泡沫紀行   作:みどりのかけら

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凍てついた空気が胸の奥まで染み入り、言葉の届かぬ世界が広がっていた。

そこは白と蒼のはざま、沈黙だけが息をする湖畔。

歩み寄るたび、時間の輪郭がほどけていく。
記憶さえ凍りつく夜に、月が静かにすべてを抱いていた。


0039 蒼き月の湖

 

水音すら凍てついた世界に、ひとつの湖が息をひそめていた。

その静けさは、永遠という言葉を持ち出すのがためらわれるほど完璧で、まるで時間の輪郭さえ曖昧になる。

空気は結晶のように鋭く、吐息を白い羽に変えて舞い上がらせた。

 

雪を踏みしめる音が、唯一の律動だった。

 

それは遠い遠い昔から続く足取りのようで、わたしの旅もまた、その一節にすぎないのだと知れた。

 

森を抜けた先、突如として世界が開けた。

月光の祝福を受けて広がる鏡の湖。

風ひとつない夜、湖面は銀の羽毛を敷き詰めたような、異界の肌だった。

そこには影も音もなく、ただ一筋の光が、蒼白く横たわっていた。

それは天の底が裂けてこぼれた、月という名のやさしい悲しみだった。

 

辺りを囲む木々は深く眠っていた。

 

葉を落とした枝は無言の詩のように空を指し、霜に縁取られては星の名残りを抱えていた。

誰もが夢を見ているような世界だった。

いや、夢に見るにはあまりにも精緻で、触れれば壊れてしまいそうな確かさがあった。

 

白く凍った岸辺を、わたしは一歩ずつ踏みしめて歩いた。

薄氷の下に閉じ込められた過去の季節たちが、足音に震えていた。

彼らは語らない。ただ、月を抱きしめたまま眠っている。

音もないのに、胸の奥で何かが鳴っていた。

それは、言葉ではとうてい辿りつけない感情の名残だった。

 

ふと、雪の上に一本の獣の足跡を見つけた。

蹄のような、けれどもどこか人の指先にも似たそれは、岸辺から湖の中央へと向かい、やがて氷の下に消えていた。

その先に何があったのか、誰も知らない。

だが確かに、誰かがこの湖を見つめた痕跡だった。

それを思ったとき、ひとしずくの温かさが胸に落ちた。

わたしもまた、この湖の記憶の一部になれるのだと。

 

空を見上げると、月は大きく、近かった。

 

その蒼さはまるで、あらゆる喧騒を赦し、すべてを沈黙の中で包み込むような深さだった。

水でもなく、石でもなく、火でも風でもない、ただ静けさそのものの姿。

それが、空にかかる月だった。

 

湖面には、もうひとつの世界があった。

上下の区別も曖昧な、裏返しの現実。

月がそのまま沈み込んだ世界。

けれどそこでは、月は欠けることなく、常に満ちていた。

 

終わることのない光。

始まりを持たない夜。

 

永遠とは、こういうものなのかもしれないと思った。

 

しばらく歩くと、湖のほとりに、白い岩があった。

それは雪に埋もれてなお、輪郭を失わず、冷たさの中に不思議な温度を湛えていた。

 

腰を下ろし、目を閉じると、

 

森の気配、氷の呼吸、雪の重みが、ひとつになって肌に触れた。

 

音も色もないのに、あまりに多くのものがそこにあった。

それらは、遠くの星が語りかけてくる言葉に似ていた。

聞き取れずとも、胸の奥に届いてくる音。

 

どこからか、風が吹いた。

 

一枚の雪片が、ゆっくりと宙に舞った。

そして湖面に触れ、波紋も残さず溶けていった。

この湖はすべてを受け入れる。

存在を、記憶を、そして忘却すらも。

 

そのとき、わたしは思った。

 

この風景に名は要らない。

 

誰かに伝える言葉も要らない。

 

ただ、ここに居たということだけが、永遠の証だった。

月は変わらずそこにあり、湖はその姿をただ映していた。

何も語らず、何も求めず、ただ、そこに。

 

この地には、時間を重ねることを拒むような冷たさがあった。

けれどそれは決して拒絶ではなく、選ばれた静けさだった。

物語を語らぬことによって語られる、確かな記憶。

 

その白の中に、蒼が滲み出す。

蒼は寂しさの色ではない。

満ち足りた孤独の色だった。

 

湖の中央に立つ月影が、ゆっくりと揺らいだ。

それはまるで、湖が呼吸をひとつ吐いたかのようだった。

 

吐く息に込められた、誰かの昔日の想い。

この湖が、記憶の墓標なのだとするなら、

そこに刻まれる名は、すべて白の中に消えていく。

 

けれど消えることと、忘れることは違う。

白く覆われた世界の下で、すべては眠り、決して失われない。

 

風がまた、ひとひら雪を運んできた。

それはわたしの肩に触れ、まるで囁くように溶けていった。

 

どこまでも静かだった。

 

その静けさは、目を閉じるほどに深く、耳を澄ますほどに色を増す。

ここには誰もいない。

けれど誰かが、確かにここにいた。

 

わたしは立ち上がり、もう一度月を見上げた。

その姿は変わらず、ただ静かに、白の記憶を照らしていた。

 




名もない湖は、ただそこに在ることで、すべてを語っていた。
歩くほどに遠ざかるのではなく、沈黙の奥に近づいていく。

記憶も声もいらない。

ただ、あの蒼い光のもとで見つけた静けさだけが、永遠に胸に残り続ける。
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