誰の手にも触れず、名を持たず、ただ、季節がそこへ導いた。
すすきの穂が銀の舟のように揺れている。
風は、遠くから吹いてきた。
思い出すよりも前に、忘れていた場所のように。
すすきが風に溶けていた。
銀の穂が、遠い空のひだまりを受け、まるで音のない水面のように震えていた。
一歩ごとに、足元の草がざわりと声を立て、乾いた音をひとつ、静けさのなかに置いていく。
山の肌は色褪せた黄に縁どられ、古い時間の名残をまとうように、どこまでも静かだった。
すすき原は、ただその中心に、名もない風を通すためだけに広がっていた。
身体を包むのは、湿り気を含まない透明な風。触れるたび、皮膚から余計なものがそぎ落とされていく。
踏みしめた地は、かすかに柔らかく、かつて誰かが歩いた記憶のように沈み、また戻った。
空は低く、淡い雲が網のようにかかっている。
けれど、その曖昧な光が、すすきの銀をやさしく撫でていた。
遠くに、禿げた尾根がひとすじ、空との境を曖昧にしながら横たわっていた。
稜線は崩れかけた古の牙のように鈍く、だが確かな存在として、その向こう側を指し示していた。
そこに何があるのかは知らない。
ただ、越えてゆかねばならないという感覚だけが、足を導いた。
すすきの海を進むたび、身体はゆっくりと沈んでいく。
風の音、草の擦れ合う音、遠くからかすかに届く鳥の羽音。
いずれも、どこか別の時の中で鳴っているようだった。
喉の奥に乾いた空気が入り込み、胸の奥で擦れる。
息は細く、途切れがちになるが、不思議と苦しくはなかった。
むしろ、あらゆる音が、あらゆる匂いが、いつもよりずっと鮮明に感じられる。
右の耳元で、すすきがふいに強く揺れた。
風の向きが変わったのだと知ったのは、そのあとの数秒だった。
同じ景色が、ほんのわずかに違って見えた。
湿った土の匂い。かすかに焦げたような葉の香り。
そのすべてが、遥か以前に感じたことのある感覚に似ていて、言葉にならない痛みを残した。
道はない。ただ、すすきがわずかに開けたところを選び、足を運んでいく。
ときおり、膝に触れる草の冷たさが、皮膚の感覚を呼び覚ます。
陽の光は雲の切れ間から淡く降りてきて、白銀の波をほんの少しだけ温かく染めていた。
ある場所で立ち止まる。
理由はない。
ただ、そこに時間の綻びのようなものを感じたから。
耳を澄ますと、風の音に混じって、何かが土の下で眠っている気配がした。
眠るものは、かつての声か、それとも骨か。
すすきの穂先が、風に揺られて額に触れる。
その冷たさとやわらかさに、ふと、ここではないどこかを思い出しかけて、思いとどまる。
もう少しだけ、この銀の原を歩いていたい。
もう少しだけ、この風の中で、自分の輪郭が曖昧になるのを許していたい。
目を閉じると、音が遠ざかる。
そして次の瞬間、風の奥から、名のない記憶がそっと揺れながら寄ってきた。
足を進めるたびに、足首から下が土の深みに引かれていく。
かつて雨が多く降ったのか、すすきの根元にはまだ水を含んだ感触が残っていた。
湿り気は冷えを帯びて、皮膚の奥へと染みていく。
だがその冷たさは、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、歩いているということを確かに思い出させる。
銀の穂は、風の流れに従いながらも、ときに逆らうようにそっと揺れ返す。
そのわずかな抵抗が、生きていることの証しのように思えた。
草は無言でありながら、確かにそこに在り、空気とともに呼吸している。
何度も小さな尾根を越えた。
高ぶるわけではなく、ただ静かに、膝から下の重さを感じながら。
途中、陽の光が差し込み、すすきの影が無数の槍のように地に落ちていた。
影のほうが濃く、触れれば切れそうなほど細かった。
一羽の鳥が、声もなく高く舞い上がるのが見えた。
小さな羽ばたきが空気を震わせ、その波紋が遠い稜線に吸い込まれていく。
鳥の軌跡を目で追いながら、胸の奥に小さな焦がれのようなものが芽吹いた。
それはどこへともなく向かいたいという衝動ではなく、ただ在ることの静かな肯定に近かった。
草の中に、わずかに崩れかけた岩が積まれているのを見つけた。
誰の手によるものか、今ではもう分からない。
苔がその上に淡く広がり、小さな命が脈打っていた。
石と草と、風のなかで朽ちゆくものたちの声が、そこにはあった。
指先でその岩をそっとなぞる。
ざらつき、ひび割れ、そしてかすかな温度。
それは遠い昔の夜の焚き火に似た、ぬくもりだった。
しばらく、その場に佇んでいた。
すすきが揺れ、陽が角度を変える。
光はもう真上にはなく、やや傾いた場所から斜めに射していた。
風は弱まり、あたりの音はぐっと少なくなっていた。
やがて、ふたたび歩き出す。
歩くことが、この景色のなかでは祈りに似ていた。
音も言葉も持たぬまま、ただ草の波を押し分け、進む。
尾根が近づくにつれて、すすきの密度は少しずつ減り、その代わりに低い灌木や、風に削られた赤茶けた地肌が現れた。
足元の草の感触は柔らかさからざらつきへと変わり、土は乾き、靴裏にひっかかるような粒子をまといはじめる。
登るというより、寄り添うように斜面をなぞった。
踏みしめる音が変わるたび、身体が違う時間へと潜っていくようだった。
風は上からではなく、地面の奥から這い上がってくるように感じられる。
それはもう草の香りではなく、岩と、朽ちた根と、太古の塵を含んだ匂いだった。
ついに尾根に立ったとき、風はもう何も語らなかった。
すすきも消え、ただ滑らかな地平と、まだ青さの残る空があるだけだった。
振り返れば、銀の原が雲の隙間にきらめき、まるで遠い昔に置き忘れた夢のように、静かにそこにあった。
音はなかった。
ただ、胸の奥にかすかな脈のような震えが残っていた。
その震えが何に由来するものかは、まだ分からなかった。
けれど、これから越えてゆく場所に、眠るものの気配が確かにあった。
そして、それに触れたいと、どこかで願っている自分がいた。
陽は斜めに傾き、影は静かに伸びていく。
すすきの原は、何ひとつ語らず、けれど確かに何かを残していた。
歩いてきた道は、もう振り返っても見えない。
風がそれを均し、草がすべてを呑み込んだ。
けれども、足の裏にはまだ、そこを越えてきた確かな感触が、かすかに残っていた。
静けさの中で、ひとすじの光が、ふたたび銀の穂に触れた。
それだけのことだった。