泡沫紀行   作:みどりのかけら

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足元に伸びる道は、最初からそこにあったのではなく、風が草を押し分け、陽の角度が影を落とし、音の消えた午後に、ふと浮かびあがっただけだった。

誰の手にも触れず、名を持たず、ただ、季節がそこへ導いた。

すすきの穂が銀の舟のように揺れている。
風は、遠くから吹いてきた。
思い出すよりも前に、忘れていた場所のように。


0355 風の銀原を越えて眠る古の牙

すすきが風に溶けていた。

銀の穂が、遠い空のひだまりを受け、まるで音のない水面のように震えていた。

一歩ごとに、足元の草がざわりと声を立て、乾いた音をひとつ、静けさのなかに置いていく。

 

山の肌は色褪せた黄に縁どられ、古い時間の名残をまとうように、どこまでも静かだった。

すすき原は、ただその中心に、名もない風を通すためだけに広がっていた。

身体を包むのは、湿り気を含まない透明な風。触れるたび、皮膚から余計なものがそぎ落とされていく。

 

踏みしめた地は、かすかに柔らかく、かつて誰かが歩いた記憶のように沈み、また戻った。

空は低く、淡い雲が網のようにかかっている。

けれど、その曖昧な光が、すすきの銀をやさしく撫でていた。

 

遠くに、禿げた尾根がひとすじ、空との境を曖昧にしながら横たわっていた。

稜線は崩れかけた古の牙のように鈍く、だが確かな存在として、その向こう側を指し示していた。

そこに何があるのかは知らない。

ただ、越えてゆかねばならないという感覚だけが、足を導いた。

 

すすきの海を進むたび、身体はゆっくりと沈んでいく。

風の音、草の擦れ合う音、遠くからかすかに届く鳥の羽音。

いずれも、どこか別の時の中で鳴っているようだった。

 

喉の奥に乾いた空気が入り込み、胸の奥で擦れる。

息は細く、途切れがちになるが、不思議と苦しくはなかった。

むしろ、あらゆる音が、あらゆる匂いが、いつもよりずっと鮮明に感じられる。

 

右の耳元で、すすきがふいに強く揺れた。

風の向きが変わったのだと知ったのは、そのあとの数秒だった。

同じ景色が、ほんのわずかに違って見えた。

 

湿った土の匂い。かすかに焦げたような葉の香り。

そのすべてが、遥か以前に感じたことのある感覚に似ていて、言葉にならない痛みを残した。

 

道はない。ただ、すすきがわずかに開けたところを選び、足を運んでいく。

ときおり、膝に触れる草の冷たさが、皮膚の感覚を呼び覚ます。

陽の光は雲の切れ間から淡く降りてきて、白銀の波をほんの少しだけ温かく染めていた。

 

ある場所で立ち止まる。

理由はない。

ただ、そこに時間の綻びのようなものを感じたから。

 

耳を澄ますと、風の音に混じって、何かが土の下で眠っている気配がした。

眠るものは、かつての声か、それとも骨か。

 

すすきの穂先が、風に揺られて額に触れる。

その冷たさとやわらかさに、ふと、ここではないどこかを思い出しかけて、思いとどまる。

 

もう少しだけ、この銀の原を歩いていたい。

もう少しだけ、この風の中で、自分の輪郭が曖昧になるのを許していたい。

 

目を閉じると、音が遠ざかる。

そして次の瞬間、風の奥から、名のない記憶がそっと揺れながら寄ってきた。

 

足を進めるたびに、足首から下が土の深みに引かれていく。

かつて雨が多く降ったのか、すすきの根元にはまだ水を含んだ感触が残っていた。

湿り気は冷えを帯びて、皮膚の奥へと染みていく。

だがその冷たさは、不思議と嫌ではなかった。

むしろ、歩いているということを確かに思い出させる。

 

銀の穂は、風の流れに従いながらも、ときに逆らうようにそっと揺れ返す。

そのわずかな抵抗が、生きていることの証しのように思えた。

草は無言でありながら、確かにそこに在り、空気とともに呼吸している。

 

何度も小さな尾根を越えた。

高ぶるわけではなく、ただ静かに、膝から下の重さを感じながら。

途中、陽の光が差し込み、すすきの影が無数の槍のように地に落ちていた。

影のほうが濃く、触れれば切れそうなほど細かった。

 

一羽の鳥が、声もなく高く舞い上がるのが見えた。

小さな羽ばたきが空気を震わせ、その波紋が遠い稜線に吸い込まれていく。

鳥の軌跡を目で追いながら、胸の奥に小さな焦がれのようなものが芽吹いた。

それはどこへともなく向かいたいという衝動ではなく、ただ在ることの静かな肯定に近かった。

 

草の中に、わずかに崩れかけた岩が積まれているのを見つけた。

誰の手によるものか、今ではもう分からない。

苔がその上に淡く広がり、小さな命が脈打っていた。

石と草と、風のなかで朽ちゆくものたちの声が、そこにはあった。

 

指先でその岩をそっとなぞる。

ざらつき、ひび割れ、そしてかすかな温度。

それは遠い昔の夜の焚き火に似た、ぬくもりだった。

 

しばらく、その場に佇んでいた。

すすきが揺れ、陽が角度を変える。

光はもう真上にはなく、やや傾いた場所から斜めに射していた。

風は弱まり、あたりの音はぐっと少なくなっていた。

 

やがて、ふたたび歩き出す。

歩くことが、この景色のなかでは祈りに似ていた。

音も言葉も持たぬまま、ただ草の波を押し分け、進む。

 

尾根が近づくにつれて、すすきの密度は少しずつ減り、その代わりに低い灌木や、風に削られた赤茶けた地肌が現れた。

足元の草の感触は柔らかさからざらつきへと変わり、土は乾き、靴裏にひっかかるような粒子をまといはじめる。

 

登るというより、寄り添うように斜面をなぞった。

踏みしめる音が変わるたび、身体が違う時間へと潜っていくようだった。

風は上からではなく、地面の奥から這い上がってくるように感じられる。

それはもう草の香りではなく、岩と、朽ちた根と、太古の塵を含んだ匂いだった。

 

ついに尾根に立ったとき、風はもう何も語らなかった。

すすきも消え、ただ滑らかな地平と、まだ青さの残る空があるだけだった。

 

振り返れば、銀の原が雲の隙間にきらめき、まるで遠い昔に置き忘れた夢のように、静かにそこにあった。

 

音はなかった。

ただ、胸の奥にかすかな脈のような震えが残っていた。

 

その震えが何に由来するものかは、まだ分からなかった。

けれど、これから越えてゆく場所に、眠るものの気配が確かにあった。

 

そして、それに触れたいと、どこかで願っている自分がいた。




陽は斜めに傾き、影は静かに伸びていく。
すすきの原は、何ひとつ語らず、けれど確かに何かを残していた。

歩いてきた道は、もう振り返っても見えない。
風がそれを均し、草がすべてを呑み込んだ。

けれども、足の裏にはまだ、そこを越えてきた確かな感触が、かすかに残っていた。

静けさの中で、ひとすじの光が、ふたたび銀の穂に触れた。

それだけのことだった。
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