泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風はまだ熱を失いきらぬまま、葉の上を撫でていた。
木々の隙間からこぼれる光は、どこか遠い昔の記憶のようで、触れれば消える夢の端を思わせた。
名もなく積もる影と、誰のものとも知れぬ祈りのかたち。

そこにはただ、季節の音だけがあった。
そして、それを聞くための静けさが、確かにあった。


0319 黒羽の守り手が眠る神域

乾いた落ち葉が足元に触れるたび、細く細く空気が裂ける音がした。

風が止むと、音もまた閉じる。

季節の隙間にしか聞こえない、地の低い声だった。

 

参道は、数百年の歳月を飲み込んだように重く、しずかだった。

石畳はあちこちが歪んでいて、靴の底がたわむたびに、苔がかすかに湿りを返す。

陽は高くも低くもなく、淡い金を帯びて、葉裏に広がっていた。

紅葉と黄の間にゆれる木々の隙間から、光がしずくのように降っていた。

触れれば壊れそうな光。

けれども、歩を進めるごとにそれは増えて、衣の肩や髪先に淡く滲んでいく。

 

石の鳥居をくぐると、空気が急に変わった。

冷たさではなく、深さがあった。水底に降り立つような、音がすべて遠のいていく感覚。

風すら、ここでは余所者に思えた。

 

両の脇を護る狛犬は、苔に覆われて片耳も欠け、長い夢を見ているようだった。

目元にかすかに残る彫り跡は、いつか誰かが守りたいと願った記憶を閉じ込めているようで、ふと立ち止まる。

彼らが何を見てきたのかを問うても、答えは戻らない。

ただ、冷たい石がそこにあるだけで、語らずとも、すべてを孕んでいるようだった。

 

手水舎に残る水は、風のささやきとともにゆれていた。

柄杓の金属が冷たく、指先が一瞬、秋の底に触れたような気がした。

掌に落ちた水は、静かにひとつ、ふたつと音を立てて石へ染みていった。

見えない何かがほどける気配。

名前のない感情が、ひとしずくずつ流れ落ちていく。

 

その奥、拝殿への階段は、低い陽を背にしてゆるやかに昇っていた。

段を数えるごとに、音も感覚も剥がれていく。

木の肌が掌に触れ、うっすらと残る手垢と香が、遠い昔のぬくもりのように指にからんだ。

誰かの祈りがここにあったことを、木が今も記憶しているのかもしれない。

 

正面に構える社は、漆の黒と朱が重なり、夕暮れの気配を内に秘めていた。

飾り彫りは細やかで、ひとつひとつが小さな物語を抱えているようだった。

風がひと息、棟を撫でていったとき、木々の間から不意に鳥が舞い上がった。

黒羽のひとひらが空に裂け、落ち、地へ戻る。

その瞬間、時間の縫い目がほつれたようだった。

 

誰もいないはずの境内に、見えない足音がかすかに重なった気がした。

振り返っても何もなく、ただ、空の色がゆっくりと深くなるだけだった。

 

遠くで、ひとしずくの鈴の音がした。

風の中にかすれて消えるような、小さな響きだった。

どこからともなく香の匂いが流れ、まなうらに古の面影がちらりと射した。

言葉にならぬものが、脈の奥で息をする。

 

それは、かつてこの地を護りし者たちの、眠りの底からの微かなざわめきかもしれなかった。

秋という季節は、すべての記憶を優しく覆い、そっと抱きしめる。

色づいた葉は、いずれ地に還ることを知りながら、最後のひかりを懸命に透かす。

 

時はもう、声をもたずに流れている。

 

祈りも言葉も、ただ静けさに変わりゆく。

 

灯籠の並ぶ小径を歩くたび、足音は葉を踏んでなお沈んだ。

音のすべてが、どこかへ吸い込まれていく。

まるでこの場所そのものが、声や息を求めていないかのようだった。

 

灯籠の石は、長い時間を経て角を落とし、しっとりと苔に包まれていた。

かつて火が灯っていたのか、それとも誰かの手で拭われていたのか、天の窓のように穿たれたその隙間から、ただ淡く、斜陽の名残だけが差し込んでいた。

光は無音で、残酷なほど優しかった。

 

頬に風が触れた。すぐにそれとわかる匂いがした。

朽ちる寸前の木の葉の、甘やかな苦み。

奥深くまで潜っていった冷気が、肌の内側でじわりと広がる。

秋の気配は、感情よりも先に身体の輪郭を変えてしまう。

指先がかすかにこわばり、吐く息に色が滲んだ。

 

階を降り、背後に社殿が遠ざかるにつれ、影が濃くなる。

森が口を閉ざし、静寂がいっそう深まっていく。

鳥の声も、枝の揺れる音も途絶えた瞬間、音のない世界がぽたりと落ちた。

ここでは、沈黙こそが古よりの祈りだったのかもしれない。

 

一際大きな杉の根元で、ひとつの石碑に気づいた。

名は刻まれていない。

けれど、石の面はなめらかに削られ、掌を当てるとわずかに温かかった。

誰かがここにいて、誰かを想い、風の届かぬ場所にその想いを置いた。

そんな気配が、石の奥に宿っていた。

名を呼ぶこともできず、語ることもできない記憶のように。

 

空が、朱の気配を帯びはじめていた。

葉のあいだから洩れる光は、金ではなく、やわらかく煮詰めた蜜のような色になっていた。

時が落ちていく。

光の底へ、音もまた吸い込まれていく。

紅葉の葉が一枚、風もないのに落ちた。

しずかに、ただしずかに、空から。

 

その瞬間、心のなかで何かが解けた気がした。

理屈ではなく、過去でもなく、もっと遠くて名のないもの。

手に入らないまま心のどこかで抱えていた、微かな痛みかもしれない。

それは痛みというにはあまりに優しく、気づけばいつもすぐそばにあったもの。

 

この地には、誰にも語られないまま忘れられていった祈りが、まだ残っている。

誰かのための言葉だったのか、自らのための赦しだったのか、それすら定かではない。

でも、確かに残っている。

風も、水も、石も、すべてがその記憶をつつむためにここにあるようだった。

 

秋は終わるために始まる。

 

そうして、人のこころもまた、名もなく終わってゆく季節のなかで、少しずつほどけていく。

 

帰路についた道は、来たときとはまるで違って見えた。

陽はもう、木々の向こうへと沈みかけていた。

葉は静かに落ち続け、風はまた、別の音を連れてくる。

何かが変わったと感じるその感覚すら、今は手放してしまえる。

 

振り返ると、木立の奥で黒い羽根がまた、ひとつ空を裂いた。

 

遠くで、眠れるものたちが夢の続きを見ている気配がした。

 

そしてそれは、どこまでも静かで、美しかった。




葉はすべての色を使い果たし、最後に静けさだけを残して落ちていった。
音のない空に羽ばたくものは、もはや風の名を借りることもなく、ただ遠く、夜のはじまりへと溶けていった。

手のひらに残るものは何もない。
けれど、それでじゅうぶんだと思えるほどに、この秋は深かった。
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