泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風はまだ熱を含んでいた。
けれど、葉の裏側にはすでに秋の気配が宿っていて、空を見上げるたび、少しずつ音が静かになっていくのがわかる。
遠くで何かがふっと消えるような気がして、足がとまる。

土はやわらかく、空気には透明な粒が混じっていた。
耳を澄ますと、あらゆるものが、静かに、だが確かに、響いていた。

すべてが音になり、音がまた、光になって還っていく。


0376 千の音が響く蒸気の迷宮

濃く、ほの暗い靄が谷の底から立ち昇っていた。

肌に触れるその湿りは、ただの霧ではなかった。

湯のような匂いがかすかにまとわりつき、草の間にしずくのような白煙が息づいていた。

石の割れ目から洩れる蒸気は、遠くからは小さな息吹のように見えるが、近づけば熱く、頬をそっと撫でるだけで汗が滲む。

 

木の根がねじれながら土を抱き、くぐもった音で鳴く鳥の声が、時間の奥から届くようにして耳をかすめた。

道と呼べるほどのものはなかったが、踏まれた葉のざわめきが、誰かが先にここを通ったことを知らせてくれる。

水を含んだ土はやわらかく、踏みしめるたびに重みが沈む。

足裏の感触はしっとりとした温もりを伝えて、体の奥にまで染み入るようだった。

 

ときおり、音がした。

不意に、地中の深いところから鳴り響くような、『ごう…』という低い唸り。

あるいは、ぽとん、と間延びした水音。

音の出どころは定かでなく、耳を澄ますほどに境界が溶け、音のない場所にまで響きが満ちていく。

目に見えないものが、足元から、空の奥から、あるいは胸の内から、順に満ちてくる。

 

赤く色づいた葉が、風もないのにひとつ、落ちた。

地に落ちるその一瞬すら、ここでは音を持つ。

はらり、というその儚い気配が、遠い記憶のように肌に触れた。

空は霞み、色を持たぬ光が拡がっていた。

昼なのか、夕暮れなのか、定かではない。

その曖昧な明るさが、むしろ時間を止めているかのようだった。

 

岩肌を伝って流れる細い湯の流れがあった。

掌をそっと差し入れると、ぬるりとした熱が脈打つように触れた。

指先がじわりと開いてゆき、内側から何かが解ける。

湯の音は小さく、だが深い響きを持っていた。

耳を近づけると、まるで誰かが囁いているような、けれど言葉ではない、音だけの言語がそこにあった。

 

やがて、音の迷宮が始まる。

細く折れ曲がった小道の先、音が膨らんでいく。

落ち葉を踏む音、湯が岩を撫でる音、地の底から洩れる蒸気の息。

すべてが、どこかで繋がっている気がした。

音は重なり、混じり、やがて一つの光を成す。

けれどそれは、目では見えない。

目を閉じてこそ浮かぶ、奥深いところの光だ。

 

足を止めた。

 

息を吸うと、栗のような甘い焦げの香りが一瞬鼻をかすめた。

何かが焼かれている。そう思った途端、腹の奥がくっと締まった。

懐かしさのような、ひどく個人的な何かが、音と香りの中に混じっていた。

もう会えない誰かの気配かもしれなかったし、まだ会っていない自分自身かもしれなかった。

 

ふと、傾斜のある岩場の先に、小さな蒸気の噴き出し口が見えた。

まるで、地がささやき声をあげているようだった。

吐息のようにゆっくりと、だが止むことなく続くその音に、じっと耳を澄ませる。

すると、遠く離れた別の場所で、同じ音が呼応していた。

まるで、地の奥底で繋がっているように、音と音が、静かに手を取り合っている。

 

ひとつの湯壺が、森の窪みに抱かれるようにしてあった。

蒸気は濃く、白く、空気そのものを白昼夢に変えていた。

そっと覗くと、湯面に落ち葉が浮かび、それが湯の震えとともに、微かに揺れていた。

触れればすぐに崩れそうな世界の輪郭。

その輪郭のうち側で、すべての音が目覚めていた。

 

湯壺のそばに腰を下ろすと、足元の苔がしっとりと濡れていた。

指でなぞると、ふわりとやわらかく、朝露の残り香が肌に映る。

草の間に眠る石は、陽を吸ってぬるく、手のひらを預けると、自らがゆるやかにほどけていくのがわかる。

音を立てずに風が渡り、小さな葉がかすかに震えた。時間が溶け、輪郭をなくしていく。

 

湯の蒸気は風にのって流れ、枝々の隙間をぬって宙へ昇る。

そのたび、音の調べが変わる。

近くの湯音がかすれ、遠くの鳥声が澄み、足元の石にぽたりと湯が落ちる。

耳に触れるすべてが、静かな管弦のように折り重なり、山の奥深くで眠る誰かの夢を、そっと撫でているかのようだった。

 

歩を進めるごとに、音は質を変えていった。

ざらついた岩壁をかすめる風の音、ふくらみかけた椿の蕾が密かに弾ける気配、水に沈んだ木の枝が、時折ぽきりと音を立てる。

どれもが、耳の奥で弦を弾くような、胸の深いところを静かに揺らす響きだった。

 

道はやがて、岩の裂け目を縫うように続いていた。

蒸気がより濃く、視界は白に溶け、足元だけが確かな世界のようだった。

前に進めば進むほど、音は深く、重層的になる。

まるで、歩みとともに記憶の層を潜っていくように、過去の気配が湯の音に紛れ、ふとした瞬間に懐かしさが胸を突いた。

 

蒸気の奥、ぼんやりと浮かぶ岩棚の上に、小さな湯の流れがあった。

しんとした音の底で、それだけが清らかに響いていた。

手を伸ばし、水面に触れると、熱は思いのほか穏やかで、まるで人肌のようだった。

流れは細く、たしかに、しかしためらうように続いていた。

長く旅をしてきたような流れだった。どこから始まり、どこへ終わるのかはわからない。

それでも流れは音を刻み、確かにそこに在った。

 

蒸気の切れ間から、ふと空が見えた。

灰色の雲がうっすらとかかり、その向こうに、どこか遠くの光が揺れていた。

光は声を持たず、ただ、そこに在るだけだった。

けれどその静けさが、なによりも深く胸に残った。

 

落ち葉が、ひとひら、肩に舞い降りる。

指先でそっとつまみあげると、葉はまだあたたかかった。

あの湯の蒸気を吸い、陽に触れていたのだろう。

指の腹に伝うぬくもりが、あまりに優しく、言葉にするには惜しいほどだった。

何かを抱えていた記憶が、すこしずつほどけていくような感覚があった。

 

歩き続ける道の先、湯の気配はさらに濃くなる。

谷の奥から、響きのようなものが、絶え間なくこだましていた。

音ではない、気配に近い。

それでもたしかに、耳ではないどこかで、それを受け取っていた。

胸の奥にある、名を持たない器官が、音を聞いていた。

 

やがて、ふいに視界が開けた。

小さな蒸気の谷が、いくつも連なり、まるで迷宮のように重なっていた。

音はそこに満ち、あらゆるものが、湯の気配をまとう光の粒となって揺れていた。

立ち止まり、ただ、その中に身を置いた。

 

かすかに指先が震える。

風がそっと撫でていった。

 

胸の奥に溜まっていた澱のような何かが、いつの間にか流れていた。

音の迷宮は、まだ終わらない。

 

その中心に、まだ、光が眠っている気がした。




湯気はやがて薄れ、山の奥からゆるやかに冷気が降りてきた。
草の先で揺れていた音たちは、再び静けさの中に溶け、葉の裏に潜む虫の息だけが、遠い記憶のように残る。

あの時、確かに鳴っていたすべてのものが、もう音をやめてしまったわけではない。
ただ、今は沈黙の中に、その響きを抱いているだけだ。

深く、やわらかく、何も言わずに、すべてを照らすように。
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