泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風がまだ眠っていた時間、白は音もなくすべてを覆い、かすかな記憶だけが地上に残された。

遥か遠くから響くような、誰のものとも知れぬ足音。
それは雪の粒よりも静かに、空と大地のあいだを漂っていた。

名もない光が、低い空をゆっくりと撫でる。
その指先に導かれるようにして、影の細道ははじまる。

沈黙に抱かれた石の肌。
霧に沈む枝々の影。
時間さえも深く息を潜めて、ただ、そこにあった。


0345 時の扉を開く幻想の記憶宮

雪が、ただ音もなく降っていた。

それは遠い時間の澱が空から舞い戻ってきたようで、肌に触れた瞬間、すべての記憶が白に溶けた。

風は息をひそめ、世界の縁を淡くなぞるだけの存在となる。

 

足元で、凍てついた小径が月の光を拾い、かすかな銀の線を描いている。

苔むした石段のくぼみに、数日前の雪が残っていた。

湿り気を帯びた土と古い樹皮の匂いが、呼吸の奥でほのかに揺れる。

空はまだ深い藍の底に沈み、夜明けの気配さえ見えなかった。

 

肩を覆う布の下、骨に沁み入る寒さがあった。

けれど、それは拒まれるものではなく、むしろ遠いどこかからの手紙のように、胸の奥で静かに受け止められる温度だった。

 

森の静けさには、声なきものたちの囁きがある。

遠くで、枝の先から一粒の氷が落ちる音がした。

乾いた音でも、鋭い音でもなく、ただひとつの透明な記憶のように、時を割って落ちていった。

 

道はなだらかにうねりながら、白の中に沈んでゆく。

ひとつひとつの足音が、何かを遡っているようだった。

土の下、さらにその奥へと降りていくような感覚。

足裏に伝わる凹凸が、まるで誰かが残した遠い手紙の筆跡のように思えた。

 

両脇には、背の高い構造が、まるで記憶を背負ったように佇んでいた。

冬の重さを受け止めたその面は、雪の衣を纏いながら、なお沈黙を守っている。

扉のように思えたその輪郭には、誰のものとも知れぬ指先の痕跡があった。

 

かすかに開いた隙間から、淡い光が漏れていた。

それは炎ではなく、太陽でもない、過去と未来の狭間にのみ存在する、誰かの記憶の断片のような光だった。

足を止める。空気が、ほんのわずか震えたように思えた。

 

外の冷気が和らぎ、代わりに胸の内側に広がっていく静けさがあった。

音はすべて消えていた。

風も、葉も、雪も、ただ時の外に存在していた。

 

そこは、忘れられた声の貯蔵庫のような場所だった。

天井は高く、古い木の梁が幾重にも交差していた。

すべてが手の届かぬ高さにありながら、不思議と息苦しさはなかった。

むしろ、その奥行きが、こちらの呼吸に静けさを与えるようだった。

 

床は石。冷たさの中に、どこか安堵を覚える重さがあった。

ゆっくりと指を這わせると、浅い溝がいくつも刻まれていた。

文字ではなく、形でもなく、ただ思いのようなものがその石に沈んでいた。

 

空間の中心に、小さな円卓があった。

その上に置かれた器には、白い花びらが沈んでいた。

半ば透けたその花びらは、誰かの夢の名残のように見えた。

水面に浮かぶ光が、天井にゆらめきを描いていた。

 

思わず、指先をその水へと伸ばす。

冷たさは、過去に触れるような感覚だった。

けれど痛みはなく、ただ微かに何かが還ってきた。

忘れかけていた色、途切れた旋律、やわらかい手の温もり。

 

光の射す方へ振り向く。

背後には、かつて扉であったものが、静かに閉じていた。

外の白さと、ここにある深い影のあいだで、時が撓んでいるのを感じる。

 

ここに来た理由は、どこにも書かれていなかった。

けれど、今この場所に立っていることが、何かをひとつほどいていく気配を孕んでいた。

 

壁面には淡い文様が刻まれていた。

それは模様とも絵とも言い切れず、ただ風の通り道をなぞるように、木の葉が舞い、星々が螺旋を描くような軌跡が、石の肌に沈んでいた。

触れれば消えてしまいそうなそれらは、まるで誰かの夢の中で何度も繰り返された風景の残響のようだった。

 

天井の高みに灯る光の輪郭が、ゆっくりと色を変えていく。

藍、銀、灰、そしてまた藍へ。

時間の感覚はぼやけて、歩いてきた距離すらも霞の中に沈む。

足元の雪の粒が、ここへ入ったときよりも大きく、湿り気を帯びていた。

つまり、夜明けが近いということだった。

 

ふいに、遠くで水の滴る音がした。

その音は、この記憶の宮のさらに奥に通じる細い廊下の向こうから聞こえていた。

歩を進めると、空気がわずかに重たくなる。

湿り気を帯びた壁が近づき、苔と時の香りが濃くなっていった。

 

扉のない入口があり、そこをくぐると、空間はふたたび開ける。

内壁一面に薄い氷の結晶が貼りついていて、わずかな光に反射し、まるで夜空の星のように瞬いていた。

静謐のなか、身体の熱さえも、ここでは音になる気がした。

 

奥に、ひとつの長椅子があった。

その上には布が一枚敷かれ、誰かが置いたと思しき木の箱が静かに置かれていた。

開けるための仕掛けは見当たらなかったが、ふと手を添えると、かすかに蓋が軋んで、自然に開いた。

 

中には巻物が一本。

古びた紙に描かれていたのは、風景だった。

けれど、どこでもない場所の絵。

空は深く、地は波のようにうねり、その中央に、ひとつの塔のようなものが立っていた。

周囲には名もなき花々。

誰かがそこに居たような気配が、画面の空気に染みていた。

 

描かれた光の加減や線の揺らぎは、過去ではなく、予兆のように思えた。

これから出会うはずの何か。

まだ届いていないはずの感情が、この絵の中で待っているようだった。

 

巻物を戻し、蓋を閉じる。

座面に手を置き、冷たい木の質感を感じながら、ゆっくりと立ち上がる。

さっきまで背後にあった氷の文様が、光の角度でかすかに消えかけていた。

 

この記憶の宮は、雪が深く降る季節にだけ開くのだろう。

冷たさのなかにしか残せないものがあり、凍ることでしか守られない想いがある。

 

外へ出ると、白の世界はすでに夜明けの気配に揺れていた。

空はまだ低く、けれど東の端にごくかすかな朱が滲んでいた。

雪の粒が光を受けて、色を持ちはじめていた。

 

歩き出す足の下で、雪がわずかに軋む。

その音は、小さな音楽だった。

いましがた記憶の奥で聞いた、誰かの絵の中の風が、ここへ繋がっている気がした。

 

振り返ると、記憶宮の扉はもう見えなかった。

けれど、そこに在ったことだけは、指の先、足の裏、呼吸の奥に確かに残っていた。

雪の光がやわらかく照らす先へ、白の中に小さな影を落としながら、静かに歩き出した。

 

空は広がり、風は生まれ、光は響きとなって、遠くへ向かっていった。




影は白に溶け、声なきものたちはふたたび静けさの奥へと還っていく。

残されたのは、雪を踏む音と、肌の奥にしみるような微かな温もり。

手のひらに触れたあの冷たさも、瞼の裏に焼きついた光のかけらも、やがては、風の粒となって宙に散るのだろう。

何も語らず、何も記さず、それでも確かにそこにあったものが、歩いたあとの空気に、静かに、滲んでいた。
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