泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風の向きが変わるとき、それは音のない扉がひらく合図。

誰にも告げられず、誰にも問われないまま、道の奥へと続く裂け目がひとつ、ふと姿をあらわす。

光はまだ若く、空気は言葉を忘れている。

色づく前の沈黙だけが、かすかな震えを抱いて、呼吸している。


0323 裂け目に咲く紅葉の魔法

苔むした岩肌に、雫がひとつ落ちた。

時の終わりを告げるように、静かに。

耳を澄ませば、遥かな底から湧きあがる音がある。

それは水音に似て、けれど水ではなく、風でもなく、木々の枝をすり抜ける、名前のない音。

 

冷えた空気の底に、赤が咲いていた。

燃えるようでもなく、血のようでもなく、ただ、沈黙をまとった赤。

何百もの葉が、ひとつひとつの鼓動のように揺れていた。

その裂け目に降り注ぐ光は、決して白くない。

金とも銀ともつかぬ、呼吸のようにやわらかな色。

 

歩みを進めるたび、足元で乾いた葉が声を上げた。

それは音ではなく、触れた空気のかすかな震えだった。

湿った土の匂いに混じって、遠い日の風が鼻先をかすめる。

肌に触れる風が、頬を撫でる指先のように細く、確かだった。

ひとつ、またひとつ、記憶ではない何かが過ぎていく。

 

断崖の間を流れる川は、空の色を映さない。

それはすでに何も映す必要のない水だった。

ただ流れることに意味があり、ただ音をたてることに存在があった。

水は下から見上げる紅葉を吸い込み、静かに、ゆっくりと、どこかへ連れて行くようだった。

 

その場所には、言葉が根を下ろさない。

考えや名が、次第に薄れていく。

思い出せなくなるのではない、必要がなくなっていく。

脈動する木の幹に掌を置けば、冷たさとともに、内奥から湧く微かなぬくもりが伝わった。

まるでその木が、遥か昔からここで誰かを待っていたように。

 

ひときわ紅い葉が、一枚だけ宙を漂っていた。

風もなく、傾きもせず、ただ空に浮かんでいた。

その不自然な在りように、恐れは生まれず、むしろそれがこの世界の規律であるかのように、まっすぐに、それを見上げていた。

 

乾いた岩を這う蔦が、途中で色を変えていた。

緑から黄へ、黄から赤へ。

まるで迷っているかのように。

その色の綾が、時間の裂け目をなぞるように岩に絡みついていた。

蔦の先端が、裂けた岩の奥へと吸い込まれていくのを見た。

深く、暗く、けれど決して恐ろしくはない奥へ。

 

踏み出す足に、小さな石が転がった。

軽い音が、谷に溶けた。

誰も答えない静けさが、全身にまとわりついた。

それは、遠ざかるためではなく、還るための静寂だった。

落ちていた一枚の葉を指に挟むと、薄い紙のような質感の中に、細やかな血管のような脈があった。

それがほんの僅かに、熱を持っていた。

 

風がまた通りすぎる。

頭上の木々を撫で、赤の海を揺らす。

光の粒が、幾重もの枝の間から零れ落ち、舞い上がった塵のように、空中で踊っていた。

その粒ひとつひとつに、名も、始まりも、終わりもなかった。

 

その先に、細い石の階があった。

苔に覆われ、半ば崩れ、どこまでが道でどこからが岩か、見分けがつかない。

踏み外せば戻れぬという予感だけが、喉の奥に淡く滲んだ。

だが、足は止まらない。

身体よりも先に、どこか深い場所で、静かな約束が交わされていた。

 

木々の葉裏が淡く光を返し、裂けた崖の間を風が細く走る。

その風の音に混じって、かすかに笛のような響きが混じった気がした。

近づけば遠ざかり、遠ざかれば寄ってくる。

輪郭を持たぬその旋律は、心の深い層にひとしずく、沁み入る。

それは音ではなく、記憶のような気配。

名を呼ぶ声ではないのに、呼ばれている感覚だけが、確かにそこにあった。

 

両の壁が迫り合い、空が細くなる。

その狭間に、光が縫いとるように差し込んでいた。

水は、ひっそりと流れていた。

浅く、けれど冷たく深い底を孕み、無数の小石をなでるように、音を立てずに、ただ存在を続けていた。

 

岩の裂け目に根を下ろす一本の樹があった。

常の時よりもなお鮮やかに、紅をまとっていた。

枝の先端が空を指し、その下に流れる影は、まるで水墨画のように滲んでいた。

その葉のひとつひとつが、まるで灯りのようだった。

けれどそれは燃えていない。

音もなく、熱もなく、ただその色だけで空間を照らしていた。

 

かすかに土の香が濃くなる。

湿り気を帯びた空気に、わずかな甘さが混じる。

見上げると、どこかで崩れた崖の上に、名もなき草花が、小さく、けれど誇らしげに咲いていた。

その青が、紅に囲まれてなお、消えることはなかった。

紅が周囲を包み、青を際立たせるように、そこにいた。

その静かな均衡が、この場の理のように思えた。

 

冷たさが、肌から骨へと染みてくる。

それでも、冷えることはなかった。

身体は少しずつ、この場所の静けさに馴染んでいく。

葉の落ちる音ひとつすら、もう騒がしく感じるほどに。

音が消えていくのではない。

音の向こう側に、別の深さが現れてくる。

 

渡る風が、背を押した。

崖の縁に立つその瞬間、全ての色が、ゆっくりとこちらに振り返るようだった。

赤も、黄も、朽ちかけた茶も、すべてがこちらを見つめていた。

それは見るというより、覚えている、という眼差しだった。

 

川の流れが遠ざかる。

石の階段はもう背後にあり、振り返ることはなかった。

掌に残る葉のぬくもりだけが、確かにその場所を通り過ぎた証だった。

それは記録ではなく、祈りにも似た感触だった。

 

やがて、木々の背が低くなり、空がひらけていく。

遠くで鳥がひと声、短く鳴いた。

それは終わりの合図ではなく、次の静けさへの、道しるべのように響いていた。

 

足元の影が長く伸びていた。

その影の中に、落ち葉がひとつ、そっと揺れていた。




すべての色が枝を離れ、風の名残に揺れている。

戻るべき場所はどこにもなく、それでも歩みは、土のやわらかさを踏みしめてゆく。

記憶には残らず、心にも刻まれず、ただ肌に、光の気配がわずかに染みている。

誰のものでもない時間が、また静かに、満ちていく。
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