それは音よりも先に、肌の内側へと届き、言葉のない懐かしさをそっと残していく。
道端にひとひらの花が落ちていた。
それを誰かが見つける前に、風が拾い上げるように宙へ舞わせた。
光は揺らぎ、影は優しくほどけ、時間の境界線が曖昧になっていく。
ただ、歩くということ。
それだけが、確かな手ざわりとなって胸の奥に灯っていた。
桜の花びらが、空を忘れたかのように彷徨っていた。
風は言葉のように枝を揺らし、かすかな返事を葉の影に落としていく。
淡い薄紅がひとひら、頬に触れ、地に落ちるまでの時間が、いつまでも終わらぬ夢のように引き延ばされる。
遠くで水音がした。
誰かが口を閉ざして歩いているような、静かで、しかし確かな流れだった。
土の匂いに混じって、仄かに湿った苔の香りが鼻先をかすめる。
小さな石段のひとつひとつが、雨に洗われた記憶のように滑らかで、踏みしめるたびにひととき時が戻る。
右手の小径に差し込んだ陽が、枝垂れた桜の帳を透かし、宙に浮かぶような光の門をつくっていた。
踏み入れると、風の音が一度消えた。
足元の砂利がわずかに軋み、葉陰に隠れた鳥の羽ばたきが、肩越しに過ぎていった。
沈黙の中に微かな旋律があり、耳を澄ませば、どこからかひとすじの笛のような気配が響いていた。
道はゆるやかに弧を描き、何かを巡るように、何かを忘れぬように、同じ色の風景がゆっくりと重なってゆく。
その輪郭の曖昧さに身を委ねると、輪の内と外がほどけ、ひとつの気配だけが残る。
苔むした石の囲いに、誰かの忘れ物のような椿の花がひとつ。
濡れた赤は、なぜか温かい気がした。
指先に触れれば崩れそうなほど柔らかく、それでいて、触れることさえためらわせる気配があった。
一歩退き、ただ目で見送る。
影が長くなる。
その速度の中に、見えぬ時計があるのかもしれない。
ふと、風が強く吹いた。
目の奥に淡い桜色が差し込み、まばたきの間に世界が反転する。
石畳の裂け目から、ひとつだけ顔を覗かせた若葉があった。
その小さな緑に、今朝の光が宿っているように思えた。
草は名を持たぬまま、ただそこに生えていた。
春の匂いが濃くなる。
風の底にかすかな土の温もりが混じり、遠くに灯る焚き火のように胸の奥を焦がす。
それは懐かしさとは違う、もっと名もなき感情の、手前の色をしていた。
石の階が続く。
踏みしめるたび、心の中に何かが沈んでいくような、あるいは浮かび上がるような、奇妙な静けさがあった。
振り返ることなく歩いているのに、どこかで同じ場所に戻っているような錯覚が、身体の奥にそっと重なる。
枝垂桜がひとつ、風に流されるように揺れ、花を撒いた。
その姿は、まるで空から降る手紙のように思えた。
誰にも届かぬまま、足元でそっと静まる。
淡い風の通り道に、ふと柔らかな陽射しが差し込み、影の輪郭が歪んだ。
その一瞬のきらめきが、言葉よりも先に胸に触れ、記憶にもなれぬまま過ぎ去っていく。
何も話さず、何も答えず、ただそこにあった光。
それを追いかけるように歩を進めると、再び緩やかな坂が現れた。
石垣の隙間に咲く名も知らぬ花々が、風に頷くように揺れている。
どれも同じ色ではなく、けれど、どれも同じ温度を持っていた。
指先がわずかに震えたのは、風のせいか、あるいは…。
細い坂道を登るごとに、足元の感触が変わってゆく。
硬さを失った石が、ところどころ湿りを帯び、歩幅に揺らぎをもたらす。
淡く濁った影がすれ違い、振り向けば、もうそこには何も残っていない。
光は上からではなく、あらゆる隙間から滲み出るように射していた。
木々の間を抜けたその色は、葉の裏に反射しながら、路面にゆるやかな模様を描く。
それは、かつて誰かが踏みしめた記憶の痕のように見えた。
風が回る。
背後から通り抜けたそれが、肩先で巻かれた布をふわりと浮かせ、ひととき身体が宙に溶ける感覚を覚える。
その刹那、香のような匂いが鼻腔をくすぐった。
花ではない、雨上がりの木肌のような、深い静けさを伴う香りだった。
道端に、黒く光る石がひとつ転がっていた。
磨かれたわけではないのに、角がどこまでも丸く、雨粒の名残を宿していた。
掌にすれば冷たく、けれども心地よい。
石の内側に風が閉じ込められているように感じ、そっと元の場所に戻す。
少し開けた場所に出た。
花の絨毯が、土の上に薄く広がっていた。
どこからともなく散り積もったそれは、まるで初めからここに在るべきものだったかのように整い、静かに風を待っている。
一歩踏み入れると、足裏が柔らかく沈み、春の匂いがふわりと立ち上る。
音がすべて遠のいた。
風も鳥も、葉の揺れも、ひととき眠りについたかのようだった。
その沈黙の中に、心臓の音だけが微かに、繰り返される。
見上げれば、枝が重なり合って空を塞いでいた。
その隙間から、雲ひとつない青が覗いていた。
青というより、あれは光そのものの色だった。
目を細めても眩しくはなく、ただ静かに、胸の奥へと染み込んでいく。
少しずつ、また風が戻ってくる。
今度は少し温かく、肩越しにささやくような声で吹き抜けていった。
歩を進めるごとに、過去と未来がほどけてゆくような感覚があった。
どこかで名前を忘れ、時間を置いてきたことに気づく。
けれどそれが、失ったものではないとわかる。
風が、その空白をそっと撫でて通る。
道の端に、木彫の小さな獣があった。
誰が置いたのかもわからないその像は、風にさらされて朽ちかけていたが、眼差しだけはどこまでも新しかった。
苔に埋もれかけたその足元に、花びらが一枚、ぴたりと留まっている。
それを払わず、ただ通り過ぎる。
ふいに、土の奥から音がした気がした。
あるいは自分の呼吸だったかもしれない。
風と土と光が混ざり合い、ひとつの輪になって世界を包む。
目の前に、ゆるやかな下り坂が現れる。
その先に何があるかは見えない。
だが、今はそれでもよかった。
ただ、足を運び続ける。
歩幅に合わせて、空が少しずつ姿を変えていく。
雲のかけらが遠くへ流れ、空気が少し、薄紅色に染まる。
一日の終わりというよりも、新しいはじまりのような気配が、遠くからこちらへと近づいてきていた。
足元に、また桜の花が落ちる。
そのひとひらに触れることなく、風が通り過ぎる。
どこかで、鈴のような音がした。
それが風のせいだったのか、記憶の底から響いたものだったのかは、わからなかった。
けれど、かすかに胸が満ちていた。
言葉にならぬまま、やわらかな光のほうへ歩いていく。
ゆっくりと、輪が閉じるように。
すべての音が遠ざかり、風も花も、声を落としていったあとに、かすかな光だけが残った。
振り返らずとも、足元にはやわらかな記憶の層が積もっていた。
それは歩みの先に咲いたものではなく、歩んだあとに咲いたものだった。
もう名を呼ぶ必要はない。
名を超えて、そっと胸の奥に、ひとすじの春が灯る。