風の温度が変わり、空の青がほんのわずかに深くなるだけで、誰にも気づかれずに、何かが始まり、何かが終わっていく。
名も知らぬ小道に踏み入れたとき、光はただ降りていた。
遠くで花が揺れていた。
それだけのことだったのに、心の奥の、眠っていたほうがよかった場所が
ふいに目を覚ますことがある。
たとえばそれは、夏のはじまりだったのかもしれない。
風がまだ冷たいというのに、空の奥ではもう夏が芽吹いているのだと、光のかたちが教えていた。
影の色はうすく、地面をかすめるように伸び、花の上にすら怯えるように降りてくる。
草むらを抜けた先、丘の起伏がゆるやかに広がり、そのすべてが、ひとつの色に染め上げられていた。
金色というにはあまりに熱を孕み、黄色というには深すぎる。
焦がれのような、懐かしさのような、長く見ていると胸の奥に触れるような、不思議な色の渦が、遠くまで波のように続いていた。
風にそよぐたび、ひまわりたちは小さく震え、まるで無数の精たちが舞を続けているかのようだった。
足もとには、土のぬくもりが確かにあった。
乾ききらない、わずかに湿った匂い。
それは、朝に降りた露が、太陽に抱かれて消えてゆく途中の香りだった。
陽が高くなるにつれ、空気は少しずつ熱を増し、背中を押すように押し上げてくる。
けれど息苦しさはない。
むしろ、深く息を吸いたくなるほど、空は澄んでいた。
一本一本の茎が、風に耐えながらもまっすぐ立っている。
葉はわずかに巻き、ところどころに虫が影を潜ませていた。
太陽に向かってひらかれた花弁は、まるで星々のようだった。
太古の空から落ちてきた、燃える花のように、誰かの祈りをそのまま形にしたように見えた。
音はほとんどなかった。
耳を澄ますと、遠くで鳴く鳥の声が、ひとつ。
風がひまわりの海をすり抜ける音が、かすかに肌に触れる。
ときおり、茎と茎とがふれ合い、小さく乾いた音を立てる。
その音が、しんとした空間にしずくのように落ち、時を満たしていく。
歩を進めるたび、陽光の角度がわずかに変わり、花たちの表情も変わってゆく。
笑っているようにも、泣いているようにも見えるその姿は、
ただ風に揺れるだけで、こちらを見ているようで、まるで誰も見ていないようだった。
けれど、何も語らぬその沈黙のなかに、どこか懐かしい響きが宿っていた。
指先でそっと花弁に触れると、想像よりもずっと柔らかく、そして熱を帯びていた。
太陽を浴びた時間の長さだけ、そのひとつひとつに重みがある。
風のなかに混じる花粉の香りが、目の奥をくすぐり、どこか遠くの夏を思い出させる。
丘を登るにつれ、風が少し強くなった。
ひまわりの海がうねり、視界が揺れる。
眩しさに目を細めると、花々のあいだからひとすじの道が浮かび上がってくる。
誰かが歩いたのだろうか。
それとも、風が通るための隙間だったのだろうか。
道は、空へと続いていた。
雲の切れ間、光の芯に向かって、細く、しかし確かに続いていた。
花の間を縫うように、その道を歩く。
土はやわらかく、足裏にふわりと沈む。
虫の羽音が耳をかすめ、どこからか種が風に乗って流れてきた。
手を伸ばしても届かない、その軽やかさに、胸がすっとほどけてゆくようだった。
ふと立ち止まり、振り返ると、歩いてきた道がすべて、金色の波に飲み込まれて消えていた。
あとには何も残らず、ただ風だけが通り過ぎてゆく。
けれど、不思議と心細くはなかった。
すべてがこの空と光のなかに溶け、遠くの空に溶け込んでゆくようだった。
風の高さまで登りきったとき、視界に広がるのは、もはや丘という名の静かな海だった。
幾千幾万のひまわりが、あらゆる方向から太陽を仰ぎ、まるで大地そのものが、光に祈るために形を変えたようだった。
根を張ったまま空を見上げるその姿は、動かぬことの強さと、美しさの証のようにも思えた。
空は深く青く、ひまわりの金と対をなしていた。
色がぶつかるのではなく、互いを映し合うようにそこにあった。
雲はほとんどなく、わずかにたゆたう白い薄布のようなものが、ゆるやかな呼吸のように空を渡っていた。
熱が、肌に染み込む。
汗は出ない。
ただ、ゆっくりと焼かれていくように、皮膚の下がじわじわと温かくなっていく。
衣の背が湿りはじめ、風が吹けば、まるで陽の光が皮膚に寄り添っているような感触がした。
指先が、何度も茎に触れる。そのざらつきと、しっかりとした硬さ。
中空のようでいて、確かな命を通す管のような手触り。
それを伝って、まるで地中の深いところから、夏の声が響いてくるようだった。
風が一段と強くなると、ひまわりたちは一斉にその頭を傾ける。
ざわ、ざわ、と耳には聞こえない声が、胸の奥に押し寄せてくる。
まるで誰かが、そっと語りかけているようだった。
いつからここに咲いているのか、どこへ向かって咲いているのか。
それを知る必要も、語る必要もなかった。
ただ、ここに在るということの静かな強さが、この金色の海のすべてを貫いていた。
空に向けて差し出される無数の手のひら。
それらが、太陽の精を呼んでいるようにも、あるいはすでに降りてきた精たちが、そこに宿っているようにも思えた。
ひとつの花の影に腰をおろし、土に手をつける。
あたたかさと冷たさが混じった、不思議な温度。
指の間を、細かな砂と根の破片がすり抜ける。
その感触が、じわりと胸に沁みた。
遠くで、小さな蝶が花のあいだを舞っている。
その翅は薄く、光に透けて、消え入りそうだった。
けれど、確かにそこにいた。
光の中に溶けながら、あの蝶もまた、ここに生まれ、ここで生きている。
太陽は高く、影は短く、花たちは黙してただ立っている。
そのなかを歩いていると、次第に足音すら聞こえなくなっていった。
まるで、自分の輪郭が、ゆっくりとこの景色に溶けていくかのようだった。
風にさらわれたひとひらの花弁が、すっと手の甲に落ち、また舞い上がっていった。
視界の端で、小さな光の粒が揺れる。
汗か涙か、あるいはそのどちらでもないものが、頬を伝っていたかもしれない。
けれど、拭うことはしなかった。
ここにあるものすべてが、なぜか、それを許してくれる気がした。
丘の端に立つと、遠くの大地が霞んで見えた。
光の粒が空から降り注ぎ、地の果てまで続いているようだった。
金色の花の海に囲まれながら、言葉は何ひとつ浮かばなかった。
ただ、ああ、ここに光が満ちている、と、それだけを、胸のどこか深いところで確かに知っていた。
風が通り過ぎる。
すべてを、優しく撫でていく。
そして、何も変わらないまま、ひまわりたちはまた、太陽のほうを見つめ続けていた。
振り返れば、そこにあった景色が、なぜ胸を打ったのか、もう言葉では追いつけない。
土の匂い、風の手触り、光の重み、咲きそろう花々の静かな眼差し。
どれも確かに触れたのに、今はもう手の中にはない。
けれど、何かが残ったとしたら、それは景色の記憶ではなく、その景色の中に立っていた、自分というひとつの影かもしれない。
ただ、夏の奥深く、どこまでも続く光のなかで、何かが確かに生まれていた。