泡沫紀行   作:みどりのかけら

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石を撫でる風がある。
何も語らず、ただ、輪郭を薄くしてゆく風。

枯れた蔓が塀をつたう道を、影のない雲がゆっくりと横切ってゆく。

音のない季節に踏み入れたとき、時は名を捨て、色だけが残った。

その場所には、誰の手にも触れられない静けさがある。
名を呼べば遠ざかり、黙すほどに近づいてくる気配がある。

そこに何があったかではなく、そこに何が、いまも息をしているのかということ。

呼吸と呼吸のあいだにあるものだけが、足音を覚えている。


0318 幻の猫神が住まう静謐な楽園

小道は、錆びた記憶のように細く折れ曲がり、くすんだ石と苔の匂いが秋の風とともに漂っていた。

足の裏に伝わる土の感触は柔らかく、どこか湿り気を帯びていたが、踏みしめるたび、音のない時間が地中に沈んでいくようで、呼吸が深くなった。

 

海の気配がすぐそこにあった。

だがその気配は音でも匂いでもなく、光の粒子として空気に混ざっていた。

草の間から伸びる光が、銀色の糸のように漂い、葉の縁をゆるやかになぞっていた。

遠くからは、風が白く笑うような音だけが聞こえる。

鳥の影も、虫の声も、ただの名残のようにしか感じられない。

 

ゆるやかな傾斜を登ると、視界が開けた。

眼下には、ひしめくように低くうねる屋根と、やせ細った石段。

だがどれも、時間の向こう側にあるように見えた。

赤茶けた瓦の隙間には草が根を張り、小さな花が咲いていた。

人の手を遠く離れた場所にしか現れない整いが、そこにはあった。

 

そこには、猫がいた。

 

石段の端、日の当たる縁に、音もなく坐っていた。

まるで大理石から削り出されたかのように動かず、しかし目だけは、空の色を写していた。

その視線は明確に何かを見つめていたが、それが何であるかは、ただの通りすがりにはわからない。

 

その猫の足元には、砕けた陶器のように陽光が散らばっていた。

ゆらぐ影が揺れるたび、光が濃くなり、また消えていった。

どこかで風鈴のような音がした。

だが風鈴など、どこにも吊るされていないはずだった。

 

路地裏の奥に、誰もいない長椅子があった。

擦り減った板の上には、きのこのような斑点が浮かび、湿気に包まれていた。

それでもそこには、何かが座っていたような凹みがあった。

過去という名の風が、そこに腰かけていたのかもしれない。

 

日暮れにはまだ時間があるのに、光がやわらかく溶け始めていた。

まるでこの島では、陽の傾き方さえも、時折その法則を忘れてしまうかのようだった。

空が琥珀のように染まり、雲がその縁を濡らしていた。

海から来た風が髪を撫で、首筋に塩の気配を残していった。

 

一匹、また一匹と、猫が現れた。

茂みの影から、塀の上から、木の根元から。

けれどその足音は、落ち葉の上を転がる栗の実ほどにも響かない。

猫たちは互いに視線を交わすこともなく、ただ、そこに在るべきものとして在った。

誰も追い払おうとせず、誰も近づこうとしなかった。

生き物たちは、ただただ、静けさの一部として存在していた。

 

ふと、足元に影が触れた。

見ると、白に淡い灰が混じった小さな猫が、こちらを見上げていた。

目の奥には、昼でも夜でもない色が沈んでいた。

差し出した指先に、ひと息だけ鼻先を寄せて、すぐに離れていった。

そのとき、世界がほんの一瞬、呼吸を忘れた気がした。

 

石垣の間を抜ける風の音が、どこかで聞いた子守唄に似ていた。

 

石垣を背にして進むと、急に空気の質が変わった。

木々の背が高くなり、葉は密に重なり、光がいくつもの層を通って足元に届く。

足音が葉の敷布に吸い込まれ、ひとつひとつの呼吸が輪郭を持って漂った。

 

水の音がした。

けれど、それは流れるものではなく、湧き出るものの響きだった。

低く、深く、静かな脈動のように、足元から立ち上がってくる。

曲がりくねった道の先に、小さな祠のようなものが見えた。

苔に包まれ、扉も屋根もあいまいになったそれは、誰に手を合わせるためのものかもわからないほど、自然に還りつつあった。

 

傍らに、大きな猫がいた。

毛並みは夕暮れの雲のようで、瞳は翡翠のように澄んでいた。

立ち去る気配もなく、近づく気配もなく、ただそこに座っていた。

祠の前に陣取っているというより、祠と一体であるかのようだった。

まるでそれは、忘れられた神の姿だった。

 

そっと目を閉じると、風の中に、遠い鈴の音が揺れた。

音の正体はわからなかった。

だがそれは、どこかで確かに聞いたことのある響きだった。

幼いころの夢の中で、あるいは昔話の一節で、あるいはもっと深いところで、誰の記憶でもない記憶の底から立ち上がってくるような音だった。

 

石の上に腰を下ろすと、木の葉が一枚、肩に舞い降りた。

色は朱。

まだ陽の残る空の下で、それは妙に濃く見えた。

掌に乗せると、葉脈が透けて見えた。

その細かな網目は、まるで小さな島の地図のようだった。

 

背後から、小さな足音が近づいた。

振り返ると、先ほどの白灰の猫が再び現れていた。

今度は、こちらの脇に坐った。

静かに、なんの合図もなく、まるでこの場所に二つの影があるのはごく当然のことだというように。

 

少しずつ、空が深くなっていった。

光はもう、色ではなく気配に変わっていた。

物の輪郭が少しずつぼやけ、世界がひとつの呼吸のなかに溶けていく。

風の温度も変わってきていた。

秋の始まりと終わりが交差する、その狭間に立っているような感覚があった。

 

この場所には、時間が降り積もっている。

過去も未来も、境目を失って、土の中に、石の隙間に、葉の裏側に、音もなく染み込んでいる。

誰かが歩いた足跡が、風にさらわれていく。

誰かが見上げた空が、いま目の前にある空と重なっている。

声にならない祈りだけが、今も残っている。

 

夜が来る気配がした。

まだ完全には訪れていないのに、空気がそれを予告していた。

帰る道はもう覚えていない。

けれど、帰る必要があるのかどうかも、もはやはっきりしなかった。

 

猫は、もういなかった。

足元も、石の上も、祠の影も、誰の気配も残していなかった。

けれど確かに、そこにいたのだと思えた。

何かが自分の内に触れ、ゆっくりと、深く、静かに変わったような気がした。

 

遠くから、波のような音が届いた。

風かもしれなかったし、風ではなかったのかもしれなかった。

けれどその音は、胸の奥の見えない扉をひとつ、そっと開けたように思えた。

 

歩き出すと、足取りが少しだけ軽くなっていた。

何が変わったのか、まだわからなかった。

ただ、歩いているという感覚だけが確かにあった。

しずかに、秋が灯る道を。




残されたのは、足元に舞い降りた一枚の葉と、風が揺らした光の名残だけだった。

何も持ち帰らず、何も置いてこなかったはずなのに、肌の奥に、ひとすじの温もりが宿っていた。

この世に触れず、この世にしか存在しないものたちが、今もどこかで、静かに眼をひらいている。

気配だけが確かで、言葉の届かないところに、それは在る。

歩いたことの記憶よりも、歩いたあとの沈黙のほうが、長く続くことがある。

やがて、すべては遠ざかる。
けれど、消えることはない。

静けさの中に棲む光が、まだ名も持たぬまま、息をしている。
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