泡沫紀行   作:みどりのかけら

333 / 1190
冷たい土の匂いに混じって、どこからか、淡い花の息づかいが漂っていた。

風はまだ、夏の記憶をいくらか背負いながらも、樹々の間をすり抜けるたびに、音を細く削っていく。

影の輪郭は曖昧で、踏みしめるたびに、時の底が、そっと軋む気配があった。

誰に呼ばれたわけでもなく、それでも、歩を向けざるを得なかった方向があった。

そこにはただ、言葉にならない光と、消えかけた色が、いくつもの命を咲かせていた。


0333 花精たちの微笑む薄紅の王国

風の粒がひとひら、頬をかすめた。

それは言葉にならぬ囁きのようで、呼びかけのようで、季節の深みに手を引かれるような感触だった。

 

草いきれの残滓は遠のき、土はゆっくりと冷えて、歩みのたびに音もなく沈んでいく。

陽はやわらかく翳り、枝の隙間を縫う光は、細い針金のように地を縫い止めている。

そのひとつひとつが、かつて何かが燃えていた痕のように、空気を淡く焦がしていた。

 

小道は苔むした石を噛みながら、斜面をしずかに巻いていた。

ふとした傾斜が、心の奥の重さをさらっていくような気がした。

重ねた葉はひっそりと、けれども決して無造作ではなく、風の意図を映して折り重なっている。

その上を、ひと足ずつ、音を立てずに踏み進んだ。

 

薄紅の気配は、まだ輪郭を持たぬまま、遠くに浮かんでいた。

それは空の深みでも、霧の気まぐれでもなく、確かに、地上に咲いているものの息だった。

 

目を上げると、開けた丘がひとつ、光を浴びて胸をひらいていた。

そこに、無数の花精たちがひそやかに微笑んでいる。

風が来るたびに、その肩が揺れ、頬が揺れ、またすぐに静まる。

まるで、あるはずの言葉をいくつも飲み込んでしまった後の、沈黙のようだった。

 

花の名は知らなくとも、その色だけで、時間がほどけてゆく。

朝でも夕でもないこの光に、すべてが溶けていく。

薄紅と、淡紫と、陽だまりの金とが、ひとつの静かな海のように広がっていた。

 

香りはかすかで、近づいてようやく感じる程度。

それでも、鼻腔の奥に残る気配が、どこか懐かしい。

名を呼ばれたような気がして振り返るが、そこにはただ、風の通り道と、少し歪んだ石の影があるだけだった。

 

ひとつの花が、少しだけこちらを向いていた。

その茎は細く、頼りなく見えて、だがしなやかに空気を受けている。

花びらの端がすこし欠けて、そこにだけ影が宿っていた。

それは、遠い記憶の断片のようでもあり、胸の奥の見えないひび割れのようでもあった。

 

足元に、落ちた花弁がひとひら。

拾い上げることはしない。ただ、視線だけでそっと包んだ。

その淡い色は、掌に触れるよりも先に、まぶたの裏に溶けていった。

 

風が、また吹いた。

小さな波のように、花たちがふるえ、その中にいくつもの心があるように見えた。

誰の心か、それはわからない。ただ、確かに何かがここに宿っていた。

 

目を閉じると、光が透けていた。

まぶたの内側に、無数の薄紅が咲いていた。

どこまでが現で、どこからが幻か。

そんな問いは、とうにどうでもよくなっていた。

 

まだ、先がある。

この花の海を抜けた先にも、まだ音のない風景が、ひそやかに息をひそめている気がした。

 

ゆっくりと、また一歩、土を踏んだ。

花精たちが、なにごともなかったように、そっと揺れた。

 

足元にまばらな陽が落ち、草の尖りがそのひとつひとつを裂いていた。

光は斑に割れ、影は重なりながら、輪郭を曖昧にしていく。

目に映るものすべてが、ゆるやかに呼吸をしているようで、静かな心臓の鼓動が大地の奥に広がっていくようだった。

 

道のふちには、小さな岩が無言で並んでいた。

それらは手をつなぐようにひそかに繋がり合い、誰にも気づかれぬまま、長い時を耐えてきたもののようだった。

ひとつ、そっと指先で触れる。

冷たく、硬く、どこか湿ったその感触が、現実という名の縁に触れているようで、反射的に手を離した。

 

丘を越え、さらにゆるやかな傾斜を下ると、風景はまた形を変えていた。

花は少し減り、その分、空が広がっている。

雲は遅く、空気は澄んでいて、何も語らずとも、すべてが満ちていた。

遠く、どこかで葉がこすれ合う音。

耳を澄ますと、それは波のようにも、誰かの眠りの声のようにも聞こえる。

 

足の裏で、細かな砂の感触が生きている。

石よりも柔らかく、けれど確かに存在の重さを持つそれは、歩みをいっそう静かにした。

音を立てることがはばかられるほど、この地には時間の流れさえもが慎ましくあった。

風もまた、遠慮がちに枝を揺らし、花を撫で、葉を裏返しては去っていく。

 

ひとつ、淡い色をした蝶が揺れていた。

それは蝶であって蝶ではなく、花の精の名残のようにも見えた。

近づいても逃げず、しばらくのあいだ空気のひだに浮かび、やがて何かに導かれるように上昇し、空に溶けていった。

その軌跡は儚く、しかし心に深く残るものだった。

まるで、大切な何かが、静かに告げられた後の余韻のようだった。

 

日差しはすこしずつ傾き、花たちの顔にも陰が差す。

その陰がまた、色を深くし、風景に微かな哀しみを添えていく。

どの花も、今という一瞬を惜しむように、その身を風に委ねていた。

何も語らぬが、そのひとつひとつが、語りかけている気がした。

その言葉は理解を超え、ただ感じることだけが許された。

 

茎が揺れ、種子がこぼれ、土が受け取る。

何ひとつとして無駄な動きのないこの世界において、すべてが秩序とやさしさのうちにあることがわかる。

葉脈のひとすじ、風のすじまでもが、どこか遥かな記憶へと繋がっているようだった。

 

空を見上げると、淡くほつれた雲がひとすじ、途切れそうに流れていた。

その奥に光があり、まだ言葉にされぬ何かが、いつか訪れることを予感させていた。

この丘の、さらに向こうへ。

薄紅の王国の果てには、まだ知らぬ光があるかもしれない。

その想いが、歩を進める理由となった。

 

ふり返ると、花たちは風に揺れながら、どこか安堵したように見えた。

見送ることも、拒むこともなく、ただその場に在ることで、すべてを伝えていた。

 

胸の奥に、小さな灯がともる。

それは目に見えぬが、確かにあった。

その灯が、次の景色へと足を向けさせる。

またいつか、この場所に戻ってこれるかどうかは、もう考えなかった。

ただ、この花たちの静かな微笑みが、歩いた記憶のなかで、ずっと咲き続けることだけは確かだった。

 

空気の底をゆくような感覚のまま、またひとつ、道が現れた。

その先に何が待つのかを知らぬまま、けれどその歩みを止める理由も、もうなかった。




薄紅の風が遠ざかるたび、衣のすそに、まだ花の香りが微かに残っていた。

地に咲いたものは、やがて土に帰り、空に昇ったものは、静かな光となる。

振り返れば何もなく、けれど確かに、そこに在ったという手ざわりだけが、胸の奥で脈を打つ。

名も、形も、定かではないのに、なぜだろうか、その記憶だけが、今もなお温かい。

風が止み、光が揺れ、また別の色が、生まれようとしている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。