小さな岩の影に溜まる冷たさが、夜の名残を抱きしめていた。
空は目覚めの直前、名もない光の層をいくつも重ねている。
歩みが触れるたび、湿った土は過去を語らず、ただ静かに沈んでいった。
息をひそめるように佇む空の近くで、時間もまた、輪郭を失いはじめる。
灰白の霧が、朝の尾根をなぞるように流れていった。
まだ陽が山肌に触れきらぬ時刻、空は乳白の水面のように淡く、音なき風が草を撫でていた。
歩を進めるたびに、地に低く伏せた岩が冷たくもやわらかな呼吸を帯びる。
ここはすでに、高さという言葉では足りない領域にある。
黙して佇む岩壁の裂け目から、ひとすじの風が吹き抜けた。
湿った衣のすそをはためかせ、思考の輪郭を削りながら過ぎてゆくその流れは、なにかを告げるでもなく、しかし否応なく心の奥に触れていく。
そこには、声にできぬ記憶のような、名を持たぬ懐かしさがあった。
しばらく登れば、視界はひらけ、
静まりかえった碧の窪みが、まるで天に穿たれた瞳のように現れた。
岸辺には花が咲いていた。
指ほどの大きさの、白くも青くもとれる花弁が、風の度に身をゆらし、まるでこの世界にそっと呼吸を合わせているようだった。
光が水面を渡り、瞬きするように揺らめくたび、そこに何かが映っては、消えていった。
見たことのない獣の影、まだ名付けられていない風のかたち、そして人のような姿。
影の正体を確かめるすべはない。
ただ、確かにここには、
幾度となく訪れ、また去っていった者たちの気配が積もっている。
風が通るたび、それらはかすかに舞い上がり、山の斜面を越えて、また別の空へと還ってゆく。
まるでこの峰が、長き旅の終わりであり始まりであるように。
衣の裾に触れた冷気が、肌の温もりを奪いながら、芯に染みていく。
そして、足元の石が乾いた音をたてたとき、空が不意に開けた。
雲が割れ、黄金に似た陽の粒が落ちてきた。
それはどこか遠くから射された矢のように、まっすぐに、静かに、この地に降り立ってくる。
頬に当たる光はやわらかく、それでいて、心にひびく鈴の音のように凛としていた。
ひとつ、深く息を吸い込む。
陽に温まった空気が、内側の曇りを溶かすように満ちていく。
耳に届くのは、風が草を渡るささやきと、遠い稜線で岩を砕くような音。
目を細めると、遥か下界には無数の尾根と谷が折り重なり、まるで眠る巨獣の背のように静かに鼓動していた。
空の近さを感じるのは、こうして誰の声も届かぬ場所に立つときだけだ。
ひとときの沈黙がすぎ、足を再び、緩やかな坂に向けた。
踏み出すたび、草の間から低木の枝が擦れ、土の匂いが立ち上る。
汗はまだ浮かばず、風だけが肌をかすめていった。
季節の巡りは、山のうえでは地上よりも数歩先をゆく。
けれど、この道にはまだ夏の名残が息づいていた。
葉の裏に残された露、小さな羽音、そして日に焦がされた石の温もり。
そのすべてが、ただそこにあるというだけで、なぜか胸を打つ。
急峻な斜面を越えると、空気がまたひとつ、変わった。
草は膝を隠すほどに背を伸ばし、風は次第に言葉を持たなくなっていった。
ひとつひとつの石が乾いた音を残し、靴裏の感触は、地から伝わる熱と冷たさの狭間で微かに揺れている。
光は高みから降りそそぎ、しかし陰影は深まるばかりだった。
ときおり空にかかる薄墨の雲が、足元の景色を静かに奪ってゆく。
その灰に似た薄明かりのなか、山肌は仄かに蒼く、どこか夢に似ていた。
道とは呼べぬ傾斜に、手をつきながら登る。
苔を踏まぬように指先で石を探し、身体の重さを一つずつ渡していく。
指の腹に刻まれた冷たさが、次第に感覚を引き締める。
風はいつの間にか止んでいた。音のない静寂のなかで、鼓動だけが、わずかな律動として耳に残る。
やがて岩の尾根を越えると、そこには、空があった。
地面ではない、峰でもない、ただ、空があった。
雲が、ひざもとを這うように流れてゆく。
低く垂れこめた雲が、影を引きずるように峰を越え、
その上を、金色の風が駆けていった。陽の粒が幾重にも折れ、眩しさとともに肌を貫いた。
光のなかに立つと、身体が透けてしまいそうだった。
あまりに澄んだ気配のなか、声を発すれば、それはこの世界の輪郭を乱してしまいそうで、ただ立ち尽くすしかなかった。
まるで、ここに許されているのは、存在するということだけのように。
稜線の向こう、雲の切れ間に見えたのは、
緑青色に沈んだ、巨大な窪みだった。
その内側には、しんとした水の気配。
周囲を囲む崖は、無数の風に削られ、いまや祈りのかたちのように立ち並んでいる。
水面は風の指先ひとつで揺れ、光が屈折して、目には見えぬものの輪郭を描いていた。
それはまるで、天が落としたひとしずくの記憶。
ここに触れた風は、地の底の昔話を囁き、
ここを照らす光は、空の奥から届いた名もなき誓いのようだった。
何も語らず、ただ見つめているだけで、
胸の奥に、長く沈んでいた思いがふわりと浮かびあがる。
それは言葉では追いつかないもので、けれど、確かに存在する何かだった。
深い水音が、遠くで、確かに響いた気がした。
そして、風が戻ってきた。
陽の光を孕み、冷たさとやさしさを等しく含んだ風。
その流れは、身体を包み、まるで背中を押すように、
また歩を進めよと、静かに伝えていた。
振り返れば、すでに多くの尾根を越えてきたことがわかる。
ただの風景だったものが、いまはすべて、そこに在った理由を持って立ち尽くしている。
出発の地からは見えなかったものが、ここでは、風の姿さえも見えるほどに透きとおっていた。
歩きはじめる。
この空と、この風と、この光を、身体にまといながら。
雲のうえを駆けるように。
もう誰もいない、はるかな稜線の果てへ。
雲はいつしか、ただの雲ではなくなっていた。
風の通った尾根には、もう言葉を置く場所がない。
目を閉じれば、光がいまだ瞼の奥にとどまり、耳を澄ませば、どこか遠くで岩の欠片が砕ける音がした。
もう振り返ることもなく、けれど、そのすべてが、まだ胸の奥で呼吸している。