泡沫紀行   作:みどりのかけら

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遠く、風の通り道に、まだ名も持たぬ季節の気配が揺れていた。
それは音よりも先に、肌の内側へと届き、言葉のない懐かしさをそっと残していく。

道端にひとひらの花が落ちていた。
それを誰かが見つける前に、風が拾い上げるように宙へ舞わせた。
光は揺らぎ、影は優しくほどけ、時間の境界線が曖昧になっていく。

ただ、歩くということ。
それだけが、確かな手ざわりとなって胸の奥に灯っていた。


0325 風の軌跡を巡る古都の輪環

桜の花びらが、空を忘れたかのように彷徨っていた。

風は言葉のように枝を揺らし、かすかな返事を葉の影に落としていく。

淡い薄紅がひとひら、頬に触れ、地に落ちるまでの時間が、いつまでも終わらぬ夢のように引き延ばされる。

 

遠くで水音がした。

誰かが口を閉ざして歩いているような、静かで、しかし確かな流れだった。

土の匂いに混じって、仄かに湿った苔の香りが鼻先をかすめる。

小さな石段のひとつひとつが、雨に洗われた記憶のように滑らかで、踏みしめるたびにひととき時が戻る。

 

右手の小径に差し込んだ陽が、枝垂れた桜の帳を透かし、宙に浮かぶような光の門をつくっていた。

踏み入れると、風の音が一度消えた。

足元の砂利がわずかに軋み、葉陰に隠れた鳥の羽ばたきが、肩越しに過ぎていった。

 

沈黙の中に微かな旋律があり、耳を澄ませば、どこからかひとすじの笛のような気配が響いていた。

道はゆるやかに弧を描き、何かを巡るように、何かを忘れぬように、同じ色の風景がゆっくりと重なってゆく。

その輪郭の曖昧さに身を委ねると、輪の内と外がほどけ、ひとつの気配だけが残る。

 

苔むした石の囲いに、誰かの忘れ物のような椿の花がひとつ。

濡れた赤は、なぜか温かい気がした。

指先に触れれば崩れそうなほど柔らかく、それでいて、触れることさえためらわせる気配があった。

一歩退き、ただ目で見送る。

 

影が長くなる。

その速度の中に、見えぬ時計があるのかもしれない。

ふと、風が強く吹いた。

目の奥に淡い桜色が差し込み、まばたきの間に世界が反転する。

 

石畳の裂け目から、ひとつだけ顔を覗かせた若葉があった。

その小さな緑に、今朝の光が宿っているように思えた。

草は名を持たぬまま、ただそこに生えていた。

 

春の匂いが濃くなる。

風の底にかすかな土の温もりが混じり、遠くに灯る焚き火のように胸の奥を焦がす。

それは懐かしさとは違う、もっと名もなき感情の、手前の色をしていた。

 

石の階が続く。

踏みしめるたび、心の中に何かが沈んでいくような、あるいは浮かび上がるような、奇妙な静けさがあった。

振り返ることなく歩いているのに、どこかで同じ場所に戻っているような錯覚が、身体の奥にそっと重なる。

 

枝垂桜がひとつ、風に流されるように揺れ、花を撒いた。

その姿は、まるで空から降る手紙のように思えた。

誰にも届かぬまま、足元でそっと静まる。

 

淡い風の通り道に、ふと柔らかな陽射しが差し込み、影の輪郭が歪んだ。

その一瞬のきらめきが、言葉よりも先に胸に触れ、記憶にもなれぬまま過ぎ去っていく。

何も話さず、何も答えず、ただそこにあった光。

 

それを追いかけるように歩を進めると、再び緩やかな坂が現れた。

石垣の隙間に咲く名も知らぬ花々が、風に頷くように揺れている。

どれも同じ色ではなく、けれど、どれも同じ温度を持っていた。

 

指先がわずかに震えたのは、風のせいか、あるいは…。

 

細い坂道を登るごとに、足元の感触が変わってゆく。

硬さを失った石が、ところどころ湿りを帯び、歩幅に揺らぎをもたらす。

淡く濁った影がすれ違い、振り向けば、もうそこには何も残っていない。

 

光は上からではなく、あらゆる隙間から滲み出るように射していた。

木々の間を抜けたその色は、葉の裏に反射しながら、路面にゆるやかな模様を描く。

それは、かつて誰かが踏みしめた記憶の痕のように見えた。

 

風が回る。

背後から通り抜けたそれが、肩先で巻かれた布をふわりと浮かせ、ひととき身体が宙に溶ける感覚を覚える。

その刹那、香のような匂いが鼻腔をくすぐった。

花ではない、雨上がりの木肌のような、深い静けさを伴う香りだった。

 

道端に、黒く光る石がひとつ転がっていた。

磨かれたわけではないのに、角がどこまでも丸く、雨粒の名残を宿していた。

掌にすれば冷たく、けれども心地よい。

石の内側に風が閉じ込められているように感じ、そっと元の場所に戻す。

 

少し開けた場所に出た。

花の絨毯が、土の上に薄く広がっていた。

どこからともなく散り積もったそれは、まるで初めからここに在るべきものだったかのように整い、静かに風を待っている。

一歩踏み入れると、足裏が柔らかく沈み、春の匂いがふわりと立ち上る。

 

音がすべて遠のいた。

風も鳥も、葉の揺れも、ひととき眠りについたかのようだった。

その沈黙の中に、心臓の音だけが微かに、繰り返される。

 

見上げれば、枝が重なり合って空を塞いでいた。

その隙間から、雲ひとつない青が覗いていた。

青というより、あれは光そのものの色だった。

目を細めても眩しくはなく、ただ静かに、胸の奥へと染み込んでいく。

 

少しずつ、また風が戻ってくる。

今度は少し温かく、肩越しにささやくような声で吹き抜けていった。

 

歩を進めるごとに、過去と未来がほどけてゆくような感覚があった。

どこかで名前を忘れ、時間を置いてきたことに気づく。

けれどそれが、失ったものではないとわかる。

風が、その空白をそっと撫でて通る。

 

道の端に、木彫の小さな獣があった。

誰が置いたのかもわからないその像は、風にさらされて朽ちかけていたが、眼差しだけはどこまでも新しかった。

苔に埋もれかけたその足元に、花びらが一枚、ぴたりと留まっている。

それを払わず、ただ通り過ぎる。

 

ふいに、土の奥から音がした気がした。

あるいは自分の呼吸だったかもしれない。

風と土と光が混ざり合い、ひとつの輪になって世界を包む。

 

目の前に、ゆるやかな下り坂が現れる。

その先に何があるかは見えない。

だが、今はそれでもよかった。

 

ただ、足を運び続ける。

 

歩幅に合わせて、空が少しずつ姿を変えていく。

雲のかけらが遠くへ流れ、空気が少し、薄紅色に染まる。

一日の終わりというよりも、新しいはじまりのような気配が、遠くからこちらへと近づいてきていた。

 

足元に、また桜の花が落ちる。

そのひとひらに触れることなく、風が通り過ぎる。

 

どこかで、鈴のような音がした。

それが風のせいだったのか、記憶の底から響いたものだったのかは、わからなかった。

 

けれど、かすかに胸が満ちていた。

言葉にならぬまま、やわらかな光のほうへ歩いていく。

 

ゆっくりと、輪が閉じるように。




すべての音が遠ざかり、風も花も、声を落としていったあとに、かすかな光だけが残った。

振り返らずとも、足元にはやわらかな記憶の層が積もっていた。
それは歩みの先に咲いたものではなく、歩んだあとに咲いたものだった。

もう名を呼ぶ必要はない。
名を超えて、そっと胸の奥に、ひとすじの春が灯る。
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