けれど、葉の裏側にはすでに秋の気配が宿っていて、空を見上げるたび、少しずつ音が静かになっていくのがわかる。
遠くで何かがふっと消えるような気がして、足がとまる。
土はやわらかく、空気には透明な粒が混じっていた。
耳を澄ますと、あらゆるものが、静かに、だが確かに、響いていた。
すべてが音になり、音がまた、光になって還っていく。
濃く、ほの暗い靄が谷の底から立ち昇っていた。
肌に触れるその湿りは、ただの霧ではなかった。
湯のような匂いがかすかにまとわりつき、草の間にしずくのような白煙が息づいていた。
石の割れ目から洩れる蒸気は、遠くからは小さな息吹のように見えるが、近づけば熱く、頬をそっと撫でるだけで汗が滲む。
木の根がねじれながら土を抱き、くぐもった音で鳴く鳥の声が、時間の奥から届くようにして耳をかすめた。
道と呼べるほどのものはなかったが、踏まれた葉のざわめきが、誰かが先にここを通ったことを知らせてくれる。
水を含んだ土はやわらかく、踏みしめるたびに重みが沈む。
足裏の感触はしっとりとした温もりを伝えて、体の奥にまで染み入るようだった。
ときおり、音がした。
不意に、地中の深いところから鳴り響くような、『ごう…』という低い唸り。
あるいは、ぽとん、と間延びした水音。
音の出どころは定かでなく、耳を澄ますほどに境界が溶け、音のない場所にまで響きが満ちていく。
目に見えないものが、足元から、空の奥から、あるいは胸の内から、順に満ちてくる。
赤く色づいた葉が、風もないのにひとつ、落ちた。
地に落ちるその一瞬すら、ここでは音を持つ。
はらり、というその儚い気配が、遠い記憶のように肌に触れた。
空は霞み、色を持たぬ光が拡がっていた。
昼なのか、夕暮れなのか、定かではない。
その曖昧な明るさが、むしろ時間を止めているかのようだった。
岩肌を伝って流れる細い湯の流れがあった。
掌をそっと差し入れると、ぬるりとした熱が脈打つように触れた。
指先がじわりと開いてゆき、内側から何かが解ける。
湯の音は小さく、だが深い響きを持っていた。
耳を近づけると、まるで誰かが囁いているような、けれど言葉ではない、音だけの言語がそこにあった。
やがて、音の迷宮が始まる。
細く折れ曲がった小道の先、音が膨らんでいく。
落ち葉を踏む音、湯が岩を撫でる音、地の底から洩れる蒸気の息。
すべてが、どこかで繋がっている気がした。
音は重なり、混じり、やがて一つの光を成す。
けれどそれは、目では見えない。
目を閉じてこそ浮かぶ、奥深いところの光だ。
足を止めた。
息を吸うと、栗のような甘い焦げの香りが一瞬鼻をかすめた。
何かが焼かれている。そう思った途端、腹の奥がくっと締まった。
懐かしさのような、ひどく個人的な何かが、音と香りの中に混じっていた。
もう会えない誰かの気配かもしれなかったし、まだ会っていない自分自身かもしれなかった。
ふと、傾斜のある岩場の先に、小さな蒸気の噴き出し口が見えた。
まるで、地がささやき声をあげているようだった。
吐息のようにゆっくりと、だが止むことなく続くその音に、じっと耳を澄ませる。
すると、遠く離れた別の場所で、同じ音が呼応していた。
まるで、地の奥底で繋がっているように、音と音が、静かに手を取り合っている。
ひとつの湯壺が、森の窪みに抱かれるようにしてあった。
蒸気は濃く、白く、空気そのものを白昼夢に変えていた。
そっと覗くと、湯面に落ち葉が浮かび、それが湯の震えとともに、微かに揺れていた。
触れればすぐに崩れそうな世界の輪郭。
その輪郭のうち側で、すべての音が目覚めていた。
湯壺のそばに腰を下ろすと、足元の苔がしっとりと濡れていた。
指でなぞると、ふわりとやわらかく、朝露の残り香が肌に映る。
草の間に眠る石は、陽を吸ってぬるく、手のひらを預けると、自らがゆるやかにほどけていくのがわかる。
音を立てずに風が渡り、小さな葉がかすかに震えた。時間が溶け、輪郭をなくしていく。
湯の蒸気は風にのって流れ、枝々の隙間をぬって宙へ昇る。
そのたび、音の調べが変わる。
近くの湯音がかすれ、遠くの鳥声が澄み、足元の石にぽたりと湯が落ちる。
耳に触れるすべてが、静かな管弦のように折り重なり、山の奥深くで眠る誰かの夢を、そっと撫でているかのようだった。
歩を進めるごとに、音は質を変えていった。
ざらついた岩壁をかすめる風の音、ふくらみかけた椿の蕾が密かに弾ける気配、水に沈んだ木の枝が、時折ぽきりと音を立てる。
どれもが、耳の奥で弦を弾くような、胸の深いところを静かに揺らす響きだった。
道はやがて、岩の裂け目を縫うように続いていた。
蒸気がより濃く、視界は白に溶け、足元だけが確かな世界のようだった。
前に進めば進むほど、音は深く、重層的になる。
まるで、歩みとともに記憶の層を潜っていくように、過去の気配が湯の音に紛れ、ふとした瞬間に懐かしさが胸を突いた。
蒸気の奥、ぼんやりと浮かぶ岩棚の上に、小さな湯の流れがあった。
しんとした音の底で、それだけが清らかに響いていた。
手を伸ばし、水面に触れると、熱は思いのほか穏やかで、まるで人肌のようだった。
流れは細く、たしかに、しかしためらうように続いていた。
長く旅をしてきたような流れだった。どこから始まり、どこへ終わるのかはわからない。
それでも流れは音を刻み、確かにそこに在った。
蒸気の切れ間から、ふと空が見えた。
灰色の雲がうっすらとかかり、その向こうに、どこか遠くの光が揺れていた。
光は声を持たず、ただ、そこに在るだけだった。
けれどその静けさが、なによりも深く胸に残った。
落ち葉が、ひとひら、肩に舞い降りる。
指先でそっとつまみあげると、葉はまだあたたかかった。
あの湯の蒸気を吸い、陽に触れていたのだろう。
指の腹に伝うぬくもりが、あまりに優しく、言葉にするには惜しいほどだった。
何かを抱えていた記憶が、すこしずつほどけていくような感覚があった。
歩き続ける道の先、湯の気配はさらに濃くなる。
谷の奥から、響きのようなものが、絶え間なくこだましていた。
音ではない、気配に近い。
それでもたしかに、耳ではないどこかで、それを受け取っていた。
胸の奥にある、名を持たない器官が、音を聞いていた。
やがて、ふいに視界が開けた。
小さな蒸気の谷が、いくつも連なり、まるで迷宮のように重なっていた。
音はそこに満ち、あらゆるものが、湯の気配をまとう光の粒となって揺れていた。
立ち止まり、ただ、その中に身を置いた。
かすかに指先が震える。
風がそっと撫でていった。
胸の奥に溜まっていた澱のような何かが、いつの間にか流れていた。
音の迷宮は、まだ終わらない。
その中心に、まだ、光が眠っている気がした。
湯気はやがて薄れ、山の奥からゆるやかに冷気が降りてきた。
草の先で揺れていた音たちは、再び静けさの中に溶け、葉の裏に潜む虫の息だけが、遠い記憶のように残る。
あの時、確かに鳴っていたすべてのものが、もう音をやめてしまったわけではない。
ただ、今は沈黙の中に、その響きを抱いているだけだ。
深く、やわらかく、何も言わずに、すべてを照らすように。