泡沫紀行   作:みどりのかけら

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目を閉じれば、まだあの音が聴こえる。
土を踏みしめる足の裏、木々の葉がこすれ合う、風の微かな歌。
名もなく通り過ぎた景色たちが、なぜか心のどこかで今も生きている。

冷たさと温もりが交じり合う空気の中で、ふと立ち止まった瞬間、何かが始まっていたことに、あとから気づく。

それは、あまりにも静かで、あまりにもやさしい、はじまりの気配だった。


0385 風と森が語る始まりの物語

陽はまだ高く、空には淡い光の鱗が浮かんでいた。

緩やかな斜面を登りきった先、風の抜ける尾根に立つと、木々が音もなく揺れた。

肌に触れる風はすでに夏の輪郭をまといながらも、どこか名残の冷たさを含んでいた。

背中に落ちる汗が乾くたびに、音のない時間が肌の奥に沈んでいく。

 

歩き出すたび、足裏が踏みしめる土は柔らかく、踏むたびにかすかな低い音を立てた。

鳥の声も、葉擦れも、遠くでさざめく水の気配も、すべてが重なり合って一つの響きを織りなしている。

 

細い獣道のような小道を進む。

空へと抜ける木々の梢は深く、陽の光は裂け目のように斜めに差し込んでいた。

ひとつひとつの光の筋が、宙に浮かぶ微粒子を照らし、その軌道の向こうに何かが棲んでいるような錯覚を抱かせる。

 

苔むした岩の並ぶ場所に差しかかると、空気は一段と冷たく澄んだ。

岩肌から滲み出る水はしずくとなり、ゆっくりと苔を伝って落ちる。

その音を、鼓膜で聴くのではなく、骨の奥で聞いているような感覚がある。

 

風は止み、森が深く呼吸を始めた。

そのとき、ひとつの匂いがした。

湿った木の皮、裂けた枝の樹液、熟れかけた果実の皮を割ったような、甘く濃密な夏のにおい。

目の奥に、まだ見ぬ何かの影が揺らいだ。

 

やがて開けた場所に出る。

風が戻り、金色の草が一面に揺れていた。

草の背丈は腰ほどもあり、その中を歩くと葉が腿を打ち、音にならないざわめきが脚に絡みついた。

時折、虫の羽音が間近で響き、姿を見せぬ何かがすっと草をかき分けていく。

 

目を上げると、遥か先にうっすらとした影のようなものが見える。

それは森のさらに向こう、光の向こうにあった。

けれど、何かが呼んでいるのではないかという感覚が、胸の奥で静かに波紋を広げた。

 

草原の向こうには、再び木々が待っていた。

今度は背の低い針葉の森。

土は乾き、枝の先端から夏の陽を受けた香りが漂う。

ふと、地面に落ちた影が揺れ、そこに小さな羽虫が群れていた。

羽ばたきのたび、微かな虹色を放っては、また闇の粒子へと戻っていく。

 

森の奥へと足を進めると、湿り気の少ない風が服の布をすり抜け、首筋にひとすじの汗を伝わせた。

樹々の間を縫うように歩きながら、ふと、遠くで何かが崩れたような音がした。

落ちたのは枝か、岩か、それとも名も知らぬ獣の影か。

 

しばらくして、水の音が再び現れた。

今度は細く、高く、銀の線を描くような清らかな響き。

足元に目を落とせば、ひっそりと流れる小川があった。

水底の小石はまばゆく、すべてが一瞬の中に封じられているようだった。

 

指を水に差し入れる。

冷たさに手が震え、そして、その震えさえも水に溶けていくようだった。

 

水辺に腰を下ろし、ひととき耳を澄ます。

何も語らぬ森のなかで、語らぬものたちの声が確かにそこにあるように思えた。

 

水音が遠ざかるにつれ、木々の間に静寂が戻った。

立ち上がり、足を踏み出す。

濡れた指先に残る水の感触は、すでに空気に紛れ、ただ冷たさの記憶だけが皮膚の奥に沈んでいた。

 

森の表情はゆっくりと変わっていく。

葉の色が深まり、幹の間隔が広がる。

風が抜けるたび、どこかで実の落ちる音がした。

乾いた音ではなく、熟れきった果実が草に沈むような、やわらかな響き。

 

苔の絨毯を踏みしめながら進むと、ふいに目の前が開けた。

そこには、まるで時間から忘れられたかのような、静かな丘があった。

丘の斜面には細かな花々が咲いており、風に揺れるたびに色が移り変わる。

青、白、淡い橙、そして名もない緑の影。

 

ひとつひとつの花が、まるで耳を傾けるように風のほうへ顔を向けている。

その姿に、言葉ではない何かが心の底でゆっくりと鳴った。

 

丘を登る途中、風が再び強くなった。

空の高みから降りてきた風は、草を裂き、葉を巻き上げ、耳元でかすかにささやいた。

 

その声は意味を持たなかった。

けれど、意味よりも確かで、どこか懐かしいものだった。

 

丘の頂で立ち止まる。

背後には歩んできた森と、金の草原と、緑の谷。

前方には、さらに深い森が続いていた。

けれど、その先に、光の壁のようなものが見えた。

空と森のあわいに、霧でもなく雲でもなく、ただ静かに立ち昇る白い光。

 

しばらく立ち尽くし、目を閉じる。

まぶたの裏にも、あの光が静かに焼きついていた。

 

足を進めるごとに、空気の密度が変わっていく。

葉のざわめきは薄くなり、代わりに、何かの余韻だけが耳に残った。

森の深部へと近づくにつれ、光は淡く、けれど確実に強まっていった。

 

足元の道はやがて、ほとんど輪郭を失っていた。

草と土と落ち葉が交じり合い、どこからが道で、どこからが森なのか、見分けのつかないまま歩みだけが続いていく。

 

すると、ふいに風が止まり、すべての音が消えた。

 

その瞬間、木々の隙間から光がこぼれた。

それは言葉の届かない静けさで、目の奥を照らした。

しん、と音がするような無音の光。

どこかで見たことがあるようで、決して触れたことのない、始まりの気配。

 

立ち止まり、息をひそめる。

草も葉も、風のように揺れたまま、時だけが止まっていた。

 

歩いてきた道も、越えてきた丘も、すべてがその光のなかに静かに吸い込まれていくようだった。

 

光は、声なき声で語っていた。

 

そして、森もまた、風もまた、何かを思い出そうとしていた。




何も持たずに、また歩きはじめる。
光の粒が肩に落ち、草が道を塞ぐたび、その先に続くものの輪郭がぼんやりと立ち上がっていく。

記憶に残るのは、ただひとすじの風の匂い。
耳をすませば、あの森のざわめきがまだ遠くで眠っている。

すべてがそこにあって、すべてがどこにもない。
それでも、確かに何かが響いていた。
そしてそれは今も、深い静けさのなかで続いている。
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