誰にも告げられず、誰にも問われないまま、道の奥へと続く裂け目がひとつ、ふと姿をあらわす。
光はまだ若く、空気は言葉を忘れている。
色づく前の沈黙だけが、かすかな震えを抱いて、呼吸している。
苔むした岩肌に、雫がひとつ落ちた。
時の終わりを告げるように、静かに。
耳を澄ませば、遥かな底から湧きあがる音がある。
それは水音に似て、けれど水ではなく、風でもなく、木々の枝をすり抜ける、名前のない音。
冷えた空気の底に、赤が咲いていた。
燃えるようでもなく、血のようでもなく、ただ、沈黙をまとった赤。
何百もの葉が、ひとつひとつの鼓動のように揺れていた。
その裂け目に降り注ぐ光は、決して白くない。
金とも銀ともつかぬ、呼吸のようにやわらかな色。
歩みを進めるたび、足元で乾いた葉が声を上げた。
それは音ではなく、触れた空気のかすかな震えだった。
湿った土の匂いに混じって、遠い日の風が鼻先をかすめる。
肌に触れる風が、頬を撫でる指先のように細く、確かだった。
ひとつ、またひとつ、記憶ではない何かが過ぎていく。
断崖の間を流れる川は、空の色を映さない。
それはすでに何も映す必要のない水だった。
ただ流れることに意味があり、ただ音をたてることに存在があった。
水は下から見上げる紅葉を吸い込み、静かに、ゆっくりと、どこかへ連れて行くようだった。
その場所には、言葉が根を下ろさない。
考えや名が、次第に薄れていく。
思い出せなくなるのではない、必要がなくなっていく。
脈動する木の幹に掌を置けば、冷たさとともに、内奥から湧く微かなぬくもりが伝わった。
まるでその木が、遥か昔からここで誰かを待っていたように。
ひときわ紅い葉が、一枚だけ宙を漂っていた。
風もなく、傾きもせず、ただ空に浮かんでいた。
その不自然な在りように、恐れは生まれず、むしろそれがこの世界の規律であるかのように、まっすぐに、それを見上げていた。
乾いた岩を這う蔦が、途中で色を変えていた。
緑から黄へ、黄から赤へ。
まるで迷っているかのように。
その色の綾が、時間の裂け目をなぞるように岩に絡みついていた。
蔦の先端が、裂けた岩の奥へと吸い込まれていくのを見た。
深く、暗く、けれど決して恐ろしくはない奥へ。
踏み出す足に、小さな石が転がった。
軽い音が、谷に溶けた。
誰も答えない静けさが、全身にまとわりついた。
それは、遠ざかるためではなく、還るための静寂だった。
落ちていた一枚の葉を指に挟むと、薄い紙のような質感の中に、細やかな血管のような脈があった。
それがほんの僅かに、熱を持っていた。
風がまた通りすぎる。
頭上の木々を撫で、赤の海を揺らす。
光の粒が、幾重もの枝の間から零れ落ち、舞い上がった塵のように、空中で踊っていた。
その粒ひとつひとつに、名も、始まりも、終わりもなかった。
その先に、細い石の階があった。
苔に覆われ、半ば崩れ、どこまでが道でどこからが岩か、見分けがつかない。
踏み外せば戻れぬという予感だけが、喉の奥に淡く滲んだ。
だが、足は止まらない。
身体よりも先に、どこか深い場所で、静かな約束が交わされていた。
木々の葉裏が淡く光を返し、裂けた崖の間を風が細く走る。
その風の音に混じって、かすかに笛のような響きが混じった気がした。
近づけば遠ざかり、遠ざかれば寄ってくる。
輪郭を持たぬその旋律は、心の深い層にひとしずく、沁み入る。
それは音ではなく、記憶のような気配。
名を呼ぶ声ではないのに、呼ばれている感覚だけが、確かにそこにあった。
両の壁が迫り合い、空が細くなる。
その狭間に、光が縫いとるように差し込んでいた。
水は、ひっそりと流れていた。
浅く、けれど冷たく深い底を孕み、無数の小石をなでるように、音を立てずに、ただ存在を続けていた。
岩の裂け目に根を下ろす一本の樹があった。
常の時よりもなお鮮やかに、紅をまとっていた。
枝の先端が空を指し、その下に流れる影は、まるで水墨画のように滲んでいた。
その葉のひとつひとつが、まるで灯りのようだった。
けれどそれは燃えていない。
音もなく、熱もなく、ただその色だけで空間を照らしていた。
かすかに土の香が濃くなる。
湿り気を帯びた空気に、わずかな甘さが混じる。
見上げると、どこかで崩れた崖の上に、名もなき草花が、小さく、けれど誇らしげに咲いていた。
その青が、紅に囲まれてなお、消えることはなかった。
紅が周囲を包み、青を際立たせるように、そこにいた。
その静かな均衡が、この場の理のように思えた。
冷たさが、肌から骨へと染みてくる。
それでも、冷えることはなかった。
身体は少しずつ、この場所の静けさに馴染んでいく。
葉の落ちる音ひとつすら、もう騒がしく感じるほどに。
音が消えていくのではない。
音の向こう側に、別の深さが現れてくる。
渡る風が、背を押した。
崖の縁に立つその瞬間、全ての色が、ゆっくりとこちらに振り返るようだった。
赤も、黄も、朽ちかけた茶も、すべてがこちらを見つめていた。
それは見るというより、覚えている、という眼差しだった。
川の流れが遠ざかる。
石の階段はもう背後にあり、振り返ることはなかった。
掌に残る葉のぬくもりだけが、確かにその場所を通り過ぎた証だった。
それは記録ではなく、祈りにも似た感触だった。
やがて、木々の背が低くなり、空がひらけていく。
遠くで鳥がひと声、短く鳴いた。
それは終わりの合図ではなく、次の静けさへの、道しるべのように響いていた。
足元の影が長く伸びていた。
その影の中に、落ち葉がひとつ、そっと揺れていた。
すべての色が枝を離れ、風の名残に揺れている。
戻るべき場所はどこにもなく、それでも歩みは、土のやわらかさを踏みしめてゆく。
記憶には残らず、心にも刻まれず、ただ肌に、光の気配がわずかに染みている。
誰のものでもない時間が、また静かに、満ちていく。