泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風が最初に触れるのは、誰の肩でもなく、誰の記憶でもなかった。
眠るように傾ぐ梢の向こう、まだ誰の足も踏み入れぬ白が、無音のままひらかれていた。

空はひどく遠く、それでも地に触れようとする光が、斜めに落ちていた。
あらゆる色が息を潜め、ただ雪だけが、今あるかたちを受け入れていた。

足音がないということは、すべてがすでにそこにあったということかもしれない。


0384 嵐の背を駆ける雪獣の楽園

風の音がまだ骨に届くよりも先に、白の世界はすべての色を沈黙に吸い取っていた。

梢の影が雪の帳に沈み、遠くの峰は輪郭を捨てて霞の向こうに消えていく。

吐く息は宙に触れるたび細い糸となり、ほどけながら空へ昇っていった。

 

足裏が斜面をとらえるたび、柔らかな圧が膝を押し上げた。

雪は乾いていて、細かく、きしむような音だけが時折、耳をくすぐる。

それは音ではなく、まるで言葉を失った声のようで、山そのものが記憶を振り返るように、微かに響いていた。

 

斜面に刻まれる足跡は、あっという間に風にさらわれて消える。

歩いたという痕跡すら、すぐに白に戻る。

振り返るたび、何もない。

ここにいたという事実が、ただ風の背にだけ抱かれていく。

 

冷たいという感覚よりも先に、指先はその存在を薄めていき、やがて手は雪と同じ素材になるようだった。

 

ひとつの稜線を越えた先で、風は急にその音を変えた。

低く、うねるような呼気。

それは遠い嵐の胎動のようでもあり、あるいはこの大地の奥底から湧き上がる獣のうなり声にも似ていた。

 

空は厚い翳りを孕み、それでも光の残滓は、ところどころ斜面に微かな銀を落としていた。

吹き上げる雪の粒が光に触れると、その一瞬だけ、空中に目には見えない細工が浮かび上がる。

それは誰にも読めない古い言葉のようで、あるいはこの雪域に棲むものたちだけが知るしるしであったのかもしれない。

 

樹々の間を縫って歩く。

葉を落とした梢が重くしなり、風が通るたび、雪をまとうその姿は

まるで白い毛皮を纏った獣のようだった。

 

静寂があるのではなかった。

耳に届くものすべてが、あまりに遠く、あまりに柔らかいため、沈黙に包まれていると錯覚するだけだった。

本当は、どこかで確かに呼吸があり、足音があり、体温の揺らぎがあるのだ。

 

斜面の先に、ひとつの広がりがあった。

風がそこで身をひるがえし、雪の粒を舞い上げる。

陽の光が一瞬、雲の隙間から差し込むと、そこには、名もない光の都が立ち上がった。

 

雪だけで築かれた輪郭のない街。

尖塔も、壁も、門もないが、確かにそこには「かたち」の気配があった。

 

白に沈むその空間は、音を持たぬ音楽のようだった。

風がひとたび静まると、雪はまるで宙にとどまり、時間そのものがわずかに遅れ、光に追いつかれるのを待っていた。

 

足を踏み入れた瞬間、雪面の硬さが変わる。

どこかで吹き溜まったのか、表面は薄く凍り、その下にある柔らかな層を足が探りながら進む。

ひざの裏に緊張が走り、息を吸うたびに胸の奥まで冷えがしみ渡った。

それでも、痛みではなかった。

むしろ、すべての感覚が澄んでいくような、自らが透明な構造の中に解かれていくような感触。

 

視線の端で、何かが動いた。

枝の先か、風の揺らぎか、あるいはこの雪域に息づくものの影か。

 

遠くの尾根を、白いものが駆け抜けた。

それは幻だったかもしれない。

しかし、確かに雪は巻き上がり、音もなく地に戻っていった。

 

四肢を広げ、雪の中に身を伏せた跡がある。

円を描くように周囲を踏みならした小さな起伏、雪獣がここで身体を沈め、空を見上げたのだろうか。

 

彼らは風の背を走り、この地に住むあらゆる輪郭の間を縫って移ろう。

言葉を持たず、目にも留まらぬ速さで、ただ、雪が雪であることを祝福するように。

 

あの白き影たちが現れるのは、嵐が来る前のわずかな時だという。

気流が裂ける音、重たく垂れ込める雲の隙間から

微かな蒼の光が射す頃、彼らは現れ、すぐに去る。

 

そして、空が落ちる。

 

急激に温度が沈み、風の速さが身体を追い越し、呼吸が奪われる。

 

それでも歩みは止まらない。

理由などはとうに忘れた。

ただ、白の中にある何かが、まだ名づけられていない何かが、そこに確かにあると知っている。

 

雪面に膝をつくと、微かな反響があった。

この世界の深いところが返した、かすかな鼓動のような揺らぎ。

 

光都はすでに、また別のかたちをしていた。

斜面の角度、風の通り道、雪の厚さ、すべてがわずかに変化するだけで、街の姿は別の夢へと移ろっていく。

 

風がいま、背を押した。

それは何かを促すようでもあり、ただ共にあろうとする静かな呼び声のようでもあった。

 

深く、白い息を吐いた。

それは空に溶けて、見えなくなった。

けれど確かに、その吐息の先に、まだ歩いてゆける道があった。

 

雪獣の影は、すでに次の峰を越えている。

嵐の鼓動が、その後を追っていた。




いずれ雪も、風も、光さえも、すべて流れに沿って遠くへ消えていく。

残るのは名を持たぬ輪郭と、耳の奥に微かに残る、音なき響き。
たしかにあった、という確証すら、やがて白に呑まれてしまうだろう。

それでも、その一歩は、ただ静かに、次の光を待っている。
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