音はなく、ただ景色だけが静かに変化していく。
私は、歩いていた。
終わりの見えない草の起伏と、空の底を縫うように並ぶ白い塔の間を。
この世の果てのような場所で、
私はなぜだか、自分の輪郭が少しずつほどけていくのを感じていた。
それが心地よくて、
怖くて、
けれどなぜだか――懐かしかった。
丘を登るとき、背中から押されるような風があった。
音はない。
木々が擦れる音も、虫の羽音も、鳥のさえずりもない。
ただ、風だけが景色の上を滑るように通り抜けていく。
それなのに、視界はかすかに揺れ、
草原の波打つ起伏が、風の存在を告げていた。
足元に咲く花は、どれも背が低く、
風に耐えるためか、葉も茎も密に生えていた。
その小さな花々が、強い風のなかでなお咲いていることに、
私はただ静かに心を動かされた。
歩き続けると、
視界の端から白い構造物が現れる。
それは、塔だった。
遠くから見ると針のように細く見えたそれは、
近づくにつれて、静かに姿を大きくしていった。
均整のとれた、無機質な白い柱。
それが、大地からまっすぐに天を突くように建っていた。
風は、その塔の周りを渦のように巡っていた。
塔のてっぺんに取り付けられた三枚の羽根が、
ゆっくりと、しかし絶え間なく回っている。
その動きに音はない。
いや、あるのかもしれない。
けれど風のなかに溶けて、
私には届かない。
塔は一本ではなかった。
歩みを進めるたび、
白い塔が地平線の向こうから現れてくる。
まるで、風の道を示す標のように、
彼らは一定の距離を置いて、
延々と続いていた。
大地は波打ち、
風は丘を越え、
空はどこまでも高かった。
振り返ると、
自分がどこから歩いてきたのかさえ、もはや定かではなかった。
そこには、ただ風と草と、そして光。
人の気配はなく、
それでいて、すべてが見られているような不思議な感覚に包まれていた。
私は、歩き続けた。
自分が今どこにいて、どこへ向かっているのか。
それはもう、重要ではなかった。
ただ、この風の流れる方向へ――
丘の向こうに広がる光のほうへ、
体の芯が引き寄せられていくのを感じていた。
夕暮れが近づいていた。
空の色が、青から金に変わりはじめる。
それにあわせて、草原の色もゆっくりと変化していく。
黄緑だった草は、陽の角度を受けて、
やがて一面の金糸となって大地を織りあげていく。
私は、その光景に息をのんだ。
目の前に広がるのは、
ただの草原ではなかった。
それは、金色に染まる波の海だった。
塔の羽根が、夕陽を受けて鈍く光る。
その回転が、
まるで時の進みを告げているようだった。
私は、草の中に腰を下ろした。
足を伸ばし、背を預け、空を見上げる。
風が髪を揺らし、
光がまぶたの裏に入り込む。
しばらくのあいだ、
私は何も考えず、ただ風に身を預けていた。
目を開けると、陽は少しずつ沈みかけていた。
空が、赤に染まりはじめている。
それは怒りでも悲しみでもなく、
静かで、優しく、
けれど圧倒的だった。
すべてのものが、赤と金のグラデーションの中に溶けていく。
草も、塔も、空も、風も。
私自身でさえ、その色に包まれて、
境界が曖昧になっていくのを感じた。
まるで、世界そのものがひとつの絵になっていくかのようだった。
時間が、止まりそうになる。
それでも風だけは流れ続けていた。
丘の上をなぞり、
草を揺らし、
羽根を回し、
私の心に触れて、
また遠くへと流れていく。
その風が去ったあと、
何かが私の中から静かにほどけた。
輪郭がぼやけ、重力が消え、
ただこの風景の一部になっていくような感覚。
涙が滲んでいた。
感動とか感傷とかではない。
ただ、この景色の中にいて、
それが――あまりにも完全だった。
私は、その静寂を全身で味わった。
人が描ける美ではない。
自然の理がそのまま表出したような、
完全な、風と光の構図。
やがて、陽が沈みはじめた。
塔の影が長く伸び、
草の色が冷たく変わり、
空の赤が深くなっていく。
金の海は、やがて群青の海へと変わり、
夜が、その静けさとともに訪れはじめていた。
私は立ち上がった。
もう、この光景とは別れなければならない。
けれど、それは寂しさではなかった。
いつかまた、この風の歌を聴きたくなったとき、
私は再びここへ戻ってくることができる。
その確信が、風の中にあった。
塔の羽根はまだ回っていた。
その音のない回転が、
私の背を、そっと押してくれた。
そして私は、歩き出した。
光の消えかけた丘を、
群青の風に包まれながら。
その道に名はなく、
その空に星はまだなかった。
でも私は、すでに灯された何かを胸に感じていた。
それは、確かに“ここにいた”という証だった。
風がすべてだった。
その流れが形をつくり、音を消し、
感情のざわめきまでも洗い流していった。
私は、あの丘にいた。
光の海に包まれ、輪郭を失い、風の一部となっていた。
そこには物語はなかったが、
確かに記憶は残った。
いつかまた、歩いて戻るその日まで、
私はこの静けさを忘れないだろう。