泡沫紀行   作:みどりのかけら

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木々のあわいに風が通る。

まだ色を帯びぬ空のした、ひとすじの光が土を撫で、静かな呼吸を呼び覚ます。
枝の先で羽音がほどけ、音のない調べが、しずくのように降りてくる。
名もなき一日がはじまるたび、命はそっと姿を変えてゆく。

それは気づかぬほどにゆるやかで、けれど確かな、ひかりのめざめ。
ただ、歩みの先に広がるそれだけのことが、なぜか胸の奥に触れてくる。


0389 小さき命の歌が響く羽の隠れ里

ひとすじの小径が、斜面を這うように続いていた。

陽を抱いた草が、音もなく揺れては、靴の縁を撫でる。

木々のざわめきは風の書く手紙のように、胸の奥の見えない場所へそっと届く。

 

水音が下から聞こえてきた。

音と匂いはよく似ている。

ひとつは土の奥深くで眠る雨の記憶、もうひとつは今、ここにある目覚めのしずく。

落ち葉の下を通る水脈が、細い銀の糸のように顔を出しては、また消えていく。

 

枝先に小さな影が舞い降りた。

それは羽のようでもあり、花びらのようでもあった。

眼差しをあげれば、声なき声が空を跳ねていく。

澄んだ響きが空に刺さり、やがて淡く消えた。

 

日のあたるところには、ささやかに苔がひらいていた。

そのやわらかな緑の中で、音もなく眠る羽根がひとつ。

白とも灰ともつかぬその軽さは、指で触れることさえためらわれる。

風が吹けば、それは呼吸のように揺れ、あたりの気配を微かに染め変えた。

 

小屋のようなものがあった。

いや、もっと素朴で、もっとかすかな存在。

草と蔦に抱かれ、木の皮のように風景に溶け、見逃せばただの茂みに見えるかもしれない。

けれど、近づくほどにそこには輪郭があった。

扉らしき板は斜めに掛けられ、窓らしい隙間からは、光が迷い込むように差している。

 

内側は、静けさの濃い香りに満ちていた。

天井から垂れる草の網が、光を優しく濾過し、木漏れ日のような夢をつくっている。

いくつかの巣箱が、丸い影を落としていた。

そのなかのひとつに、微かに動くもの。

羽音もなく、ただ、あたたかな気配がそこにある。

 

土の床には、種子と、小さな羽根の模様が刻まれていた。

誰かの手がそれを描いたのではなく、時が静かに形づくったような、滲んだ輪郭。

踏みしめることがためらわれ、足を留めた。

外では、声なき合唱がはじまっていた。

ことりたちの囀りは、歌ではない。

それはただの存在の証明、ひとひらのいのちのことば。

けれど、耳を澄ませば、それは胸の奥に触れた。

 

指先に、小さなものが降りた。

見れば、まだ羽の開かぬひとひらのいのち。

透きとおったその体温が、指の腹に染みわたる。

持ち上げるでもなく、払いのけるでもなく、ただ、そこにあることを受け入れるしかなかった。

この小屋には、そうしたものが息づいていた。

誰にも見せびらかされることなく、静かに、慎ましく、光と音に寄り添いながら。

 

やがて、影がゆっくりと流れはじめた。

日は少し傾き、空の色がやわらかく変わっていく。

どこかで小さく葉が鳴った。

それは別れでもなければ、到達でもない。

ただ季節が、またひとつ羽ばたいたにすぎない。

 

小屋をあとにすると、風の向きが微かに変わっていた。

背を押すでもなく、引き留めるでもなく、ただ森の奥からのほうへと静かに道を指し示すような気配。

土の道はしっとりと湿り、ところどころに落ちた花びらが、まるで息をひそめた灯火のように散らばっている。

あれは昨夜の雨の名残か、それとも誰かの見えない祈りのかたちか。

 

谷あいに降りると、空気が一層やわらかくなった。

水の声が近づき、時おり細い霧が肌をかすめる。

そこには、光の届かぬ静けさがありながらも、命は確かに満ちていた。

音ではなく、気配としての命。

風に乗って流れてきたのは、細く澄んだ羽音。

それはひとつではなく、重なり、ほどけ、また織りなされる音の繭だった。

 

ある一角に、木々のあいだを切り裂くように光が差していた。

まるで時間そのものが枝を裂き、季節の芯に手を差し入れたかのように、まっすぐで、迷いのない光。

そこにひとつ、小さな鳥影がとどまっていた。

胸元の羽がほんのりと黄に染まり、かすかな鼓動が羽毛を震わせる。

 

一歩、また一歩と近づくごとに、音の層が変わっていった。

羽ばたきではない、囀りでもない、ただ、存在が震える音。

草が揺れ、空気が重なり、森全体がこの小さき命を祝福しているようだった。

 

何かがふと、胸の奥で静かにほどけた。

名前もない感情だった。

言葉になればこぼれてしまうような、薄明の中でだけ生まれる、やわらかなざわめき。

それを抱いたまま、目を閉じる。

まるで、自らがひとつの羽となり、そよ風に溶けていくような心地。

 

目をひらけば、ことりはもういなかった。

ただ枝がひとつ、揺れていた。

そこにいたことを告げるでもなく、いなかったことを否定するでもなく、ただ、そこに風が触れただけのように。

 

辺りには、小屋のようなものがいくつか点在していた。

木の幹に沿って作られた、掌にのるほどの巣。

枝と葉と、細い草の繊維で編まれたそれらは、いずれも、気配だけで存在を主張していた。

ここには人の手が触れた痕跡がない。

すべては、見えないままに受け継がれてきたかのような、微細な調和のうえにあった。

 

遠く、響きが聞こえた。

低く、深く、そして限りなく透明な音。

地面の奥からでも、空の底からでもなく、自身の奥からひびいてくるような。

それが何なのかを問うことはしなかった。

ここでは、問いも答えも、最初から風の中にほどけてしまう。

 

やがて道は、また上り坂へとかじを切った。

背をまるめて登るたび、風が背中をそっと撫でていく。

このまま足を止めれば、春の中に沈んでしまいそうな錯覚すら覚える。

けれど、歩くことは止まらない。

理由はない。

ただ、小さな命たちの歌が、まだ耳の奥に響いている。

それは記憶ではなく、今この瞬間の脈動だった。

 

振り返っても、もう小屋は見えなかった。

草が道を覆い、風があらゆる痕跡を平らにならしていく。

それでも、あの羽の感触はまだ指に残っていた。

軽く、淡く、そして確かに、あたたかかった。

 

しばらく歩いたあとで、ふと足を止めた。

目の前に咲いた、一輪の小花が揺れていた。

そのまわりを、またひとつ、小さな羽が舞っていた。

音はなく、けれどたしかに、その存在は歌っていた。

名もなき命たちの、名もなき春の讃歌。

その響きに、深く、静かに耳を澄ませた。




風がやむと、森はまた音を忘れる。
枝の揺らぎも、水のささやきも、みなひととき、眠るように沈んでいった。

誰のためでもない命の調べが、空にほどけて、やがて土へと還っていく。
歩みはもう止まっているのに、どこか遠くで羽ばたく気配があった。
その余韻がまだ、耳の奥に揺れている。

何も変わらぬ風景のなか、ただひとつ、見えぬものが確かに芽吹いたことを、足もとの草が知っていた。
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