泡沫紀行   作:みどりのかけら

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潮の香りが、土の奥からも滲み出していた。
風はまだ眠っていて、雲だけがゆっくりと呼吸している。

湿った葉に落ちた朝の光は、消えかけた夢の記憶のように儚く、ひとつ踏み出すごとに、時間が静かに反転していく気配があった。

草の先端に触れた露が、指先に冷たく灯る。
声も音も届かぬその場所で、ただひとつ風だけが、かすかに道を教えていた。


0365 黒潮を越えし銀翼の船

波の音が、低く、長く、地の底から湧きあがるように響いていた。

風は熱を帯び、肌の上を焼けるように撫でていく。

海に近づくほどに、足元の土は細かな塩を含み、砂の粒は指の間に入り込みながら、どこかで既に忘れかけた記憶を目覚めさせようとしていた。

 

空はあまりにも広く、そして、白すぎた。

雲は流れず、ただそこにある。

裂け目のように光が差し、金の糸が断ち切られたように海面へと降り注いでいた。

 

遠くに、黒ずんだ板の骨のようなものが立ち並んでいる。

風化した木の柱。

無数の年月を受けてなお立ち尽くすその影は、かつての喧騒と約束の痕跡を、静かに引き受けているようだった。

 

足音を立てぬように歩くたび、草がしなり、花がゆれ、海の匂いが濃くなった。

潮の満ち引きと共に変化する湿り気が、衣に沁み、喉の奥にまで届いてくる。

風の合間に聴こえたのは、何かが軋む音。

それは、骨のような木の残骸の奥から響いていた。

 

その先に、ひとつの影があった。

 

ひときわ高く、そして、あまりにも静かに。

帆はとうに失われ、甲板は沈み、かつて空と海をつなげた翼の名残が、打ち捨てられた記憶のように佇んでいた。

その形はどこか鳥のようで、どこか舟のようで、どこか、人の祈りに似ていた。

 

かつて、それは、風に乗って遠くを目指したのだろう。

熱と潮とを頼りに、まだ誰も知らぬ大気の境へと。

帰る場所を思いながら、それでも旅立ったのだろう。

 

木の肌に指を這わせる。

深く刻まれた線の数々は、文字ではなかった。

だが、読むことはできた。

それは叫びであり、祈りであり、誓いであり、そして、風の名であった。

 

ふと、足元に細かな貝殻が砕けていた。

光を受けて、無数の銀の粒が跳ねる。

まるであの舟が、いまだ空を滑っているように、舞い上がる気配を残して。

 

奥に進むと、開けた空間に出た。

そこには、かつての風を受けるための広場のような場所があり、周囲を囲うように、背の低い石が並べられていた。

ひとつひとつが不揃いで、風に削られ、丸みを帯びている。

 

その中心に、ぽつりとひとつ、異なるものがあった。

 

金属のようで、しかし朽ちかけている。

何かの留め具か、それとも装飾か。

そこには小さな円が彫られていて、その内側に、微かに青く染まる痕があった。

 

触れると、冷たさよりも先に、風の鼓動が伝わってきた。

この地が、かつての約束の地であったことを、何も語らずとも知ることができた。

 

しばらく目を閉じ、耳を澄ませる。

波の音、風の通り、草の擦れる気配。

そして、どこか遥か遠く、子どもが笑うような声。

それが幻であっても、確かにこの地には、響きが残っていた。

 

歩き続けるうち、影が伸び始めた。

西の空に、光が沈みかけ、海の表面が黄金に染まり始める。

 

舟の骨は、その光の中で、ふたたび翼のように見えた。

風は穏やかで、潮の香りはなおも濃く、しかし、その中にかすかな甘さが混じっていた。

まるで、遠い季節の果実が、どこかで熟れはじめたかのように。

 

足元の草が、色を深めていた。

夕暮れの光はゆっくりと斜めに傾き、影という影が柔らかく長く、地を這って伸びてゆく。

風は弱まり、潮の音が少し遠のく。

 

空の端から、群青の気配が滲み出していた。

空気が冷えはじめ、熱を帯びていた衣の内側に、ひと筋の涼しさが忍び込む。

 

そのとき、ひとつの羽根が落ちていた。

海鳥のものか、それとも風の名残か。

白く、細く、毛先にわずかな金の色を含んでいる。

それを拾い上げると、不思議と手のひらにぴたりと馴染んだ。

 

先に見えるのは、崖の上にひらけた台地だった。

草は風にささやきながら揺れ、夜の気配をまだ拒むように、あたりは深い青と金に満ちていた。

 

その台地に立ったとき、海が、空が、そして舟の骨までもが、ひとつの広がる光景に溶け合っていた。

 

かつてここを、銀の翼を広げた舟が越えていった。

風を帆に宿し、見知らぬ大地へと滑るように。

それは誰かの意志を運ぶためであったのか、それともただ、海の呼び声に応えるためであったのか。

 

答えはない。

けれど、波と風と残された影が、いまだそれを語ろうとしている。

 

遠く、夕陽のきわに、一瞬だけ白い光が弾けた。

海面をかすかに跳ねるようにして、それは飛んだ。

魚かもしれない。

けれどその動きには、どこか意志のようなものが宿っていた。

まるで、見送られずに旅立ったものが、ふたたび還る気配のように。

 

手にした羽根が、かすかに震えていた。

風は、もはや吹いていない。

それでも、その羽根は確かに、空の気配に呼応していた。

 

草の上に身をゆだねる。

背中に感じる大地の温もりは、夕陽の余熱に満ちていて、身体の輪郭が、少しずつ風景にとけていく。

 

目を閉じると、遠くの太鼓の音が聞こえた気がした。

乾いた音、低く沈む音、そして、間の空白がやけに美しい。

誰かが舟を見送ったそのときの音だとしたら、あまりに静かで、あまりに優しい響きだった。

 

瞼の裏に、青い火のような光が瞬いた。

潮の匂いが、やわらかに、鼻先を撫でる。

今この地に立っていることが、過去と未来の狭間に身を置くような、不思議な浮遊感をもたらしていた。

 

再び目を開くと、夜がはじまりかけていた。

群青が濃く、深くなり、舟の骨は次第に見えなくなっていく。

それでも、そこにあることだけはわかる。

それが、灯りのように感じられた。

 

指先にはまだ羽根の感触が残っていた。

かつて風をつかんだ翼の気配が、静かに、静かに、掌から遠ざかっていった。

 

歩き出す。

 

背後には、もう舟の姿はなかった。

しかし、耳には風の音が残っていた。

それはかつて、黒潮を越えし銀翼のものたちが、夜の海を渡るために選んだ音だった。

 

そしてその響きは、遠いどこかで、まだ消えずにいる。

いつかまた誰かが、それを聴き、そして歩き出すだろう。

果ての光をめざして。

 

ただ、それだけでよかった。




夜の気配がすでに地面にしみこみ、空の奥は静かに深さを増していた。
どこかで水がきらめき、ひとすじの風が名残のように頬をなでる。

残された影も、失われた音も、すべてが大地の懐に吸い込まれていく。
けれどそこには、消えることのない温もりがあった。

踏みしめた土の中に、いまも眠る光がある。
名を持たず、形を持たず、それでも確かに息づいているものが。

それはやがて、またどこかで風に還るだろう。
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