、すこし冷たくなっている。

手のひらには、もう何も残っていない。
けれど、指先にはまだ微かな輪郭がある。

ひとつの音が遠ざかり、また別の音が満ちてくる。
世界は、ひとときごとに生まれ変わる。

振り返ることなく、ただ歩いてゆく。
足裏で確かめる土のやわらかさが、今日という日の終わりを告げていた。

風が過ぎる。
そのあとに、静けさだけが残る。
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