泡沫紀行   作:みどりのかけら

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草が光をまとい始めるころ、風は何も語らず、ただ低く地を這っていた。
どこから来て、どこへ向かうのかを、誰も問わない。
踏まれた草は静かに身を起こし、空に透ける雲はかたちを変える。

ある日は影が長く、ある日は空が遠く、ある日は土の匂いが深い。
それらをひとつずつ胸に受けながら、季節は音もなくすり抜けてゆく。

そして、今日もまた、白い草原の上を、風が通り過ぎた。


0390 白銀の草原を駆ける風の騎士たち

風が、低く笛を吹いている。

秋の光は磨かれた銀のように澄み、どこまでも続く草原のうねりを、静かに撫でてゆく。

 

靴底に伝わるのは、湿りを帯びた土のやわらかさ。

刈られずに残った背の高い草が、膝をくすぐるたびに、かすかな種子が舞い上がって陽に溶ける。

 

ひと筋の馬の蹄音が、遥か遠くから届いた。

それは音というより、空気に刻まれた鼓動のようだった。

音の主は姿を見せず、ただ風の匂いの中に、毛並みの温かさと汗ばむ革の手綱の気配だけが混じる。

 

ひとつ、深く息を吐いた。

胸の奥まで風が届いて、古いものを攫っていく。

草原の真ん中に立ち尽くすと、肌の表面をなぞる風が、まるで見えない手で導くように、北西の方角を指し示していた。

 

歩き出すたびに、風景が少しずつ表情を変えてゆく。

倒れた草がうねるように生え、背の低い花が、いちめんの薄白を点々と灯している。

小さな飛び跳ねる虫たちが、陽の光を縫って消えてゆく。

 

馬の匂いが、ふと濃くなった。

それは確かな痕跡のように、風の中に一瞬だけ立ち上り、すぐまたかき消えた。

ここを、誰かが駆け抜けていったのだろう。

秋の深まりとともに変わっていく地面の硬さが、かすかな蹄の跡を残している。

 

白銀の草原は、音をすべて飲み込んでいた。

風さえも、どこか遠慮がちに、そっと草の間をすり抜けていく。

陽が傾きかけた頃、視界の奥に、いくつもの小さな影が現れた。

斜めの光の中を、風のように、輪を描いて走る群れ。

 

馬だ。

それもただの馬ではない。

風にとけて輪郭を曖昧にしながらも、踏みしめる地を震わせ、陽光を受けて鬣が白く煌めく。

騎手たちは黙したまま、風の流れを読み、互いに言葉も交わさずに、ただ走っている。

その姿には、力ではない、研ぎ澄まされた意思のようなものがあった。

 

そのうちの一頭が、ふとこちらへ向きを変えた。

視線が交差することはなかった。

だが、たしかに一瞬、空気が震えた。

 

駆けるたびに草原が揺れ、その跡に光の尾が残るようだった。

蹄が空気を裂き、鼓動が胸を打つように響く。

目で追いきれぬ速度の中に、なぜか深い静けさがあった。

 

近づき、遠ざかり、群れは再び風の向こうに消えていく。

やがて草原はまた沈黙に包まれ、ただ、自らの呼吸の音だけが、胸の内に残る。

 

歩みを止めず、草を踏み分けながら進む。

背後に残る足跡は、振り返らぬかぎり見えない。

だがその一歩ごとに、微かな重みが、地に染みてゆくのを感じる。

 

空には、うっすらと月の輪郭が浮かびはじめていた。

昼と夜の境がにじむ、この秋の端境。

見上げれば、空の冷たさに似た微かな切なさが、胸を通り抜ける。

 

草の匂いが、深くなっていた。

遠くで、またひとつ、風の騎士たちの気配が立ち上る。

 

馬の匂いは、今度は湿った苔のような静けさを帯びていた。

風がひとたび止まり、世界のすべてが息を潜めたように感じられる。

空気に満ちるのは、これから始まる何かではなく、すでに過ぎ去ったものの余韻だった。

 

やがて足元に、砕けた白い石が混じりはじめる。

草の間に埋もれかけたそれは、かつて誰かが並べた道の名残なのかもしれなかった。

踏むたびにかすかに音を立て、過去の時間が、小さな振動となって足の裏から伝わってくる。

 

秋は、過ぎ去る季節ではない。

すでに失われたものたちの囁きが、風の形を借りて戻ってくる季節。

胸に触れるそのささやきが、何を求めているのかは、誰にもわからない。

 

再び視界に現れた群れは、先ほどとは違う、より緩やかな動きだった。

馬たちは、今はただ歩いている。

風を受けながら、ひとつひとつの足取りを確かめるように、静かに大地に触れていた。

 

その背にある影たちは、姿を包む布のようなものを羽織り、顔は見えなかった。

けれど、肩の傾きや手綱の持ち方、首の角度には、無言の意志が宿っていた。

誰かに見せるためではない、ただ自らの内に在るものに従うための歩みだった。

 

それが、胸を打つ。

何も語らず、何も奪わず、それでも確かにここに在るということの強さが、心の奥に触れる。

 

やがて彼らのうちの一頭が立ち止まり、残る影たちもまた自然と動きを止めた。

その瞬間、草原の風がまた変わった。

ただ吹き抜けるのではなく、どこか深く、内側に入り込むような流れだった。

 

耳の奥に届くのは、馬たちの静かな鼻息、乾いた草の擦れる音、遠いところで木の枝が揺れる気配。

すべてが、秋という名の静寂に溶けていた。

 

影たちは、何も置いてゆかずに、またゆっくりと動き出す。

馬の脚が地を蹴り、また草の海をたゆたうように進んでいく。

その背に揺れる布が、白銀の陽をうっすらと透かして揺れる。

 

こちらの存在には気づいていたはずだった。

だが彼らは、風と同じように、干渉せず、ただ通り過ぎてゆく。

 

残されたのは、揺れた草と、沈黙。

それだけだったのに、不思議なことに、胸の奥がかすかに熱を帯びていた。

 

足をまた一歩、前へ運ぶ。

すると、見慣れた草の間に、ひときわ白い羽が落ちていた。

風に押され、ひるがえるそれを、思わず指でつまむ。

 

冷たくも、柔らかくもない。

ただ、そこにあるという感触。

羽の先端は、ほんの少しだけ湿っていた。

 

それが、何の羽かは分からなかった。

だが、なぜかとても遠い記憶のような気配がした。

言葉にならない、形にもならない、忘れかけていた感情の輪郭。

 

胸元にそっと収め、顔を上げる。

風の騎士たちの姿は、もう見えなかった。

ただ、草原の地平線の向こうで、陽がゆっくりと傾いていた。

 

遠くで、また風が走った。

見えぬものが駆ける、その静かな鼓動だけを残して。

 

誰のためでもなく、何のためでもなく、ただ風に従い走るその姿が、この秋の草原のすべてだった。




草の上に残るものは、すぐに風にさらわれる。
音もなく、痕跡もなく、ただ柔らかな傾斜が、さざ波のように揺れるだけ。

誰が通ったか、何を置いていったか。
それを覚えているのは、わずかな種と、折れた茎と、沈黙だけだった。

すべてが過ぎたあと、空の色は深まり、ひとつの星が滲むように現れる。
もう声は届かず、足音も聞こえず、ただ夜が、少しずつ満ちてゆく。

そのとき、風はまだそこにいた。
草を撫で、耳元をかすめ、遠い遠い方角へ、何かを運んでいた。
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