眠っていた大地が、名もなき光を抱きしめながら、そっと息をつく。
それは音もなく、名もなく、ただ静かに、すべてのものが始まる前の、わずかな揺らぎ。
水のように透きとおった風が、どこからか舞い降り、まだ言葉を知らない葉の先を撫でていく。
その一瞬に、ひとは気づかぬまま、遠くへ歩きだしている。
風の声が、地面の下から静かに鳴りはじめていた。
湿りを帯びたその囁きは、木々の葉裏をくぐり抜け、まだ眠りきらぬ若草の間に音もなく落ちた。
足元の土はやわらかく、かすかに温かく、踏みしめるたびに去年の冬が奥へ奥へと退いていく。
空は高く、澄んだ薄藍のままひとつの雲も浮かべず、枝先に宿る光がゆっくりと色づいていくのを、まるで誰かが見守っているかのようだった。
登り道は、ささやかな勾配を繰り返しながら、木の香に満ちた坂を描いている。
白と萌黄のあいだにある名もなき光が、地上のすべてのものに、目には見えぬ翅のような輪郭を与えていく。
垂れ下がる新緑は、まだどこか濡れていて、指先でそっと触れると、春という言葉の中にいるような気がした。
空から降ってくる影は、どれもひとつとして同じかたちをしておらず、けれど互いの存在を静かに受け容れながら、風とともに微笑んでいた。
丘の輪郭がすこしずつ変わっていく。
木々の間からは、光と影が織りなす、幾層にも重ねられた緑の帳が垣間見える。
そのひとつひとつが、遠い時を知る宮の壁のようであり、歩を進めるたび、名もない時間が、深く、やわらかく、身の内側に沈んでゆく。
ときおり、鳥の羽音がかすかに響き、どこかで水が音を立てていた。
石畳のような感触が足裏に残る。
どこかで誰かが削ったような小さな段差が、ほのかに導いてくるものがある。
だれの名も刻まれてはいないが、そこに触れる空気には、人の気配がゆっくりと溶けていた。
手すりも案内もないまま、ただ木々が道を形づくっていた。
あるところから、風の匂いが変わる。
土と葉と、名も知らぬ草の息遣いの中に、ほのかに甘い、熟しかけた果実の気配が混じっていた。
それはどこか、記憶の底で曖昧になっていた誰かの声のようで、けれどそれが誰なのかは思い出せず、ただ耳の奥でやさしく反響していた。
陽の光は、葉のすきまを通って、皮膚に影を落とす。
その影が、まるでこの身体ではない別の輪郭を写しているかのようで、思わず立ち止まり、両の掌に空気を集めた。
一枚の葉が、ふいに風に乗って落ちる。
その軌跡を目で追ったとき、遥か頭上、木々の枝の向こうに、緑の層が幾重にも重なった広がりが現れる。
まるで天に吊られた緑の殿のように、光の糸で縫いとられたその場所は、見上げるだけで息を呑むほどの静謐を湛えていた。
そして、かすかに聞こえるのは、葉擦れでも鳥のさえずりでもなく、いま自分の鼓動に似た、誰かの歩みのような響きだった。
足音をそっと殺すようにして、さらに奥へと進んでゆく。
風が緩み、時間がぬかるみに足を取られるような鈍さで流れはじめる。
枝の密度が高まり、光が斑に落ちる。
その光のひとつひとつが、まるで水底から見上げた太陽のように、静かに揺れていた。
斜面の途中、小さなひらけた場所がある。
そこだけ風が渦を巻き、地面は白く、まるで長い間、何かが眠っていた跡のようだった。
草の背丈は低く、周囲の木々がその場所を囲むように立っている。
そこに立つと、思いもかけず胸の奥がやわらかくなる。
言葉にならないまま、ふいに肩から力が抜け、ひとつ深い呼吸をする。
その空気は薄く澄み、微かに花の匂いがした。
見上げると、緑の宮殿がそこにあった。
重なり合う梢と梢のあいだから、光が降り注ぎ、葉のすべてが薄く発光していた。
まるで空そのものが、内側から燃えているかのように。
どこかで、古い弦がゆるやかに響いていたような気がした。
それが風の音だったのか、木々の軋みだったのか、それとも胸の奥で鳴った微かな音だったのかは、もうわからなかった。
その場所は、誰かが永く守り続けてきたようにも、誰の手も触れぬまま、ひっそりと在り続けてきたようにも思える。
柔らかな葉の屋根の下で、空気はすべての音を薄めていた。
ただひとつ、足元に咲く白い花だけが、わずかに揺れ、まだ覚めきらぬ朝の夢の中に咲いていた。
手を伸ばしかけたが、そのまま引いた。
それが正しいように思えた。
歩を進めれば、また緩やかな坂が始まる。
今度は、下る道。
さっきまで見上げていた光の天蓋が、今は背を押すようにして、影となってついてくる。
その影は、どこまでもやさしかった。
振り返っても、もう先ほどの場所は見えない。
けれど、そこにあったという確かさだけが、まだ身体の中に残っている。
土のにおいが、深くなる。
若葉の香りに混じって、乾いた木の皮の感触が、指の腹に蘇る。
風が通り過ぎるとき、髪がわずかに揺れ、耳のすぐそばを何かが擦り抜ける。
ふと、胸の奥に触れるものがある。
それは、言葉にはできない、けれどたしかに在る感触だった。
名を持たない想いが、春の新緑の奥に、しずかに根を張っていた。
やがて道が消える。
消えたというよりも、はじめから道などなかったかのように。
ただ、どこまでもつづく緑の影と、光の揺らぎがあるばかり。
耳をすませば、何も聞こえない。
それなのに、そこには音よりも確かな「響き」があった。
あの場所は、たしかに在った。
そして今も、心のどこかでゆっくりと、緑の宮殿は呼吸をつづけている。
季節という名の静かな祈りとともに。
緑の気配が背中に遠のき、陽の光がゆるやかに角度を変えていく。
音の消えた午後、足裏に残るのは、やわらかな起伏と、土のあたたかさ。
何も変わらないようでいて、風のかたちが、ほんのすこし違っていた。
ひとはそれを知らぬまま、光の名残に包まれて、次の影へと歩いてゆく。