泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風が通り過ぎたあと、草むらの奥に残るひとすじの音。

誰の足跡でもなく、誰の名でもない記憶が、空気のなかに溶けていく。

光の粒が揺れるたび、まだ見ぬ水の匂いが胸の奥をくすぐる。

歩みは、声にならぬ歌を踏みしめていく。
その先に、名前のない風景が静かに待っていた。


0378 水の精が歌う銀の小径

翡翠のように濁りを知らぬ水が、音もなく岩を撫でていた。

ひたすらに澄んだ流れは、目で追えば追うほど輪郭を失い、やがてこちらの存在までも溶かしてしまいそうだった。

 

川辺に立つと、足元の草はひそやかに揺れ、風にほどける水の匂いが鼻先をくすぐった。

甘さと青さのあいだを漂う香り。

そのなかに、遠い昔に聴いた歌のような気配があった。

 

浅瀬では、滑らかな石が幾重にも重なり合っている。

指でなぞると冷たく、やわらかく、どこかしら骨のような質感を持っていた。

それらの石の隙間から、名も知らぬ水草がしずかに揺れ、陽の光を受けて銀の糸のようにきらめいている。

 

水の中には声がある。

耳では捉えきれぬほど微細で、それでいて肌の内側にまで染み込んでくるような、響きの粒。

胸に手をあてれば、その律動に重なる何かがあった。

それは鼓動のようでいて、少し違った。

まるで、かつて一度だけ触れた優しい名前のように、深く懐かしく、響いていた。

 

陽は高く、空は張り詰めるように青い。

けれどその光には刃のような鋭さはなく、すべてを許すように、ただ静かに降り注いでいた。

 

濡れた砂の感触が足裏に残る。

かすかに沈み込むたび、小さな泡がはじけ、そこに閉じ込められていた微かな記憶が風に乗って解き放たれる気がした。

一歩ごとに足もとが明るくなる。

それは太陽の反射ではなく、なぜだかこの川そのものが光を宿しているようだった。

 

川沿いに延びる細道は、誰に踏まれたでもないのに、たしかにそこに在る。

草のかたちが揃って外へ傾き、歩を進めるたびに、風の流れが変わる。

道の先に何があるのかは分からない。

それでも、戻ろうとは思わなかった。

 

小径の傍らには、名も無き白い花が群れていた。

触れれば崩れてしまいそうなほど儚く、それでいて芯の通った美しさがあった。

指先が触れぬように、そっと視線を落とす。

その瞬間、どこからか一滴の水音がした。

 

静けさの奥に、何かが棲んでいる。

それは決して目に見えず、言葉にできず、ただ確かにこの地を護っているものだった。

ここに在る水は、空に戻らず、地に沈まず、永遠にこの流れのなかにあり続けるのかもしれない。

その思いが胸の奥でふと立ち止まり、そっと息をついた。

 

鳥の羽ばたきが一度だけ空気を揺らし、すぐに静けさが戻った。

その揺らぎのなかで、川面に影がひとつ揺れた。

目を細めて見つめると、それは人のようでいて、そうでないような。

輪郭のあいまいなその影は、しばし水のうえに佇んでから、風とともに消えていった。

 

指先に残る冷たい石の感触と、水に濡れた花の匂い。

そして、何かに呼ばれたような心の震え。

すべてが、ひとつの旋律のように胸の奥に織り込まれてゆく。

 

やがて、川は音もなく曲がり、道はそのまま森の奥へと吸い込まれていった。

その境目には、淡く光る霧が立ちこめている。

音も色もすべてを飲み込むような、静寂の入口。

 

けれど、怖れはなかった。

 

一度だけ、足元の小石がかすかに鳴った。

それはまるで、小径そのものが歌ったような、透明な響きだった。

 

霧のなかへ一歩踏み入れると、空気がひんやりと肌にまとわりついた。

そこには温度というよりも、記憶のような冷たさがあった。

はじめて触れるのに、どこか懐かしい。

言葉にならぬ感覚が、肩越しにそっと呼びかけてくる。

 

視界は淡い白に包まれて、近くの葉の形さえ曖昧になる。

けれど、音だけは消えなかった。

遠くで水が歌うような細やかなさざめき。

葉がこすれ合う音。

足もとに転がる石を踏む音。

 

霧のなかの音たちは、ふだんよりもひとつひとつがくっきりと耳に届き、それらがどこか不思議な規則で呼応しているのがわかる。

水の精が、見えない指でこの世界を奏でているようだった。

 

そのとき、霧の奥から細い光が差し込んだ。

ひとすじの光が、まるで道しるべのように落ちている。

足もとは丸みを帯びた苔の丘になっており、やわらかな緑に靴の重さが吸い込まれていく。

足を下ろすたびに、小さな露がはじける。

それは静かな祝福のようでもあり、別れのようでもあった。

 

やがて霧がゆっくりとほどけていく。

それは風の仕業ではなく、水そのものが息を吐いたような、しずかな動きだった。

 

前方に、小さな橋が見えた。

それは人の手によるものか、それとも石や木が時の流れの中で自然に寄り添っただけなのか、見分けはつかなかった。

橋の下では、川がいっそう澄んで、音もなく流れていた。

水底には銀色の砂がしきつめられ、その粒が揺らめくたび、まるで星が眠っているかのように瞬いていた。

 

橋の真ん中まで来ると、空がひらけた。

広がる空には雲ひとつなく、ひたすらな青の果てに、かすかに白い円が浮かんでいた。

それは太陽の名残か、あるいは水の記憶か。

ただ、言えるのは、この空の青さが、水の流れと同じ色をしていたということ。

 

橋を渡りきったところで、振り返ると、霧はすでに跡形もなく消えていた。

音も匂いもすべてが澄みきって、ただひとつ、流れる水の声だけがそこに残されている。

 

木々のあいだから、光がまっすぐに射し込んでいる。

葉の裏側に集まった朝露が、その光に貫かれて、虹のようにゆらぎ、そして溶けた。

それはほんの一瞬の出来事で、けれど心に長く滞る、深い沈黙をともなっていた。

 

川辺にしゃがみ、手を伸ばして水をすくった。

掌にのった水は限りなく透明で、なにも映さなかった。

それでも、胸の奥でなにかがひとつほどけるのが分かった。

 

ひとしずく、唇にふれる。

冷たく、甘く、すぐに消えていった。

だがその短い接触は、声のない詩のように身体に残り、奥深くでずっと響きつづけていた。

 

振り仰いだ空には、もう昼の光が満ちていた。

時間という言葉が意味をなさなくなるほどに、この場はひとつの響きの中で満ちていた。

 

その響きに名はなかった。

ただ、光と水と草と風とが、互いを打ち消さずに存在していた。

そしてそのなかに、自分の気配も、音も、ゆるやかに溶けていった。

 

銀の小径はまだ先へとのびていたが、もうそれを追う理由はどこにもなかった。

流れの音が、すべての問いに応えてくれていた。

 

風がふたたび草をゆらし、水面に細かな輪が広がる。

そのひとつひとつが、まるで別れのうたのように感じられた。

 

けれど、胸に満ちたのは、ただひとつの感情ではなかった。

どこかに、かすかな始まりの気配があった。

言葉にならないまま、その気配は静かに水のなかへと溶けていった。

 

そして、ふたたび歩き出す。

光のなかで水が笑っていた。




水はすでに遠く、けれど耳の奥ではまだ、名もない旋律がほどけ続けている。

指先に残る冷たさと、胸の奥に沈んだ静かなひかり。
振り返れば何もなく、それでも、たしかにそこに在ったものがある。

あの澄んだ空、銀のように流れる小径。

心のどこかでずっと、やさしく響き続けている。
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