泡沫紀行   作:みどりのかけら

332 / 1183
うすく開いた空のふちに、緑の気配が滲みはじめる。
眠っていた大地が、名もなき光を抱きしめながら、そっと息をつく。
それは音もなく、名もなく、ただ静かに、すべてのものが始まる前の、わずかな揺らぎ。

水のように透きとおった風が、どこからか舞い降り、まだ言葉を知らない葉の先を撫でていく。
その一瞬に、ひとは気づかぬまま、遠くへ歩きだしている。


0332 天空の緑影の宮殿

風の声が、地面の下から静かに鳴りはじめていた。

湿りを帯びたその囁きは、木々の葉裏をくぐり抜け、まだ眠りきらぬ若草の間に音もなく落ちた。

足元の土はやわらかく、かすかに温かく、踏みしめるたびに去年の冬が奥へ奥へと退いていく。

空は高く、澄んだ薄藍のままひとつの雲も浮かべず、枝先に宿る光がゆっくりと色づいていくのを、まるで誰かが見守っているかのようだった。

 

登り道は、ささやかな勾配を繰り返しながら、木の香に満ちた坂を描いている。

白と萌黄のあいだにある名もなき光が、地上のすべてのものに、目には見えぬ翅のような輪郭を与えていく。

垂れ下がる新緑は、まだどこか濡れていて、指先でそっと触れると、春という言葉の中にいるような気がした。

空から降ってくる影は、どれもひとつとして同じかたちをしておらず、けれど互いの存在を静かに受け容れながら、風とともに微笑んでいた。

 

丘の輪郭がすこしずつ変わっていく。

木々の間からは、光と影が織りなす、幾層にも重ねられた緑の帳が垣間見える。

そのひとつひとつが、遠い時を知る宮の壁のようであり、歩を進めるたび、名もない時間が、深く、やわらかく、身の内側に沈んでゆく。

ときおり、鳥の羽音がかすかに響き、どこかで水が音を立てていた。

 

石畳のような感触が足裏に残る。

どこかで誰かが削ったような小さな段差が、ほのかに導いてくるものがある。

だれの名も刻まれてはいないが、そこに触れる空気には、人の気配がゆっくりと溶けていた。

手すりも案内もないまま、ただ木々が道を形づくっていた。

 

あるところから、風の匂いが変わる。

土と葉と、名も知らぬ草の息遣いの中に、ほのかに甘い、熟しかけた果実の気配が混じっていた。

それはどこか、記憶の底で曖昧になっていた誰かの声のようで、けれどそれが誰なのかは思い出せず、ただ耳の奥でやさしく反響していた。

陽の光は、葉のすきまを通って、皮膚に影を落とす。

その影が、まるでこの身体ではない別の輪郭を写しているかのようで、思わず立ち止まり、両の掌に空気を集めた。

 

一枚の葉が、ふいに風に乗って落ちる。

その軌跡を目で追ったとき、遥か頭上、木々の枝の向こうに、緑の層が幾重にも重なった広がりが現れる。

まるで天に吊られた緑の殿のように、光の糸で縫いとられたその場所は、見上げるだけで息を呑むほどの静謐を湛えていた。

そして、かすかに聞こえるのは、葉擦れでも鳥のさえずりでもなく、いま自分の鼓動に似た、誰かの歩みのような響きだった。

 

足音をそっと殺すようにして、さらに奥へと進んでゆく。

風が緩み、時間がぬかるみに足を取られるような鈍さで流れはじめる。

枝の密度が高まり、光が斑に落ちる。

その光のひとつひとつが、まるで水底から見上げた太陽のように、静かに揺れていた。

 

斜面の途中、小さなひらけた場所がある。

そこだけ風が渦を巻き、地面は白く、まるで長い間、何かが眠っていた跡のようだった。

草の背丈は低く、周囲の木々がその場所を囲むように立っている。

そこに立つと、思いもかけず胸の奥がやわらかくなる。

言葉にならないまま、ふいに肩から力が抜け、ひとつ深い呼吸をする。

その空気は薄く澄み、微かに花の匂いがした。

 

見上げると、緑の宮殿がそこにあった。

重なり合う梢と梢のあいだから、光が降り注ぎ、葉のすべてが薄く発光していた。

まるで空そのものが、内側から燃えているかのように。

どこかで、古い弦がゆるやかに響いていたような気がした。

それが風の音だったのか、木々の軋みだったのか、それとも胸の奥で鳴った微かな音だったのかは、もうわからなかった。

 

その場所は、誰かが永く守り続けてきたようにも、誰の手も触れぬまま、ひっそりと在り続けてきたようにも思える。

柔らかな葉の屋根の下で、空気はすべての音を薄めていた。

ただひとつ、足元に咲く白い花だけが、わずかに揺れ、まだ覚めきらぬ朝の夢の中に咲いていた。

手を伸ばしかけたが、そのまま引いた。

それが正しいように思えた。

 

歩を進めれば、また緩やかな坂が始まる。

今度は、下る道。

さっきまで見上げていた光の天蓋が、今は背を押すようにして、影となってついてくる。

その影は、どこまでもやさしかった。

振り返っても、もう先ほどの場所は見えない。

けれど、そこにあったという確かさだけが、まだ身体の中に残っている。

 

土のにおいが、深くなる。

若葉の香りに混じって、乾いた木の皮の感触が、指の腹に蘇る。

風が通り過ぎるとき、髪がわずかに揺れ、耳のすぐそばを何かが擦り抜ける。

ふと、胸の奥に触れるものがある。

それは、言葉にはできない、けれどたしかに在る感触だった。

名を持たない想いが、春の新緑の奥に、しずかに根を張っていた。

 

やがて道が消える。

消えたというよりも、はじめから道などなかったかのように。

ただ、どこまでもつづく緑の影と、光の揺らぎがあるばかり。

耳をすませば、何も聞こえない。

それなのに、そこには音よりも確かな「響き」があった。

 

あの場所は、たしかに在った。

そして今も、心のどこかでゆっくりと、緑の宮殿は呼吸をつづけている。

季節という名の静かな祈りとともに。




緑の気配が背中に遠のき、陽の光がゆるやかに角度を変えていく。
音の消えた午後、足裏に残るのは、やわらかな起伏と、土のあたたかさ。

何も変わらないようでいて、風のかたちが、ほんのすこし違っていた。
ひとはそれを知らぬまま、光の名残に包まれて、次の影へと歩いてゆく。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。