泡沫紀行   作:みどりのかけら

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雪は、ただ降りてくる。
何も問わず、何も選ばず、ただ静かに。

光を受けるたび、その姿は少しずつ変わっていく。
白から青へ、青から無色へ。
触れようとすれば砕け、声をかけようとすれば沈黙を返す。

足跡のない森に最初のひと息を置くとき、空気はまだ、誰のものでもなかった。

冷たさは拒絶ではなく、扉のようにそこにある。


0331 氷の精霊が紡ぐ白銀の森

靴の底に、雪の感触が柔らかく広がっていった。

積もりたての粉雪は、ひと息にも似た軽さで沈み、踏みしめるたび、静かに音を立てた。

音といっても、それは耳に届くものではない。

指先にだけふわりと伝わる、音の気配だった。

 

樹々は凍りついた羽根のようなものをまとい、風のない空を仰いで立っていた。

枝先から伸びた白い氷の繊維が、すべて同じ方向に揃っていた。

それは風がそこにいたという証であり、誰にも見られず通りすぎた精霊の置き土産のようでもあった。

 

森の奥に入るたび、音は遠ざかっていった。

世界は徐々に、目に映るものと肺に触れる冷たさだけで満ちてゆき、言葉という形を失っていく。

雪は深くもなく浅くもなく、まるで誰かが歩くことを前提に敷きつめた絨毯のようだった。

 

凍りついた木々の間をすり抜けていくと、やがて視界が白く広がる場所に出た。

そこには風の通り道があり、吹き上げられた霧氷が宙を舞っていた。

まるで見えない指先が空をなぞっているかのように、氷の粒は旋律のように緩やかに回りながら降ってきた。

目の奥でそのきらめきがはじけるたび、胸の奥にぽつりと灯がともった。

 

雪をかぶった倒木に腰を下ろす。

寒さはすぐに衣を抜けて、背中から太腿にかけて染みてくるが、痛みではなかった。

それはむしろ、存在の輪郭を確かめるような感覚だった。

沈黙はこの森では息づいていて、風の鳴らす笛に耳を澄ますように、周囲の樹々もまた黙っていた。

 

ふと、枝の先に揺れる氷のかけらが光を返す。

それは午後の陽がわずかに傾きはじめた合図だった。

空は淡い灰青に染まり、わずかに紫の気配を孕み始める。

木々の陰影がゆっくりと伸び、氷の結晶は、沈む光をとらえて淡く燃えた。

 

立ち上がり、足をすすめる。

雪を割る音が、さっきより少しだけ深く響いた。

冷たい風が、耳の下を通りぬけていった。

その冷たさは鋭くはなく、触れた瞬間に溶けるような、幼い手のようだった。

 

森の奥に入るほど、世界は音を失っていくのではなく、違う調べに変わっていく。

鳥の影はなく、ただ氷の枝がときおり震えて、細かな結晶を落とす。

それらが空気を裂く音が、まるで小さな声のように響く。

言葉を持たない声。感情を持たない涙。

そのすべてが、いまこの森にだけ許された響きだった。

 

歩くたび、目に映る景色は少しずつ形を変えていく。

樹氷はやがて、ただの凍った枝ではなく、まるで意思を持った生きもののように見えてきた。

風に逆らって伸びた腕、空に祈るように凍った指先。

それらは長い時間をかけて、静かにこの森に根ざしたまま、季節が戻るのを待っているのかもしれなかった。

 

薄暗くなった空に、ひとすじ、雲を縫うような光が走る。

夕暮れよりも少しだけ早いその光は、空のどこか遠くで氷を照らしている。

視界の片隅で、誰かが振り向いたような気配があったが、ただ風がひときわ強く吹いただけだった。

 

足元の雪がさらさらと乾いた音を立て、前へ進むたび白い粉が舞い上がった。

それはまるで、過ぎてゆく記憶の細片のようだった。

指先から少しずつ温もりが失われていくのを感じながらも、歩みを止めることはなかった。

寒さは痛みではなく、沈黙の皮膚だった。

その中に溶け込むことでしか見えないものが、この森にはあった。

 

枝から落ちた氷の雫が、地面に触れずに風にさらわれてゆく。

その軌道ははかなくも精緻で、目で追えば追うほど、心の奥に何かが澄んでいくような感覚を残した。

雪はやがて結晶のまま凍りつき、地面を鏡のように変えていった。

滑る足を慎重に運びながら、冷たい空気を胸に吸い込む。

深く、ゆっくりと。

 

見上げれば、樹々の間からひとすじの光が差していた。

それは太陽というにはあまりにも淡く、かといって月でもない。

境目のない光。

昼と夜の間にだけ生まれる、どこにも属さない光だった。

その光を浴びた樹氷は、白ではなく、かすかに青を帯びていた。

触れれば砕けそうな、音のない硝子の森。

 

歩き疲れた足を休める場所を探し、苔の上に腰を下ろす。

雪に埋もれたその緑は、氷の下でなお眠っているように見えた。

掌でそっと触れると、思いのほかやわらかく、かすかに湿っていた。

その感触に、どこか遠い記憶が呼び覚まされる。

水に触れた日のこと。

凍る前の時間を、まだ覚えているもののぬくもり。

 

遠くで、枝が裂けるような音がした。

風が強くなったのか、それとも氷の重みに耐えきれなくなったのか。

音は鋭く短く、だが、森を切り裂くほどではなかった。

むしろ、それによってあたりの静けさがより濃くなっていくのを感じる。

まるで呼吸を止めたあとの、耳鳴りにも似た時間の重み。

 

雪の上に影が落ちる。

それは自分のものではなかった。

しかし見上げても、ただ無数の枝と光の屈折があるばかり。

影はやがて溶け、また雪の白に還っていった。

その気配に心がわずかに揺れる。

言葉にはならない、きわめて小さな震え。

それは内からくる風にも似ていた。

 

立ち上がり、歩を再び進める。

日が傾き、森の表情は一層、翳を帯びていく。

枝に積もった氷は、角度によって金色に近い光を放った。

それは炎ではなく、凍ったまま燃えるもの。

消えることなく、けれど決して温めることのない光。

 

手袋の中の指先が、もうほとんど感覚を持たない。

だが、それによって触れる世界の精度が増していく。

身体は寒さに削られ、世界と混ざり合っていく。

雪の一片と同じ密度で、そこに存在しているという感覚。

 

やがて視界が開け、森の奥に白い丘が現れた。

風がその上を滑り、細かな雪を巻き上げていた。

その丘の頂に、ひときわ大きな樹が一本だけ立っていた。

その幹は凍てつき、枝は天を裂くように広がっていた。

その姿はまるで、音のない鐘楼。

風が鳴らす見えない音叉のように、空を震わせていた。

 

近づくごとに、心が静かに、確かに揺れていった。

声にならない何かが、雪の奥からじわりと染み出すように、

胸の奥のどこかに沁みていく。

 

そして気づく。

ここに至るまでのすべてが、まるで一本の旋律だったことに。

雪を踏む音も、枝が震える気配も、指先の痛みも、

すべては、誰にも聞こえない、ひとつの曲だったことに。

 

白銀の森はまだ終わらない。

音のない光が、なおも木々の影を揺らしていた。




振り返れば、すべては白のなかに溶けていた。
歩いたはずの道も、風が払った枝の影も、いまはただ、なにも語らず、なにも残していない。

けれど、胸の奥に沈んでゆくある感触だけが、静かに、確かに、消えずにある。

雪はまだ降っている。
まるで何かを、そっと覆うように。
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