泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風はどこまでも続いていた。
音はなく、ただ景色だけが静かに変化していく。

私は、歩いていた。
終わりの見えない草の起伏と、空の底を縫うように並ぶ白い塔の間を。

この世の果てのような場所で、
私はなぜだか、自分の輪郭が少しずつほどけていくのを感じていた。

それが心地よくて、
怖くて、
けれどなぜだか――懐かしかった。


0004 光の海原

丘を登るとき、背中から押されるような風があった。

 

音はない。

木々が擦れる音も、虫の羽音も、鳥のさえずりもない。

 

ただ、風だけが景色の上を滑るように通り抜けていく。

それなのに、視界はかすかに揺れ、

草原の波打つ起伏が、風の存在を告げていた。

 

 

 

足元に咲く花は、どれも背が低く、

風に耐えるためか、葉も茎も密に生えていた。

 

その小さな花々が、強い風のなかでなお咲いていることに、

私はただ静かに心を動かされた。

 

歩き続けると、

視界の端から白い構造物が現れる。

 

 

 

それは、塔だった。

 

遠くから見ると針のように細く見えたそれは、

近づくにつれて、静かに姿を大きくしていった。

 

均整のとれた、無機質な白い柱。

それが、大地からまっすぐに天を突くように建っていた。

 

 

 

風は、その塔の周りを渦のように巡っていた。

 

塔のてっぺんに取り付けられた三枚の羽根が、

ゆっくりと、しかし絶え間なく回っている。

 

その動きに音はない。

いや、あるのかもしれない。

 

けれど風のなかに溶けて、

私には届かない。

 

 

 

塔は一本ではなかった。

 

歩みを進めるたび、

白い塔が地平線の向こうから現れてくる。

 

まるで、風の道を示す標のように、

彼らは一定の距離を置いて、

延々と続いていた。

 

 

 

大地は波打ち、

風は丘を越え、

空はどこまでも高かった。

 

 

 

振り返ると、

自分がどこから歩いてきたのかさえ、もはや定かではなかった。

 

そこには、ただ風と草と、そして光。

 

人の気配はなく、

それでいて、すべてが見られているような不思議な感覚に包まれていた。

 

 

 

私は、歩き続けた。

 

自分が今どこにいて、どこへ向かっているのか。

それはもう、重要ではなかった。

 

ただ、この風の流れる方向へ――

丘の向こうに広がる光のほうへ、

体の芯が引き寄せられていくのを感じていた。

 

 

 

夕暮れが近づいていた。

 

空の色が、青から金に変わりはじめる。

それにあわせて、草原の色もゆっくりと変化していく。

 

黄緑だった草は、陽の角度を受けて、

やがて一面の金糸となって大地を織りあげていく。

 

 

 

私は、その光景に息をのんだ。

 

目の前に広がるのは、

ただの草原ではなかった。

 

それは、金色に染まる波の海だった。

 

 

 

塔の羽根が、夕陽を受けて鈍く光る。

その回転が、

まるで時の進みを告げているようだった。

 

 

 

私は、草の中に腰を下ろした。

 

足を伸ばし、背を預け、空を見上げる。

 

風が髪を揺らし、

光がまぶたの裏に入り込む。

 

 

 

しばらくのあいだ、

私は何も考えず、ただ風に身を預けていた。

 

 

 

目を開けると、陽は少しずつ沈みかけていた。

 

空が、赤に染まりはじめている。

それは怒りでも悲しみでもなく、

静かで、優しく、

けれど圧倒的だった。

 

 

 

すべてのものが、赤と金のグラデーションの中に溶けていく。

 

草も、塔も、空も、風も。

私自身でさえ、その色に包まれて、

境界が曖昧になっていくのを感じた。

 

 

 

まるで、世界そのものがひとつの絵になっていくかのようだった。

 

 

 

時間が、止まりそうになる。

それでも風だけは流れ続けていた。

 

丘の上をなぞり、

草を揺らし、

羽根を回し、

私の心に触れて、

また遠くへと流れていく。

 

 

 

その風が去ったあと、

何かが私の中から静かにほどけた。

 

輪郭がぼやけ、重力が消え、

ただこの風景の一部になっていくような感覚。

 

 

 

涙が滲んでいた。

 

感動とか感傷とかではない。

ただ、この景色の中にいて、

それが――あまりにも完全だった。

 

 

 

私は、その静寂を全身で味わった。

 

人が描ける美ではない。

自然の理がそのまま表出したような、

完全な、風と光の構図。

 

 

 

やがて、陽が沈みはじめた。

 

塔の影が長く伸び、

草の色が冷たく変わり、

空の赤が深くなっていく。

 

 

 

金の海は、やがて群青の海へと変わり、

夜が、その静けさとともに訪れはじめていた。

 

 

 

私は立ち上がった。

 

もう、この光景とは別れなければならない。

 

けれど、それは寂しさではなかった。

 

いつかまた、この風の歌を聴きたくなったとき、

私は再びここへ戻ってくることができる。

 

その確信が、風の中にあった。

 

 

 

塔の羽根はまだ回っていた。

 

その音のない回転が、

私の背を、そっと押してくれた。

 

 

 

そして私は、歩き出した。

 

光の消えかけた丘を、

群青の風に包まれながら。

 

 

 

その道に名はなく、

その空に星はまだなかった。

 

でも私は、すでに灯された何かを胸に感じていた。

 

 

 

それは、確かに“ここにいた”という証だった。

 

 




風がすべてだった。
その流れが形をつくり、音を消し、
感情のざわめきまでも洗い流していった。

私は、あの丘にいた。
光の海に包まれ、輪郭を失い、風の一部となっていた。

そこには物語はなかったが、
確かに記憶は残った。


いつかまた、歩いて戻るその日まで、
私はこの静けさを忘れないだろう。
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