泡沫紀行   作:みどりのかけら

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柔らかな季節のはじまりには、岩が空を見上げていた。

風はまだ冷たく、けれど、地の奥底から膨らむものがあった。
硬い土の中で、芽がことばを探すように揺れ、石のあいだから静かに湧き出る水音が、遠くにいる鳥の羽ばたきを呼び戻していた。

誰のものでもない足跡が、朝露を割って、ひとつの斜面を越えていく。
木々は名を呼ばず、空は応えず、ただ、その身を春に委ねる音だけが、大地に染みていった。


0374 天空の岩壁に挑む勇者の聖域

春の息吹が谷に満ちていた。

淡く揺れる緑の息は、冷たい岩肌を撫でながら、遥かな高さにまで昇ってゆく

草は斜面に指のように這い、露を抱き、陽を返し、囁きにも似た声で風と語らっていた。

 

足元に広がる地は、ひと塊の光のようだった。

石はすべて目を閉じて夢を見ているかのように静まりかえり、その一つひとつに、かつての雨や陽の記憶が彫り込まれていた。

靴の裏に感じる岩の冷たさは、空の深さと地の古さを連れていた。

 

指をかけたのは、掌よりもわずかに広いくぼみ。

湿りを帯びたそこは、何千の風が舐め、磨きあげた跡だった。

石の凹みは静かに応えてくる。

まるで、そこに触れることでだけ開く秘密があるように。

 

登るごとに、世界は下へと遠ざかっていく。

音が消える。風の音だけが残り、それも、次第に心の内側に染みこむように柔らかくなる。

視界の端に揺れる枝葉は、地から切り離され、空のほうへと優しく引かれている。

背中に感じる重みは、過去の時間を詰めた袋のように感じられた。

今ここにいることだけがすべてであり、それ以外のことは、岩壁の外に落ちていく。

 

陽射しは白く、肌に吸いつくような温度を持っていた。

腕の筋は、まるで長い時間を泳いできた川魚のように脈打ち、息は幾度となく喉の奥で砕けた。

けれど、すぐ傍には、静寂があった。

それは登るという行為の中にだけ現れる、名もない音のない場所だった。

 

一度、指が滑った。

爪先もわずかに浮いた。

その瞬間、世界は垂直に崩れかけたように感じたが、岩のどこかがこちらを受け止め、黙って支えていた。

石に生まれた小さな突起は、まるで古の獣の骨のように白く、冷たく、そして確かだった。

 

息を整える。

それだけで、時間がひとつ、たわんだ。

周囲は変わらぬまま、しかし心だけがわずかに変容していた。

呼吸の間に挟まれた沈黙の形が、先ほどまでとは違って見えた。

 

指を掛けるたび、掌に、古い物語が刻まれてゆく。

岩は語らぬが、無数の旅の名残を抱えていた。

見えぬ者たちの体温や声の気配が、ひっそりと残っている気がした。

風の通り道に、誰かの影がかすかに重なったように思えた。

 

やがて、背後の景色が、眼下に解き放たれてゆく。

木々のざわめき、はるかな水音、鳥のかすかな影、それらすべてが浮遊するように遠ざかり、広がる空のふちに沈んでいった。

 

岩はまだ続いていた。

その表面には、無数の記憶が刻まれている。

削られ、裂かれ、陽に焼かれ、それでもなお屹立する姿には、言葉の届かぬ祈りのようなものが宿っていた。

 

指先は、それに触れるたびに、何かを思い出しているようだった。

けれどそれが何であるかは、もう言葉では届かない。

 

岩肌に張りつく苔は、陽を浴びてわずかに光っていた。

ひとつの呼吸に、一枚の葉が震え、やがてその葉が風を渡ると、どこかで小鳥が羽ばたいた。

高みに近づくにつれて、空の色が変わりはじめる。

深い青は少しずつ澄み、光を孕んでいく。

まるで雲の奥にいる鳥たちの心が、空気に滲んでくるように感じられた。

 

上を見れば、岩はまだ高く、遥かに切り立っていた。

けれど、それはもはや威圧ではなく、ただ静かにそこにあるという事実のようだった。

登る者に試練を課すわけでもなく、導くわけでもない。

ただ、その身をさらして、触れられるのを待っているだけだった。

 

指が届くたびに、何かが溶けていく。

骨の奥にあった固いものが、ひとつずつほどけ、やわらかく地へ還っていくようだった。

岩の冷たさは、すでに苦痛ではなく、むしろ肌を通じて過去と現在を繋ぐ細い管のように思えた。

いくつかの凹凸、途切れた線、乾いた割れ目に指を預けながら、身体は静かに、岩とひとつに溶けていった。

 

頂の気配はまだ遠かった。

けれど、登るごとに、音の密度が変わっていった。

風が鳴らす葉の音が、次第に言葉のように聴こえはじめる。

地にいた頃には決して聞こえなかった響きが、ここにはあった。

たとえば「今ここにいること」や、「名を持たぬ感情の欠片」が、風に紛れて語られていた。

 

掌はすでに傷を帯びていた。

けれどその痛みこそが、生の証のようだった。

痛むということは、まだ感じられているということ。

世界とまだ繋がっているということ。

指先から滲む熱が、岩へと染み込み、やがて風の中に揺れて消えていった。

 

目を閉じると、音が濃くなった。

風の奥に、名もなき鐘のような響きがあった。

それは遥かな過去から届くものであり、また、これから向かう先に鳴るものでもあった。

その音に導かれるように、またひとつ、身体を持ち上げる。

 

ふと、目の前に開けたわずかな平らな面。

そこに立ったとき、あたりの空気が静かに変わった。

風は止まり、雲は動きを忘れたようにゆるやかにたゆたい、陽はまるで時間の縁に引き寄せられたかのように傾いた。

 

下を見れば、世界は遠く、まるで絵のようだった。

けれど、その絵の中に、確かに自分の影があった。

ここまで歩いてきた痕跡が、すべてそこに沈んでいた。

 

石に触れる。

それだけで、すべてが満ちていく。

言葉を持たぬ感情が、心の奥でゆっくりとほどけていく。

登ることは、ただ上を目指すことではない。

登るという行為が、なにか遠い記憶の扉をたたくことに似ていた。

 

振り返らずに進む。

まだ岩は続いている。

だが、足もとに感じるこの静寂は、今までどの地にもなかったものだった。

岩の中に抱かれるような、この感覚。

それはまるで、失われた故郷にふと帰りついたときの、微かな胸の痛みに似ていた。

 

そして、その痛みが愛おしいと感じられた瞬間、空がほんの少し、近づいたように思えた。




風がやんだのは、ほんの短い間のことだった。

空は高く、岩は黙して語らず、だが、その静けさの奥にはまだ触れられていない響きが残っていた。

陽の色はもう午後を過ぎて、影は長く、やわらかく地を撫でていく。
どこかで鳥がひと声を漏らし、それに続くように草がざわめいた。

掌にはまだ、あの石の感触が残っている。
冷たく、確かで、けれどそれは、もう過去になりはじめていた。

沈黙の中、背を向けた岩壁に、わずかに光が滲んでいた。
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