泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風が生まれる場所には、誰の姿もない。
ただ湿った空気が、葦の根もとを撫で、まだ名づけられていない時間が静かに流れている。
どこからか届く羽音は、声にならぬ問いのようで、沈黙の底に、何か大切なものがゆっくりと沈んでゆく。

地を這う霧は、記憶の綻びを縫い合わせるように、草を包み、影をほどき、やがてすべてを同じ色に溶かしてしまう。
ひとつの音も立たない朝。
世界が、まだ完全に目覚めていない微睡みの時。

その静けさのなかで、空と水と葦のあいだにある名もなき隙間が、そっと開いていた。


0375 風の囁きが眠る水の迷宮

薄靄に包まれた湿った空気が、足元に忍び寄る枯葉の気配を優しく攫っていく。

朝まだき、風はほとんど音を持たず、ただ芒の穂先をくすぐるだけで過ぎていった。

 

踏み込んだ足が泥を吸い、小さな音を立てて離れる。

柔らかい地の底に、夏の記憶がまだうっすらと眠っているのがわかる。

冷たさと温もりの境界が、くるぶしのあたりに微かに触れていた。

 

葦は、揺れていた。

高く、しなやかに、群れて、しかし決して同じ方向には倒れぬ。

風に従いながら、風を拒むように、葉擦れの音だけがかすかに響いていた。

その音は、言葉になる寸前の囁きに似ていた。

 

湿原を縫うようにして続く細道は、葦の壁に飲み込まれ、まるで終わりのない迷宮のようだった。

空の色が薄水色から淡灰色へと滑るうちに、渡り鳥の影がひとつ、風の切れ目を滑り落ちていった。

何かを追うようでも、何かから逃れるようでもなく、ただその羽音だけが残される。

 

指先に触れた葦の葉は、想像よりも硬く、縁が乾いていて、小さな切創のような感触を残した。

その感触が、ひどく遠い記憶と重なった。

だが、それが何であったのかは思い出せなかった。

 

冷たい風が再び吹き抜けたとき、葦原の中に広がる微かな凹地に気づく。

そこには薄く水が溜まり、空の色と葦の影が幾重にも交差して沈んでいた。

一歩近づくごとに水面は揺れ、鏡のように映っていた自分の輪郭が、波のひとつでほどけていく。

 

水の匂いがした。

腐葉と土と、そして知らない何かの記憶が混じったような、湿った命のにおい。

呼吸のたびにそれが胸に満ち、身体の内側を静かに湿らせていく。

 

ときおり、どこかで小さな羽音がする。

音は単調ではない。旋律のようで、しかし旋律ではなく、空に解かれた記憶の断片のようだった。

それを聞いているうちに、自分の影すらも風に溶けていくような気がしてくる。

 

足を止めると、空が近づいてきた。

雲は遅く、重く、流れている。

音のない雷のような、深い地鳴りが空の底に潜んでいるように感じた。

 

枯れた芒の合間に、細く赤い実がついていた。

指にとると、すぐに潰れ、掌に小さな色の染みが残る。

それは、ことばにできぬ哀しみに似ていた。

 

土の道はいつしか分岐をくり返し、葦の迷宮はますます深くなる。

水たまりは増え、やがて道なのか水路なのかわからなくなった。

足元には冷たい水がしみ入り、靴の中で音を立てる。

 

見上げた先に、群れ飛ぶ鳥たちの影。

遠ざかりながら、音もなく軌跡だけを描いて消えていく。

その軌跡に、何か懐かしいものがあった。

 

風は、時折、葦原の奥底から吹きあがってくる。

そのたび、全身がどこか知らぬ声で包まれる。

耳ではない場所で聞く風の音があるのだと、初めて知ったような気がした。

 

歩みは遅くなる。

地面は見た目よりも深く沈み、進むたびに足を取られた。

だが引き返す気にはなれない。

この迷宮のどこかに、まだ目にしたことのない景色が眠っているという予感があった。

 

ときおり、遠くから水禽の鳴く声が届く。

その声が空気を震わせて、葦の壁をすり抜け、体の芯にまで染みてくる。

鳥たちは水面をなぞり、滑るように移動していた。

音も立てず、ただ、その存在だけがこの場所の時間を確かなものにしているようだった。

 

冷たい水が、足首からふくらはぎへとじわじわと忍び寄っていた。

身を縮めるようにして、一歩を踏み出す。

濡れた裾の重さが、土の記憶と混ざりあって、過去と現在の境界が曖昧になっていく。

 

光はあった。

しかしそれは、見上げればそこにあるものではなく、水面の中に沈んでいた。

風に揺れる水たまりが、空と葦と自分の影を溶かし込んだあと、

まるで内側から灯るように、淡い光を湛えていた。

 

指先が冷え、鼓動のリズムに合わせて痺れていく。

それでも風に晒された頬だけは熱を帯びていた。

遠く、金色のかけらが風に舞う。

草の種か、あるいは誰かが置いていった夢の名残か。

 

水たまりのひとつに、ひどく澄んだ穴があった。

覗き込むと、その底は深く、想像よりもずっと奥へと続いていた。

底の暗がりに、渡り鳥の羽根が沈んでいた。

まるで長い旅の終わりを、そこに休ませているようだった。

 

立ち尽くしたまま、風を待つ。

ただそれだけのことが、永遠に続いてもいいと思えた。

音のない時間、揺れる光、深く眠る水。

この場所に言葉はいらなかった。

 

やがて、空が滲むように白んでゆく。

それは日の出ではなく、雲の奥に差し込む、まるで記憶のような光だった。

それを浴びたとき、何か小さなものが胸の内側で剥がれ落ちる音がした。

それが悲しみか安らぎかはわからなかった。

 

振り返っても、来た道はもう見えなかった。

すべては葦の揺らぎに溶け、風の中に融けていた。

けれど、進むべき方角だけは、心の奥にうっすらと浮かんでいた。

 

風がまた、遠くからやってくる。

今度は少しだけ暖かかった。

冬の気配はもうすぐそこにあるのに、それはまるで、春の前触れのようだった。

 

水の迷宮を抜けた先に、まだ見ぬ光の都が、いつかきっとあると、思えた。




光は、決してただひとつの形では降りてこない。
風の揺らぎのなかで、時折ふと立ち止まるように、目には見えぬ音が、水面をすべり、草の影を撫でていく。

沈んだ羽根はもう動かないが、その白は、どこか遠くへ向かう祈りのように澄んでいた。

草が枯れても、声を失っても、風だけは、今日もこの場所を通り抜けていく。
何も告げず、何も変えず、ただ通り過ぎていく。

それでも、水は光を映し、葦は空を忘れず、小さな実りは土に還る。

そしてまた、音のない旅が始まる。
名もない景色のなかで、静かに、深く、記憶よりも深いところで。
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