泡沫紀行   作:みどりのかけら

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しずくのように降る光が、葉の重なりの隙間から、静かに肩を濡らしていた。
その瞬きは、遠い記憶の奥に沈んだ、まだ名を持たぬ春のはじまりを思い出させる。

足音は苔に吸われ、風はただ、なにも問わずに通り過ぎる。
あらゆる音が、まだ生まれきらぬ言葉のようで、誰のためでもない空白が、ただ、やわらかく満ちていた。


0391 翠風に誓いし英傑の祠

芽吹きの声が、土の深くから湧き上がるようにして聞こえていた。

声なきそれらは、足元に絡みつくような匂いをまとい、やわらかな冷たさで踝を撫でてゆく。

湿った苔の絨毯が、歩を進めるたび、ほんのわずかに沈み、空気が小さく震える。

 

木々はまだ若く、葉先のすべてが光を求めて掌を開いていた。

翠の濃淡が空を隠すほどに降りそそぎ、葉脈の一筋一筋までもが瑞々しい呼吸をしている。

その中に、風は音もなく滑り込み、まだ名もない草花の額を撫でては、どこかへ去っていった。

 

苔むした石段が、不規則に緩やかに続いている。

一段ごとに踏みしめるたび、刻まれた時の層が靴裏に染み入ってくるようで、肌の奥がひんやりとした。

足を止めれば、鳥の羽音と、遠くで折れる枝の細い音。

すべてが息を潜め、待ち構えているようでもあり、何も意識していないようでもある。

 

風に乗って、どこかで水の匂いがした。

澄んだ流れではない。苔や土の記憶をまとった、あたたかな湿り気。

それが春の訪れであると知るのは、骨の奥で眠る感覚だった。

指先で木の幹を撫でる。ざらりとした皮の感触が、なぜか心のどこかを整えてゆく。

 

息を吐くと、視界のすべてがゆっくりと膨らんだ。

光と影の間に見え隠れする、古びた祠がある。

それは、呼吸の合間にだけ確かに存在しているようで、視線を凝らすたびに遠のいてゆく。

 

緑の濃さの奥、まるで時の縁に寄りかかるようにして建つその小さな祠には、誰の名も刻まれていない。

扉もなく、屋根の一部は朽ち、わずかに傾いでいたが、そこに漂う空気は、やけに澄んでいた。

 

祠の手前、石が三つ。

それぞれ形も大きさも異なるのに、並び方は不思議と整っていた。

その中央の石に手を添える。

温かくも冷たくもない、どこかしら躊躇するような質感。

長いあいだ誰かが触れてきたような、触れられることに慣れているような石だった。

 

ふと、ひとひらの葉が舞い降りた。

それは音もなく、祠の前でくるりと回り、沈黙の中に吸い込まれていった。

視線を上げると、風が枝を揺らしている。

だが、その揺れは祠の屋根には届かず、まるで空気の層がそこだけ異なっているかのようだった。

 

背後から射す光が、石段をなぞってくる。

その一筋が祠の礎に触れたとき、色彩がにじむように、苔の間から小さな花が咲いていたことに気づいた。

目を凝らさなければ見えないほどの、白に近い薄青の花。

それは、祠の影の下でひっそりと震えていた。

 

掌を地に置き、静かに呼吸を整える。

この場所に眠るものが、何であるのかはわからない。

ただ、時が積み重なったという重みが、やわらかく胸を打った。

 

空を見上げる。

葉の隙間から注ぐ光が、まるで言葉を告げるようにきらめいていた。

その光の中で、なにかが確かに始まった気がした。

 

石の間に生まれた小さな花は、風が吹いても揺れなかった。

周囲の葉がざわめいても、ただその場に、そっと在ることだけを選んでいた。

何も訴えず、何も拒まず、けれど確かにここに咲くべきであったという確信だけを湛えていた。

 

その沈黙の力強さに、胸の内がゆっくりとしぼんでゆく。

音も形も持たぬ記憶が、喉の奥でほどけてゆく。

心がひとつ、空になったようだった。

 

石段の隅に、誰かが置いたのだろうか、小さな木の枝が組まれていた。

粗く束ねられ、細い蔓で結ばれている。

鳥の巣のようでもあり、手向けられた祈りの器のようでもあった。

その中央には、すでに枯れかけた赤い葉がひとつ、静かに伏せられていた。

 

その葉に触れると、指先にすこしだけ粉が残った。

時の名残りか、あるいは誰かの思いのかけらか。

言葉にできぬ感触が、肌の裏を静かに這っていった。

 

風が止むと、森のすべてが一瞬、呼吸をやめた。

そのわずかな沈黙の中に、かすかに、土の奥からの鼓動が伝わってくる。

まるでこの大地自体が、遠い昔を夢見ているかのような微かな波動だった。

 

やがて、再び風がそよぐ。

それはまるで、見えない存在がこちらの気配を受けとめ、応じてくれたかのようだった。

 

祠のすぐ脇、倒れかけた杉の根元に、細い道がのびている。

苔むした地面に、誰かの足が何度も踏み入った形跡があった。

だが、葉は積もり、枝は散らばり、その道の終わりはすでに自然へと呑まれつつある。

 

そこに一歩、踏み出す。

 

地がわずかに沈み、葉の香りが立ちのぼる。

身体が森に溶けていくような感覚。

すでに知っていたはずの何かが、肌を通して戻ってくるような錯覚。

 

やがて、低い岩壁の向こうに、小さな清水があった。

湧き出した水は細い筋となり、苔を伝って地に落ちていく。

その音はあまりにも静かで、まるで祈りのようだった。

 

しゃがみ込み、掌に水を受ける。

冷たさは鋭くなく、指の間からすり抜けながら、どこか遠い記憶に触れた。

まるで、かつてここにいた誰かと同じ所作を、自分も今なぞっているのだと教えられたようだった。

 

顔を上げると、ひとつの影が岩壁に映っていた。

それは木々の揺れによって歪んでいたが、どこか、人の形に似ていた。

風が吹くたび、その影はほんのわずかに手を差し出すような動きを見せる。

けれど、誰もそこにはいない。

 

ただ、水が流れ、葉が落ち、風が巡り、そして光が射す。

 

気がつけば、祠のほうから鳥の声がした。

一声、また一声。

それは名を持たぬ言葉のように、森に染みていった。

 

心に残るのは、音よりも空気の重さだった。

目に見えぬものたちが、この地に確かに生きていた証のように、肌を撫でる風の軌跡があった。

 

もう一度、祠の前に戻る。

傾いた屋根の先から、雫が一滴、石に落ちた。

その音が、小さな鐘のように胸に響いた。

 

視線を伏せれば、あの薄青の花が、ほんのわずかにこちらへと揺れていた。

まるで、何かが伝わったことを、静かに受け入れたように。

 

歩き出す。

振り返ることなく、けれど、心の奥底に確かにその光景を刻みつけて。

 

その背に、やわらかな風が追いかけてきた。

翠の香りを携えたまま、まるで見送るようにして。




振り返らなかった道の奥で、名もなき葉が、そっと揺れていた。

音はすでに遠く、記憶のように輪郭を曖昧にして、ただ、胸の奥に残るのは、
光のかすかなぬくもりと、風が指先に残したやわらかな痕だけだった。

どこからともなく、鳥が鳴いた。
それはもう、春の音ではなかった。
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